初恋の実が落ちたら

ゆれ

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虎次と慶

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 病院の待合スペースは、項垂れて長時間座って動けない客がいても日常茶飯事と見做されているようだ。誰も無理に帰らせようとはしない。だからようやく自力でその気になってゆるりと顔をあげると、診察室を出てから優に30分が過ぎ去っていて、さすがに動揺して立ち上がる。
 虎次とらじはひとり住まいじゃない。黙って家を空けていると心配する者がいる。とりあえず今日の仕事は全部片付けてから足を向けたことにだけは、賢明な判断だったと自分で自分を褒め讃えた。とても働ける気分ではない。

 演じた役の都合で肩につく長さの淡い金髪はかなり人目と意識を惹いていた。まばらな客も、看護師たちも、特別待遇で裏口から通してもらったにもかかわらず虎次を気にしている。どういう目的で、結果どんな診断がくだされたかについては医者しか知らない。先のことはよく考えて、慎重に決定してくださいと言われたけれど、選択肢など初めから数えるほどしか存在してなかった。

 手配してからかなり時間が経っているにもかかわらず、場所が病院だからか、所定の位置に駐車していたタクシーの運転手は虎次に何も言わなかった。住所を告げると浅く頷いてドアを閉めただけだ。余程顔面に絶望が色濃く浮き出てでもいたのだろう。相槌を打つのも億劫になる世間話は、目的地に到着するまでついぞ振られることはなかった。有り難い。

「どうも」

 すこし多めに払って赤いテールランプが消失するまで見送り、何とはなしにマンションを見あげる。マスクをして帽子を目深にかぶり、夜だというのにサングラスをかけても、きっとどこかからカメラのレンズが虎次を狙っているのだ。他人の私生活を飯のタネにするなと言いたい。ろくな死に方をしなさそうで自分なら絶対やりたくない仕事。たとえ恋をしていようが、それが何の罪になるというのだろうか。
 不倫や二股ならともかく、ごく普通に一対一の交際をして、それを記者にすっぱ抜かれて、剰えSNS上で延々叩かれて結局別離を選ばされた同業者を何人も知っている。明日は我が身だな、と所属するアイドルグループでは冗談めいて話すけれど、果たして軽口のままにしていていいのだろうか。苦楽を共にしてきたメンバーでも、恋愛事情については殆ど知らない。

 ひとりは昨年結婚した。もうひとりはそれでちょっと荒れているけれど、そっとしておくことでその他のメンバーとは話がついている。既に20代も半ばに到り、互いにいい大人なのだ。夏休みの宿題じゃあるまいし、年上たちが安易に干渉すべきとは思えなかった。
 助けを求めてきたときだけ手を差しのべればいい。すくなくとも虎次はそういうスタンスで、ひとつ下の同僚たち、たから獅勇しゅうと森月翔らいとの仲を見守っていた。

「……ただいまぁ」

 逆を言えば彼らも、虎次の、そして同居人である慶の私生活には踏み込んでこない。デビューして、活動が軌道に乗ってきて、いよいよ退寮すると決定したが虎次のあまりの生活能力の無さに「俺らは同居を続ける」と慶が言ったときだけは、さすがに皆がくちを揃えて「お前がそこまでしなくていい」と止めてきた。でもそれも慶自身が望んだことならと、じきに納得して放っておいてくれている。
 メンバーに勧められるままに、ひとつのマンションの隣どうしやら、フロア違いの上下やらに住んだとして、最終的に殆ど毎日通ってくるのでは無駄が多いと同居に逆戻りしていた気がする。

「ああ、おかえり。お疲れ」

 おなじグループにいても仕事の内容はそれぞれだ。初めこそセット売りしていたが、十年以上も続いていればメンバーがどこで何をしているかもよくわからなかったりする。マネージャーも運転手も複数いるし、月翔などは個人でアシスタントを雇っていると聞いた。無理な追っかけをする過激なファンもいるのだ。虎次のファンもわりとそういう傾向にあるため、苦労は理解できる。
 だから慶も、いちいちどこにいたとは訊かない。腹具合を確認し、虎次には入浴を勧めて、その間に食事か晩酌か、或いは就寝の支度をする。今日は食事は要らなかったので、就寝前の時間を利用し何か常備菜を作っておくらしい。野菜を何種類か見繕い、シンクで手を洗う長身の背中に、虎次は歩み寄ってぎゅっと抱きつく。

 7月の不快な湿気はエアコンに取り除かれて快適だった。薄着の身体からは高めの温度がじんわり染みてきて、安心感に何故か涙がにじんでくる。慶もまた役作りで長く伸ばしている褐色の髪を無造作にまとめるしぐさが好きだった。腰にまとわりつく虎次をむげに振り払わず、「どうしたん」と優しく訊きながら、腕をぽんぽんさすってくれる。

「慶、……あのさ」
「ん?」
「あの……」

 珍しく言い淀み、なかなか前へ進めない虎次に、長身はそっと腕を外させてこちらに向き直った。うまく言葉は紡げないが、習慣で顔を見て仰のく。成長期レースを経てのちグループでも一番の低身長になってしまったため、最高身長の慶と目を合わせるにはどうしても見あげなければならない。首が痛いといつもぶうぶう言う虎次を、慶は笑って「はいはい、こうすりゃいんだろ」と宥める。
 例に漏れず今夜も膝を折って目線を合わせてくれた。だから泣きそうになって、それを見逃してくれる慶じゃないと識っていたので虎次は唇を歪める。まだ駄目だ。平気なふりをしなければ、こんなことは何でもないって思わせなければ、優しい彼を巻き込んでしまう。それは俺の本意ではない。
 
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