初恋の実が落ちたら

ゆれ

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千鶴と獅勇

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 ずりずりと掌でこすりまくり、どんどん勢いを増していく快感にしがみつきつつ、ざらりと視界にかぶさる髪の黒を見るともなく見る。整っているけれど造作が地味だからという事務所の決めた売り出し方で当時は赤く染めていた。業界から去るにあたって生来の色に戻し、あっけなく埋もれた自分のオーラの無さに千鶴はいっそ笑ってしまった。見る眼が確かすぎる。
 獅勇は、この頃はドラマの役柄なのか淡い金髪にしているが華やかな顔立ちによく似合っている。もうどんな色でも我がものにしてしまうのだろう。さすがに仕事のすべてを追うのは無理でも、朝の情報番組に宣伝で出ていたりなどして姿くらいはすこしテレビを見ていれば目に入ってくる。

「はっ、んっ、……ッあ、」

 ぐちゅぐちゅと下卑た水音が大胆になり眼界が明滅を始める。相変わらずうしろに濡れた感じはしなくて、あんなに恥ずかしいほど滴らせていたというのに、すっかり身体が変わったのには何か理由があるのだろうか。腰まわりに纏わりついた熱が解放を求めて性器を膨らませる。きもちいところだけ、記憶の中の獅勇の長い指の残像を見ながら、ぐりっと抉じ開けて快楽の頂点で指になまぬるい体液がぴゅっと飛んだ。

「……はあ、はあ、っは、……あ~~……」

 手癖で残滓まで搾り出し、賢者タイムの所為でなんとも言えない居心地の悪さを味わう。いい加減やめなければならないと思うのになかなか上書きできないからいつまでもこれだ。向こうはとっくに別のオメガと、或いは女の子とよろしくやっているに違いない。しかし言い訳をするつもりはないのだが、こう忙しいとそんな元気も残しておけないのだ。
 うしろで高まる感覚もオメガなのに最早忘れそうだった。ひょっとして俺はこのままベータへと変異するのかもしれない。そんな話は聞いたことがないので記念すべき第一号だ。何の取り柄もない人間だと思っていたが、意外な才能に恵まれてしまっていた。……なんて事はたぶんないのだろう。

 体液を拭って捨て、きれいに手を洗って、寝具を整え直す間すこし部屋の換気をする。元気が出ない時は取り敢えずエロに走れとその昔同業の先輩が教えてくれたけれど、やり方が悪いのか余計に落ち込むばかりだ。女の子に慰めてもらえという意味だったのならたしかにこれでは無意味だろう。生活を顧みても、どう贔屓目に見てみてもとても出会えそうになかった。そしてもう29。

「どうすっかなあ……」

 脱退を決めた時もメンバーにすべて打ち明けて謝罪した時も、獅勇は千鶴にひとことも発しなかった。関係についてすらどこでも言及していない。否定も肯定もせず緘黙してやり過ごした。その賢明さには舌を巻いたし、同時にやはり彼は千鶴のヒートに巻き込まれたただの被害者だったんだなと海より深く反省した。

 抑制剤を飲むと気分が悪くなり、仕事が困難になってもさりげなくフォローしてくれた。彼の優しさにすこしでも報いようと、薬を用意して中に出していいと言っても頑なに獅勇はそうしなかった。オメガのフェロモンにあてられたアルファの頭の中がそればかりになることは識っていたし、だから負担を軽くしたかったのに、いつも避妊は欠かさなかったように思う。

 今思えば正解だったのだ。万が一の間違いでも起こってしまっていたら、ここには片親しかいない子どもがいた。千鶴ひとりならともかく子どももとなるととてもじゃないが今の仕事じゃ足りない。年上の自分のほうが余程浅慮で軽率で、恥じ入りたいくらいなので一切顔を合わせることができないのはいっそ僥倖だった。
 それか子どもを理由につがい関係を強要されるとでも思われたのかもしれない。とにかく、互いのために早まったことをせずに済んで本当によかった。いつの間にか湿っていた目元を親指で払うと、千鶴は上掛けをかぶり束の間の休息を得るため、呼吸を静かにして夢の淵に爪先を浸す。誰かに呼ばれた気がした。



 * * *



 部屋の中にはタイトルもよく読めないような難しげな本がずらりと書架に並べられて、床が抜けるんじゃないかと他人事ながらはらはらする。

「どうぞ、適当に座ってください」

 天板部分の裏にヒーターのついた炬燵兼用テーブルの真ん中にセットしてあったカセットコンロに家主が火を入れる。載せてある鍋はあらかじめ半ばまで調理してあったようで、ややもせずぐつぐつ食材の煮える音といい匂いが部屋に充満した。
 ワンルームなのでどうせ見えるのだがキッチンの充実度の違いが、悲しいほど歴然としていて千鶴は泣きたくなった。しかもこの福山という隣人はまだ大学生で、10も年下と判明するや倒れそうになった。精神的には倒れた。俺なんて10代前半からずっと自活しているのに、未だに自分の料理をまずいなあと思いながらいつも仕様が無く食べている。

 土曜日なのもあり、久し振りに仕事が早く片付いてうきうきアパートに帰ってくると隣室から住人がひょこっと顔を出した。顔と名前くらいはわかるので挨拶したところ、なんでも実家から大量の野菜が送られてきて困っているので貰ってくれないかと頼まれたのだ。しかし千鶴は料理が不得手。正直にそう答えると「じゃあうちで鍋やるんでよかったら一緒にどうすか」と消費の助っ人として誘われて、今に至っている。
 
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