初恋の実が落ちたら

ゆれ

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千鶴と獅勇

01

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「本当に申し訳ございませんでした!」

 勢いよく言って頭を下げ、相手の嘆息を聞き、「お帰りはあちらです」と歯の隙間から押し出すみたいに言われて、10数えようやく千鶴ちづるは頭を上げる。ちらちらとこちらを見ている社員達にも目の合うかぎり全員に頭を下げ、エントランスを出てからも、踵を返して深々とこうべを垂れた。自動ドアのガラス越しに受付嬢が目を丸くしている。

 どう見てもうちが弱小。向こうが大手。仕事を貰えたのも正直やっとだったのに、いくらか上気してのこととはいえ「もう二度とおたくにお願いすることはありません」とまで言われてしまっては、この先も縁はないだろうと思う。ミス発覚直後に部長と謝罪に来た際はもっと手が付けられないくらい激怒していた。それでも決して愚痴をこぼしたり親指を下へ向けたり、況してや唾棄など絶対にしない。これ以上ちいさくはあれど社名に泥を塗るわけにはいかないのだ。

 社用のマニュアル車に乗り込むとどっと疲れが襲いきた。しかし直帰はできない。大凡の想像は部長にもついているにしろ事の次第を一応報告しなければ。せっせと通い詰めたご立派な社屋をあとにすると、千鶴は途中のコンビニで液状の胃薬を購入し、ぐいっとやっておいた。

 郵便局や宅配便業の下請けをするちいさな運送会社が千鶴の今の職場だ。たまたま目に入ったタウン誌の求人欄を見て面接を受け、無事採用されて早四年以上が経とうとしている。体感ではまえの仕事よりもっとあっという間だった。なんせアルバイトのひとつもしたことがなかったため、よく採用してくれたなと自分でも呆れるほどあらゆる作法について無知だったのだ。

 前職でつくった蓄えは正直同年代の中でも多いほうだとは思うが、そんなものはいつでもすぐに底をつくつもりでいたほうがいい。貯めるのは大変でも使うのは驚くほど簡単なのだ。どんな災難に見舞われるかも知れないしただ生きていくだけでも金はかかる。夏場の電気代や水道代、冬のガス代に目玉が飛びだしたのも今ではいい思い出と言える、だろうか。すっかり節約倹約が身に付き、もとより浪費体質じゃなかったにせよ、毎月の光熱費がコンパクトにおさまっているとなにげに嬉しくなる。人生のちょっとした楽しみだった。

 御蔭で華やかな世界に身を置いていた過去など最早周囲も忘れている。初めこそひそひそと噂されたものだったけれど、今では名前にすら反応されるのはごく稀で、所詮アイドルとしての自分など掃いて捨てるほどいる有象無象のひとりでしかなかったのだなと遠く思うだけだった。悲しみすらしない。それでいいと受け入れている。

「お疲れさまです、戻りました」

 宅配便は21時までだが他に業者向けで長距離の運送も請け負っているため夜が深くても誰かしら事務所に人はいる。営業担当など定時という概念ごと存在しないため、給与のわりにオーバーワークなのは知っているが、自転車操業の会社なので文句はいえない。別に千鶴も今のところ然して不満はなかった。日中はどうしても商談を優先するので事務処理をする余白が取れないのだ。もっと優秀なら違うのだろうが仕方ない。

 趣味なし友人なし彼女なしのないない尽くしなので仕事をしていたほうがまだましだ。たまの休みなど、買い出しと掃除くらいしかすることがなくて、結局取引先のご機嫌伺いなどしてしまう典型的なワーカーホリック。見かねて会社の同僚がバーベキューや海水浴などに誘ってくれるけれど、これもまた子どもの操縦に大変そうな彼らに代わり自然と運転手や荷物持ちになるオチが殆どなので、休日として楽しめているかは別の話だった。

「あーごめんね別府さん、どうだった?」
「ダメでした。まあでもしょうがないっすね」

 部長に報告した時より余程緊張するのはどうしてだろう。他の仕事で取り返しましょう、とおなじように笑って言ったのだがポスティング作業員の監督を任されている女性社員は直属の上司と違い険しい顔を変えない。それもそうだろう。このたびのミスは検品の段階で起きたものだったからだ。
 人間がやっている作業なので見落としは絶対にある。機械化していてもなおゼロとは言い切れないのだ。だから人数をかけて何回も確認する。しかしその確認をするパート職員達が、こう言ってはなんだが年配の人が多くて、視力の問題もあり全員が細かな作業に向いているとは言い難い。

 もちろん会社側では年齢制限を特に設けず募集をかけるが若く働き盛りと呼ばれる年齢からの申し込みは殆どなく、隙間時間を活用したい主婦や子どもが手を離れた世代ばかりになる。断って再募集をかけてもいいがその間の人手不足が賄えないため結局採用する。新しい人はたとえどれほど能力や適応力があっても最初のうちはいくらかの失敗を加味しなければならない。そうすると、今回のようなケースのほうが稀とはいえ、やはりまあまあの覚悟は常日頃からしておかざるを得ないのが悲しい実情だった。

「みんなにはもう話したから」
天里あまりさん、キツく叱ったんじゃありません?」
「そりゃそうよ。こんなこと二度があったら絶対困るし」
「まあ……そうなんすけど……」
 
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