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理屈じゃないの
02
しおりを挟む外に出ていた職員達が戻ってきて、電話番から解放される。今日は殆ど掛かってこなかったのでこういう時の隙間仕事用に取ってあるコピー待ちの書面や、書き損じの裏が白い紙でのメモ帳作成、順番が前後しているファイルの整理などを平行してやっていたのだ。今朝最後の子猫の引き取り手が見つかり、代表自らが面会に行って飼育環境を確認してから引き渡してきたらしく、一緒に行った職員も「よさそうな方で本当によかった」と達成感をにじませ胸を撫で下ろしていた。
譲渡してもやっぱりうまくいかなかったり状況が変わって飼えなくなったりする場合はまた連絡がくる。油断はできないけれど、当面の幸せはあの子猫にも訪れたようで龍もほっとした。
何回か縁を繋げなかった現場に居合わせたこともあった。いつもうまく行くとはかぎらない。それはそうに決まっているがきれいにしておめかしまでして待っていたのに、電話一本で断りを入れられた時は龍も陰で泣いてしまった。その犬は今は別の家族と幸せに暮らしているけれど、その人達が迎えにきた日は嫌がっておめかししないままだった。きっと悲しい記憶が残ってしまったのだろう。
もっふぁ~では動物を譲渡した家族に、彼らが元気にしているかどうか年に一回不定期に連絡をする。それも契約書面にきちんと盛り込まれている。開催イベントなどに参加してくれた場合はそれで代えるのだが、それだけでも結構迷う人は多いので、ふるいにかける役割は果たされているようだ。
一時の熱で命をやり取りしてはいけない。飼うなら看取るまでだ。龍も、いつの日かひとり暮らしを始められるようになったら念願の犬を飼いたいと思っているのだが、ちゃんと職種を選ばなければ寂しくさせてしまうので悩ましい。毎日散歩に行けるか、うるさくないか、部屋を傷めないか、など暇な時は手引書を読んでいるので参考になった。
自分がいなければ生きていけない存在は可愛いし、生きる意味をこちらにも与えてくれる。だが本当にいつの日か、目処が立ってないので、今はいいなあと人様の可愛い犬を羨ましく眺めるばかりだった。
「そろそろあがりだな」
掛け時計に目をやって歩が嬉しそうに呟いたその時だ。窓の外から、キャーッと甲高い悲鳴がして、事務所が水を打ったように静まり返る。
「……な、何?」
「下?」
「黒部さん!」
同行した職員が逸早く飛び出し、龍達もあとを追って階段を駆け下りた。喫煙所か? すると覗き込もうとするより早く影が路地から飛びだしてきて、五十がらみの男がこちらに向かって腕を突き出した。手にはサバイバルナイフが握られており、刃があかく濡れている。
「うわやべ、警察!!」
「こっち来んなああ!!!」
「誰かっ……救急車お願い!」
奥から馨子の切羽詰まった声がする。路地のはいり口に不審者が仁王立ちしているので状況確認にも行けない。さらに悪いことに、歩が素早くスマホを耳にあてたのを見て男が襲い掛かってきた。
まえに立つ職員が龍と歩を庇うように腕を広げ、男を見据えてぐっと足を踏ん張る。掴まれているわけでもない、すり抜けてさらにまえへ出ることだってできる筈なのに、情けないことに足が動かない。こんな非常事態に行動できるようにするには特殊な訓練が必要なのだと改めて思い知った。
元気くんを救けた時とはわけが違う。しかしあの不吉な汚れが血液だとしたら、既に誰か傷ついていることになる。明らかに理不尽な攻撃によって。チリッと腹の底で怒りがくすぶり始める。
(せめて何か、投げる物……!)
盾になる物は見つかりそうにない。立て看板でもあればよかったのだが昼あたりから注意報が発令されるほどの強風に見舞われたため片付けてしまっている。とにかく何か持ってなかったかとポケットを素早くまさぐって、丸い物体の手触りがある。どうして。取り出して余計疑念が深まったが今は気にしていられない。顔だと当たらなかった時が怖いので暴漢の喉元あたりまでターゲットを広くして、龍は思いっきりそれをぶん投げた。
「……うわあっ何だこれ!! ウワッ」
「あ、当たった!」
「てい」
丸い物の正体はちょっとやわらかいトマトだった。結局男の胸元でべしゃっと潰れ、恐らく痛みはなかっただろうが赤い色と濡れた感触にびっくりして怯んだ隙に、誰かがするするっと龍達の脇から躍り出て男の腕を捻り上げ、ナイフを落とさせて、地面に伏せさせて事なきを得る。
気の抜けた掛け声にまさかと思ったが、やっぱりだ。見た目にも四角くてごつい感じの暴漢が少年のような宇賀神に完璧に押さえ込まれているのは違和感が強い。女子だから事務所で待機を命じられているのか、一二三が窓から「救急車もう来ます!」と教えてくれる。彼女の顔を見て、先程のトマトが魔法だと龍は何となくわかった。親指を立てておく。
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