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彼岸にて
01
しおりを挟む「しばらく水けは避けてください。数日様子を見て、もし発熱したらまた来るように」
「ありがとうございました」
処置室から診察室へ移ってきて術着の医師にいくつか言葉を貰い、龍は頭を下げてロビーに出る。他に誰もいないがらんとした空間でふたり分の荷物と一緒に歩が待っていた。
この時間でも診てもらえるところとなると調べないとわからなかったが、川から近くの大きな病院だったのでちょうど良かった。女性と別れてのち、こそこそと駐車場の片隅で周囲に人がいないか何回も確認してから、なんと一二三が魔法で濡れ鼠だった元気くんとついでに龍をきれいにしてくれた。
とは言っても服の裂け目や怪我はそのままで仕上がりは身体と衣服を洗って乾かした感じだった。それでも充分ましになったので、もうこれで電車で帰ろうかと思ったのだが、川に落ちた場合何らかの感染症にかかる恐れもあるからと脅かされて、しぶしぶ今に至っている。
「思わぬ出費だな……」
消毒薬や滅菌ガーゼは安いものだが初診料が痛すぎる。そうは言ってもかかりつけ医は遠いし閉まっているため、選択肢は他にない。知っているけれどもぼやくくらい許されたい。さがしものは無事みつかったのだ。そのお祝いだと思えば、まあ、許容できるか。
「龍がどんくさいから」
「んっとにお前は、ちょっと黙っててくんねえかな」
今妄想でぼこぼこにしてやっから。睨めつける龍を、しかし歩はニコニコと穏やかに見守っている。
元気くんは今晩だけ一二三が預かることになった。家族が先程車で迎えにきて、かわいいお客を喜んで連れていった。あれが一二三の父親らしい。あまり似てない。音のほうは面影がある。どういう経緯で魔法使いと結婚する羽目になったのか、詳しく聞きたかったよなと歩がおなじことを考えていたのには脱力した。龍も案外軽薄なたちだったらしい。
それにしても、髪も身体も、着衣も、川に飛び込んだとは微塵も思えないほど完璧に乾いている。凄すぎて知能が一瞬ガクッと下がったくらいだ。うわあすげえと歩と同レベルではしゃいでしまった。元気くんも心なしか不思議そうにしていた気がする。痩せているのはそのままなので、一二三が家に着いたらネットで調べて適切な食事を与えると言っていた。責任感の強い彼女なので安心してふたりも任せた。
「いやマジでさぁ、さすがに馨子さんも呆れてたよ」
「余計なことまで言うなよな」
無事に保護したとだけ伝えておいてくれればよかったのだ。朝一で一二三の家に迎えにいくようだが、事務所に顔を出したら褒められるより先に怒られそうな予感がプンプンして、晴れやかな気持ちに水を差される。無関心からあまり叱られ慣れてない龍は地味に堪える。さすがに母と思うのは馨子がかわいそうだけれど、親戚のおば……お姉さんくらいではある。
女性なのにそうと意識させず、いい意味で無造作に扱ってくれるので龍には珍しく好感の持てる異性だ。たぶん同族嫌悪の感覚でなのだろうが、下心のある素振りはすぐに見抜いてしまって厭になる。馨子はその点いつも自然体だ。
「須恵さーん」
呼ばれて歯軋りをしそうな勢いで会計を済ませ、外へ出ると雨がまた降っている。そろそろ電車がなくなりそうだった。
「龍どうすんの?」
「あー、何も考えてなかった」
正直にそう答えるとタイミングよく目のまえに黒い国産車が滑り込んでくる。ナンバーですぐにわかった。
「えっ……香さんなんで」
「俺が知らせといた~」
「は? なに勝手に」
「いいからふたりとも、早く乗れ」
「おっ邪魔っしまー」
「……」
助手席に乗り込んだ龍の腕を見て何か言いかけたが、八色は取り敢えず車を走らせた。度の入ってない眼鏡とキャップは如何にも有名人の変装という感じがする。時間的にもいつも帰宅するくらいのようだが疲れているのに申し訳なくて、許可なく知らせた歩に腹が立つ。頼んだのは馨子への連絡だけだった筈だ。後部座席に一瞥投げると、わざとらしく肩を聳やかせる。
「勝手なことを……つか厚かましいな」
「こんな中傘だけで帰るの大変だろ」
「そーそー、俺繊細だから風邪ひいちゃう」
お邪魔虫がくっついてきたのに理解を示す八色にも面白くない。それもこれもこいつらが連絡先なんて交換してるから。顰め面はなかなかほどけず、龍はくちを閉じて窓に顔を向ける。あれだけ全身に漲っていた達成感は跡形もなく消え去った。そっと詰めていた息を吐き出すと、シートに体重を預ける。
ガラスの水玉模様は風景を覆い隠して、見るべきものもないので瞼も下ろした。今になって疲れが束になって襲い掛かってきている。悪くすれば死んでいてもおかしくない緊急事態だったが、あの時は何故かそんな気はまるでしなかった。あの子を救けたいという強い気持ちに突き動かされていたのだろうか。無意識に一二三をあてにしていたのもあるかもしれない。
龍がだんまりを決め込んでいるので歩と八色が他愛無い話をしている。八色の低い声は商売にしているだけあって耳触りが良くて、うとうとと眠気を誘われるほどだった。運転技術も問題ない。
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