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最終章 ジャックにはジルがいる

326 ピーターラビットの末裔 ⑤

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 ふうと息を吐いて、向井はオレンジジュースを口にした。

「去年落ちた時、迷ったんだ。非常勤の教員を続けながら挑戦するか、それとも諦めて他の道を探すか。非常勤、場数を踏めるのはとてもよかったけど、生徒には常勤か非常勤かなんて関係ないから毎回真剣勝負だし、反省点は山のように出るし、試験対策との両立は正直ものすごくきつかった。現実的にいつまでも不安定な生活してらんないし、他の道に進むことも早めに考えた方がいいのかなって」
「理想と現実の擦り合わせは、やっぱり考えるよね。生活できてこそ、夢も追える。若葉ちゃんが最後まで留学に踏み切れなかったのは、それもあるだろうし」
「うん。だから、理奈ちゃんに『どうしようか迷ってる』って正直に伝えたんだ。そしたら、『裕也くんがどんな選択をしても私は応援するけど、決断する前にお母さんとも話した方がいい』って言われてさ」

 向井の家庭のことを今まで少しだけ聞いたけれど、そういえばお母さんと話したというエピソードはなかった気がした。藤田さんの目の付け所はやはり鋭いかもしれない。

「よくわかんねえな、と思ったけど、母に正直に言ったんだ。迷ってるって。そしたら母は箪笥から通帳を出してきて、俺によこした。『これで教員養成の専門学校に行きなさい。その方が有利だから』って。確かにその通りで、むしろ俺は母がその情報を知ってたことに驚いたんだけど」
「僕も知らなかった。そうなんだね」
「うん。筆記試験だけでなく面接対策もしてくれるし、課金した方ががぜん有利。でも、俺には専門学校に行くという選択肢はなかった。貯金がなかったから。妹は大学入ったばっかだし、弟もこれから進学するし、金なんかいくらあっても足りないんだから、あいつらに使ってくれって言ったんだけどさ」

 向井は珍しく困ったような表情を浮かべ、しばらく黙っていた。

「『私はあんたにこのお金を使いたいの。一つくらい親らしいことさせてよ』って、泣かれちゃってさあ。俺、母親の泣き顔、初めて見たわ。泣かれると、ほんと、弱いよなあ……」

 眉を下げて苦笑いする向井を見て、僕はなんだか安心していた。いつもお母さんを助ける側だった向井が、ようやくお母さんを頼ることができた気がして。以前、向井自身が言っていた通り、どちらかが一方的に面倒をみたり関係維持の努力をするのは、あんまり健康な状態じゃないと思うから。
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