上 下
316 / 352
最終章 ジャックにはジルがいる

314 四角な世界の一角を磨く ④

しおりを挟む
 研究室の扉をノックする。どうぞ、という声が聞こえたので、扉を開け、中に入った。
 宗岡先生に借りていた書籍を返却し、印刷した卒論と要旨を渡す。

「約束を守ってくれて嬉しいよ」
「卒論提出日まで借りっぱなしになってしまって、申し訳ないです」
「返してくれればなんでもいいから」

 宗岡先生は要旨にまず目を通した。素早いけれど、きっちり。「ちょっと時間がかかるかもしれないから」と、ソファに掛けるよう勧められたので、僕は遠慮なく腰掛けた。
 何度か宗岡先生に書いたものを見ていただいて、見ている振りをしているのではなく、とんでもなく処理が速いのだと痛感した。「学部生を相手にしていない」という僕の判断は誤りで、僕が相手にならない程度の能力しか持ち合わせていなかっただけ。非常に悔しいけれど。

 はい、と原稿を返却されたので受け取る。

「……なるほどね」
「はあ」
あわれ。渋沢くんはどう思った?」
「はい?」
「渋沢くんは、美は憐れに宿ると思う?」
「僕は……」

 宗岡先生はどんな回答を望んでいるのだろう。
 一瞬、そんな疑問が脳裏をかすめたけれど、僕は打ち消した。若葉ちゃんの誕生日のなんでも叶える券と同じじゃないか。相手の望みに応える振りをして、考えることを放棄しているだけだ。

「僕は、それだけが美ではないと思います。ただ、『草枕』で漱石は、美は憐れに宿ると結論づけています。それを否定はしません」
「ふうん。じゃあ、誤字修正したら、提出してきていいよ」

 返された卒論と要旨には、誤字指摘の赤がきっちり三箇所ずつ入っていた。
 宗岡先生から手で追い払うようなしぐさをされたので、僕はあわてて訊ねる。

「あ、あの!」
「何?」
「いいんですか?」
「何が?」
「何がって……」

 僕が戸惑っていると、宗岡先生は諦めた様子で口を開いた。

「最近の学生は『相手が想定している正答』を知りたがるよね」
「はあ……」
「作者がどう書いているか、書かれた通りに読む。自他を切り分ける。それができれば、大学で四年間学んだ意義はあるんじゃないの」
「えっ、たったそれだけ……」

 僕の落胆した様子を見て、宗岡先生はニヤリと笑う。

「その『たったそれだけ』ができない人の多さを、これから渋沢くんは実感することになるよ。たぶん」

 ありがとうございましたと頭を下げ、僕が出ていこうとすると、今度は逆に宗岡先生から引き留められた。

「渋沢くんはどこに決まったんだっけ? 就職」
「え……?」
「どうかした?」
「宗岡先生が僕の就職先に興味を持ってくださるとは、思わなくて」

 思わず素で答えてしまった。内定が出た時に一応報告はしたけれど、「それはおめでとう、よかったね」と棒読みで流されただけだったから。
 僕の言葉に宗岡先生は吹き出す。

「悪くない卒論だったから、興味が湧いた。その人が選んだものから見える価値観はあるからね」
「東西書籍という教科書会社です」
「……東西書籍」
「はい」
「ふうん。なかなか面白いと思うよ」

 宗岡先生は笑顔でそう言うと、今度こそ僕を研究室から追い出した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

初めてなら、本気で喘がせてあげる

ヘロディア
恋愛
美しい彼女の初めてを奪うことになった主人公。 初めての体験に喘いでいく彼女をみて興奮が抑えられず…

先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…

ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。 しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。 気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

これ以上ヤったら●っちゃう!

ヘロディア
恋愛
彼氏が変態である主人公。 いつも自分の部屋に呼んで戯れていたが、とうとう彼の部屋に呼ばれてしまい…

彼氏の前でどんどんスカートがめくれていく

ヘロディア
恋愛
初めて彼氏をデートに誘った主人公。衣装もバッチリ、メイクもバッチリとしたところだったが、彼女を屈辱的な出来事が襲うー

処理中です...