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最終章 ジャックにはジルがいる
314 四角な世界の一角を磨く ④
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研究室の扉をノックする。どうぞ、という声が聞こえたので、扉を開け、中に入った。
宗岡先生に借りていた書籍を返却し、印刷した卒論と要旨を渡す。
「約束を守ってくれて嬉しいよ」
「卒論提出日まで借りっぱなしになってしまって、申し訳ないです」
「返してくれればなんでもいいから」
宗岡先生は要旨にまず目を通した。素早いけれど、きっちり。「ちょっと時間がかかるかもしれないから」と、ソファに掛けるよう勧められたので、僕は遠慮なく腰掛けた。
何度か宗岡先生に書いたものを見ていただいて、見ている振りをしているのではなく、とんでもなく処理が速いのだと痛感した。「学部生を相手にしていない」という僕の判断は誤りで、僕が相手にならない程度の能力しか持ち合わせていなかっただけ。非常に悔しいけれど。
はい、と原稿を返却されたので受け取る。
「……なるほどね」
「はあ」
「憐れ。渋沢くんはどう思った?」
「はい?」
「渋沢くんは、美は憐れに宿ると思う?」
「僕は……」
宗岡先生はどんな回答を望んでいるのだろう。
一瞬、そんな疑問が脳裏をかすめたけれど、僕は打ち消した。若葉ちゃんの誕生日のなんでも叶える券と同じじゃないか。相手の望みに応える振りをして、考えることを放棄しているだけだ。
「僕は、それだけが美ではないと思います。ただ、『草枕』で漱石は、美は憐れに宿ると結論づけています。それを否定はしません」
「ふうん。じゃあ、誤字修正したら、提出してきていいよ」
返された卒論と要旨には、誤字指摘の赤がきっちり三箇所ずつ入っていた。
宗岡先生から手で追い払うようなしぐさをされたので、僕はあわてて訊ねる。
「あ、あの!」
「何?」
「いいんですか?」
「何が?」
「何がって……」
僕が戸惑っていると、宗岡先生は諦めた様子で口を開いた。
「最近の学生は『相手が想定している正答』を知りたがるよね」
「はあ……」
「作者がどう書いているか、書かれた通りに読む。自他を切り分ける。それができれば、大学で四年間学んだ意義はあるんじゃないの」
「えっ、たったそれだけ……」
僕の落胆した様子を見て、宗岡先生はニヤリと笑う。
「その『たったそれだけ』ができない人の多さを、これから渋沢くんは実感することになるよ。たぶん」
ありがとうございましたと頭を下げ、僕が出ていこうとすると、今度は逆に宗岡先生から引き留められた。
「渋沢くんはどこに決まったんだっけ? 就職」
「え……?」
「どうかした?」
「宗岡先生が僕の就職先に興味を持ってくださるとは、思わなくて」
思わず素で答えてしまった。内定が出た時に一応報告はしたけれど、「それはおめでとう、よかったね」と棒読みで流されただけだったから。
僕の言葉に宗岡先生は吹き出す。
「悪くない卒論だったから、興味が湧いた。その人が選んだものから見える価値観はあるからね」
「東西書籍という教科書会社です」
「……東西書籍」
「はい」
「ふうん。なかなか面白いと思うよ」
宗岡先生は笑顔でそう言うと、今度こそ僕を研究室から追い出した。
宗岡先生に借りていた書籍を返却し、印刷した卒論と要旨を渡す。
「約束を守ってくれて嬉しいよ」
「卒論提出日まで借りっぱなしになってしまって、申し訳ないです」
「返してくれればなんでもいいから」
宗岡先生は要旨にまず目を通した。素早いけれど、きっちり。「ちょっと時間がかかるかもしれないから」と、ソファに掛けるよう勧められたので、僕は遠慮なく腰掛けた。
何度か宗岡先生に書いたものを見ていただいて、見ている振りをしているのではなく、とんでもなく処理が速いのだと痛感した。「学部生を相手にしていない」という僕の判断は誤りで、僕が相手にならない程度の能力しか持ち合わせていなかっただけ。非常に悔しいけれど。
はい、と原稿を返却されたので受け取る。
「……なるほどね」
「はあ」
「憐れ。渋沢くんはどう思った?」
「はい?」
「渋沢くんは、美は憐れに宿ると思う?」
「僕は……」
宗岡先生はどんな回答を望んでいるのだろう。
一瞬、そんな疑問が脳裏をかすめたけれど、僕は打ち消した。若葉ちゃんの誕生日のなんでも叶える券と同じじゃないか。相手の望みに応える振りをして、考えることを放棄しているだけだ。
「僕は、それだけが美ではないと思います。ただ、『草枕』で漱石は、美は憐れに宿ると結論づけています。それを否定はしません」
「ふうん。じゃあ、誤字修正したら、提出してきていいよ」
返された卒論と要旨には、誤字指摘の赤がきっちり三箇所ずつ入っていた。
宗岡先生から手で追い払うようなしぐさをされたので、僕はあわてて訊ねる。
「あ、あの!」
「何?」
「いいんですか?」
「何が?」
「何がって……」
僕が戸惑っていると、宗岡先生は諦めた様子で口を開いた。
「最近の学生は『相手が想定している正答』を知りたがるよね」
「はあ……」
「作者がどう書いているか、書かれた通りに読む。自他を切り分ける。それができれば、大学で四年間学んだ意義はあるんじゃないの」
「えっ、たったそれだけ……」
僕の落胆した様子を見て、宗岡先生はニヤリと笑う。
「その『たったそれだけ』ができない人の多さを、これから渋沢くんは実感することになるよ。たぶん」
ありがとうございましたと頭を下げ、僕が出ていこうとすると、今度は逆に宗岡先生から引き留められた。
「渋沢くんはどこに決まったんだっけ? 就職」
「え……?」
「どうかした?」
「宗岡先生が僕の就職先に興味を持ってくださるとは、思わなくて」
思わず素で答えてしまった。内定が出た時に一応報告はしたけれど、「それはおめでとう、よかったね」と棒読みで流されただけだったから。
僕の言葉に宗岡先生は吹き出す。
「悪くない卒論だったから、興味が湧いた。その人が選んだものから見える価値観はあるからね」
「東西書籍という教科書会社です」
「……東西書籍」
「はい」
「ふうん。なかなか面白いと思うよ」
宗岡先生は笑顔でそう言うと、今度こそ僕を研究室から追い出した。
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