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第十章 扉が閉じて別の扉が開く

287 五月の薔薇を忘れないで ③

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 新くんは、無事、本命の教科書会社に受かった。よかったなあと思う。
 土曜日、新くんの部屋で一緒に過ごしていると、チャイムが鳴った。郵便局からの配達で、新くんは封書を手に戻り、中身をあらためる。

「しまった。もう決まったからって辞退するの忘れてた。先方に余計な手間をかけさせちゃったな」

 せめて早く辞退の連絡をしなければ、そう、新くんは淡々と言う。どうかした? と訊ねると、新くんがもう一つ受けていた教科書会社からも内定通知が届いたという答えが返ってきた。私でも知っている、昔からある大手の教科書会社だ。

 新くんの行動に何もおかしいところはない。とても正しい。でも、内定が出ていない私にとって、新くんが選ぶ権利を持っていることは本当にうらやましくて、ちくりと胸が痛んだ。
 新くんの願いが叶って、とても嬉しい。それは間違いなく本心なのに。
 今までこんな感情を抱いたことがなかったから、自分で自分に戸惑う。

「新くん、あのね……」
「何?」

 思わず新くんに声を掛けてしまったけれど、次の言葉が出ない。
 私は何を伝えたいの?
 苦しい? 何が?
 疲れた? それはそう。でも、新くんのせいではないし、そんなことを言っても困らせるだけだ。

「新くんを見習って、私も早く内定もらえるようにがんばるね」

 私は私でがんばらないと。私に内定が出ないのはがんばりが足りていないからだし、きっと努力の方向性も間違えているんだ。



 私は就職試験を受け続けた。でも効率の悪さは変わらなくて。アピールポイントの少ない履歴書。SPIはどうしてもわからない問題で止まってしまう。
 今回の面接もうまく喋れなかった。二次面接には進めない気がする。志望動機も、自己PRも、是が非でも入りたいという熱い思いを抱いている訳ではないのだと見抜かれている。そして、それでも取りたいと思わせるものが、私にはない。

 少し現実に疲れた私は、夢のような妄想をしてしまう。
 遠くへ行きたいなあ。とても綺麗なところに。知らない文化にたくさんふれて、おいしいものを食べて、素敵なものを思い出しながら眠って。きっと楽しいだろうなあ。
 ふと、留学の二文字がちらつき、あわてて消す。
 現実逃避に留学を考えるなんて駄目。ものすごくお金がかかることなのに。

 たとえ全てを捨てたとしても、新くんが側にいることにはかえられない。
 そんな風な言葉が脳裏をかすめ、一瞬、あれ? っと疑問が湧いたけど、別におかしい訳ではないよね、と思い直す。だって、新くんは私にとって、とても大切な人だから。
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