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第十章 扉が閉じて別の扉が開く

263 ミネルヴァの梟は黄昏に ③

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「今日、新くんを呼び出したのは他でもない。来年度の募集が解禁されたから」

 A4サイズの紙が折らずに入る大きさの封筒を手渡されたので、仁科さんにお礼を言う。

「ありがとうございます。でも、どうしてこんなにいろいろ」
「うちの会社に入りたいんでしょう? 俺にできることは協力しようと思って。こんな些事に時間取られるの、馬鹿らしいし。俺のことを最大限利用して、浮いた時間を他のことに費やしたらいい」

 マウントを取ってきたかと思えば、手のひらを返すように助け船を出される。なんだかひどくアンビバレンスで、仁科さんの意図が僕にはまるで見えない。

「別に俺は新くんに対する親切でやっている訳じゃない。俺は因果応報なんか絶対に信じないけど、人に何かしてもらうだけで何もしようとしない奴がろくなことにならないというのは、経験的に知ってる。単に、俺に何かしてくれた人からの恩送りだ」

 オカルトやスピリチュアルも嫌いだけど、理屈で説明できないことはあるんじゃない? と付け足し、仁科さんはくすくす笑う。

「人生を左右するのは、才能と環境とタイミングだろう。その中でタイミングが一番どうにもならない。だから俺は時間とチャンスを無駄にする奴が嫌いだ」

 仁科さんはコーヒーを飲み干すと、伝票を持ってそっと立ち上がった。

「え? 仁科さん?」
「今日の用事はこれだけ。あとはごゆっくり」

 カチャンと小さな音がした。僕の足元に何か転がってきたので拾い上げる。金属でできたフクロウのキーホルダーだ。このフクロウ、なんだか機械っぽく見えて、ちょっとスチームパンクっぽい。手渡すと、仁科さんは鞄の中にそっとしまった。

「ありがとう。最近落ちやすくなってるから、金具を変えた方がよさそうだ」
「ずいぶん可愛らしいものをつけているんですね。お気に入りなんですか?」
「ミネルヴァのフクロウは黄昏に飛び立つ」

 全然答になってない。この人、基本的に僕と会話する気があんまりないように思う。

「ミネルヴァのフクロウ?」
「ヘーゲルの『法の哲学』の序文。フクロウは女神ミネルヴァの使い。哲学は常に時代の後追いで、世界がどうあるべきかを物語るのは遅すぎる。理想は現実が成熟した後にしか現れないかもしれない。でも、古臭い灰色で世界を塗りつぶして、ただ朽ち果てていくのを待つだけというのは、いかにも悔しすぎるだろう。俺は黄昏に飛び立つフクロウを追いかけて、世界へ彩りを取り戻す可能性に賭けたい。哲学と訳されるPhilosophieの原義は『知を愛すること』だ。だから、こいつは俺が就いた職業の象徴だよ」

 仁科さんはもう一度僕の目を見、立ち去った。



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ヘーゲル「法の哲学(Grundlinien der Philosophie des Rechts)」の序文(当該箇所抜粋)
Um noch über das Belehren, wie die Welt sein soll, ein Wort zu sagen, so kommt dazu ohnehin die Philosophie immer zu spät. Als der Gedanke der Welt erscheint sie erst in der Zeit, nachdem die Wirklichkeit ihren Bildungsprozeß vollendet und sich fertig gemacht hat. Dies, was der Begriff lehrt, zeigt notwendig ebenso die Geschichte, daß erst in der Reife der Wirklichkeit das Ideale dem Realen gegenüber erscheint und jenes sich dieselbe Welt, in ihrer Substanz erfaßt, in Gestalt eines intellektuellen Reichs erbaut. Wenn die Philosophie ihr Grau in Grau malt, dann ist eine Gestalt des Lebens alt geworden, und mit Grau in Grau läßt sie sich nicht verjüngen, sondern nur erkennen; die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.
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