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第十章 扉が閉じて別の扉が開く

256 クーポン返せ、案を送れ ②

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 向井と目が合った。

「ローマ史の人物名は覚えづらいよね。すぐに語呂合わせが出てきて向井はすごいな」
「まあ、俺は今、カエサルで卒論を書いてるし」
「向井、卒論カエサルなんだ。ちょっと意外」
「なんで?」
「直球で有名人だから。もっと目立たない人物やものごとを採り上げるかと思った」

 普通ならば見過ごしがちな部分に目を向けてくれる、向井はそういう人間だと思う。

「有名な人物だと、資料がたくさんあるし」
「確かに。僕も題材変えたけど、漱石だから、資料には困らなさそう」
「ふうん。新、卒論の題材変えたんだ。何にしたん?」
「『草枕』にした」
「ああ。『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい』ってやつ」
「それ」
「中学で習った『吾輩は猫である』が面白かったから、漱石は何作か読んだ。『草枕』、イマイチよくわかんなかったけど、冒頭は俺も好きだよ」

 向井は、「草枕」の冒頭に、何を思ったのだろうか。

 最近、向井の家庭の事情を少しだけ知った。向井が初めてご両親の話をしてくれた時まで、僕は向井が己の境遇をあえて言わずにいたのだと、気づいてさえいなかった。これまでの向井の振る舞いが、あまりにも自然だったから。
 でも、同時に納得もするのだ。僕が姉への相談を避けようとしたことに、向井はすぐ気づいた。おそらくあれは、「家族はなかよくしなければならない」という世間の常識にとらわれていないからこその、察し。

「どしたん?」
「僕は人の気持ちに疎いなと思って」
「そうか?」

 僕の顔をまじまじと見つめ、向井は問う。

「若葉ちゃんのことでも、気になってる?」
「まあ……」

 言葉を濁すと、向井は周囲を見回し、僕をそっと控室へと引っ張り込んだ。後ろポケットからスマホを取り出すと、電話を掛ける。

「もしもし? 今、大丈夫? ……うん。買い物、どんな感じ? ……そっか。……うん、若葉ちゃんも一緒に夕飯どうかと思って。……若葉ちゃんはゼミの予習がある? なるほど。……若葉ちゃんには内緒にしてほしいんだけど、新の相談に乗ってほしくて。……うん。ありがとう。じゃあ、また後で」

 予想外の展開に僕が驚くと、向井は飄々と言う。

「そういう訳だから、新も来いよ」
「いや、付き合いたての二人の邪魔をするのは」
「付き合いたてのラブラブっぷりを見せつけてやりたいから、来い」

 向井はスマホを後ろポケットに戻し、ニヤリと笑った。
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