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第九章 青天にいかずちが落ちる

244 愛の反対は無関心である ④

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 帰宅してから塾で二人が交わしていた会話を思い出し考える。

 新しい一万円札の渋沢。自己紹介のネタとしてすっかり板についた文言。
 眼鏡を外し、新しい一万円札の画像を遠目に見た。はっきり読み取れる。裏面も。
 手元にある現行の一万円札を見る。かなり顔を近づけないと読めない。中央に書かれている金額が漢数字だからだ。右上にはアラビア数字が記載されているけど、小さいから結局読み取れない。

 新紙幣のデザインを最初に見た時、正直そこまでいいとは思わなかった。けれども、時間が経つにつれ、よさを実感している。ひしひしと。
 北里柴三郎の千円札とは、印刷色と1のフォントがはっきり違うから、直感的にわかっていい。焦っている時は咄嗟の判断が悪くなる。そして、響さんのような色覚多様性の方にも見分けやすい色合いになっている。かなり計算されたデザインなのだ。機能美。

 機能美といえば。
 片岡くんが気に入った教科書は、僕にとっても示唆に富んでいた。あれから他の会社の教科書もいろいろ見比べたのだ。でも、あの教科書以上によいと感じるものは見つからなかった。

 僕の専門は国文学だから、内容の適切さは正直わからない。それでも、書式の素晴らしさは直感的にわかる。端的な概略の提示から詳細説明への流れ。文章と図の配置や色使いに、大切な部分へ目がいくように工夫されていると感じる。巧みな視線誘導。紙の色が少し黄みを帯びているのも、配慮なのだろうと思う。真っ白な紙は刺激が強すぎて読みづらい生徒もいるのだと、教職の授業で習った。
 どんなに内容そのものが的確であっても、細部に気を配っていないものは、がぜん伝わりにくくなる。神は細部に宿る。本当にすごいことにはなかなか気づけない。

 僕は向井に無理矢理連れ込まれて学習塾のバイトを始めた。最初は自分の意志ではなかったけれど、思っていたよりも面白いし、好きだと感じている。
 教えることは、バイトレベルだからなんとかなっているだけで、やっぱり向いていないと思う。ただ、生徒の躓きが解消されて、理解していく姿を見るのは嬉しい。

 教育者よりも実業家として有名な渋沢栄一のことを考えているうちに、辿り着いた結論はこれだ。直接教える立場ではなくても、学習のサポートをすることはできるのではないだろうか。

 つまり、僕はあの教科書を作っている出版社に勤めたい。調べたところ、中学と高校の国語・英語・数学の教科書を作っていた。国語もあるから、僕自身の専門分野ともなんとか関連づけられる。

 僕は今、RPGの主人公になったような気分だ。少しずつ装備を整えた。仲間もいる。目的地もようやく決まった。でも地図がない。そんな感じ。

 不意に響さんの言葉を思い出す。

『何が大人かって難しいけど、俺は、できないことに適切な対策を取れるのが大人なんじゃないかと思う』

 就職に関して頼れる人間は、思い浮かんでいる。でも、連絡を取る踏ん切りがつかないのだ。苦手だから。
 ただ。苦手だと感じる時点で僕はある意味心を動かされているのだ。あの人は、僕にとって、簡単に無視できない存在。
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