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第八章 人の数だけ気持ちがある

216 さらばセンメルヴェイス ⑦

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「片岡のこと、最初は、若葉ちゃんを委縮させた嫌な奴だって正直思ってたけど……。今は少しだけ、わかる気がする」

 思わず渋沢の目を見る。眼鏡を掛けているのもあって、表情が読みにくい。それでなくても、渋沢は何を考えているのかよくわからなくて、正直苦手だ。

「大規模な感染症が流行って、しばらく外に出られなかっただろう」
「ああ」
「僕はネットばかり見ていた」
「俺も似たようなものだ」
「その頃よくエピソードを見かけた、センメルヴェイス・イグナーツみたいな感じなんだろうと思うようになった。手洗いの重要性を訴えたけど、言い方が厳しかったから、聞いてもらえなかった人」

 正しいと思うから強く。
 命がかかっていることだから厳しく。
 でも、届かない。

「片岡の言っていることは正しい。でも、言葉が強いから拒絶される。『人を支配することなんてできない』なんて言われるんだろう。本当は支配なんて、しようとしていないのに」

 最初、渋沢の挙げた人物と、学習漫画で読んだ人物が、すんなり結びつかなかった。おそらく、渋沢と着眼点が異なっていたのと、俺のなじんでいた表記が別のものだったからだ。俺が読んだ古い学習漫画では、ドイツ語に準じていたのだろう、「イグナッツ・ゼンメルワイス」と記載されていた。「センメルヴェイス・イグナーツ」は彼の母国ハンガリーでの呼び方に準じた表記。東洋の多くの国と同じく、ハンガリーでは名字が先にくるのだと、後で調べて初めて知った。

「若葉ちゃんはたくさんのものを差し出してくる。見返りを求めずに、何の疑問もなく。無理をしていることに、気づいてさえいない。あまりにも真っ直ぐで、時に、搾取しているような罪悪感を覚える」

 若葉は俺の言うことにがんばって従おうとしていた。
 上手くできなくてごめんなさい、そういう台詞をよく聞くようになって。
 あんなに好きだった若葉の笑顔が、俺と一緒にいる時にはどんどん消えていっていることに気づいて。
 自信を失わせているのが自分だとわかって。
 俺は彼女を駄目にしてしまうのでは? そんな疑念が拭えなくなって。
 だから、別れを選んだ。

「でも僕は、君と同じ過ちは犯さない。若葉ちゃんと幸せに過ごせるように全力を尽くす」
「……応援する」

 渋沢との会話はそれで終わった。
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