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第八章 人の数だけ気持ちがある

198 ブーディカは自殺しない ③

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「弟くんが我慢強くて、よかったね」

 そう言い放つ恋人の目は冷ややかだ。

「そうじゃなかったら、椿、刺されてたかもしれない」
「そこまでのことはしてないつもり……」
「やってる側の言い分だよ、それは」

 痛いところを突かれ、黙っていると、恋人は続ける。

「人は、自分がやられて嫌だったことを、なぜか他者にしてしまいがちだよね」

 恋人は皮肉げに笑い、私にコーヒーを差し出す。

「本来の性質だけが、その人の性格を作る訳じゃないしね。まあ、俺みたいに本来の性質も、環境と巡り合わせも、どれもアレなこともあるけど」

 恋人が淹れてくれたコーヒーは、なんだか苦みが強い。

 恋人からは「実家にはもう一生行かない」とだけ聞いている。それ以上は、彼が話そうと決意するまで、聞かないことにした。

 恋人は、外での人当たりはいいくせに、私の前ではやたら辛辣だ。
 他の誰にも見せない素の顔を、私は知っている。おそらく甘えてくれているのだろうと思っている。

『渋沢先輩は女王ブーディカみたいですね』

 恋人が、私個人に投げかけてきた最初の言葉は、これだ。
 誰に対しても感じのいい、一つ年下の大学の後輩。
 どんな褒め言葉なんだろうとわくわくしながらネット検索をして、目が点になった。

 夫が治めていた王国をローマ帝国に奪われた、ケルト人の女王、ブーディカ。彼女は勇敢に戦ったが、訓練された兵士と先進的な武器を持ったローマ軍には勝てず、自ら命を絶った。当時は基本的に女性の相続権がなかったこと、彼女の二人の娘達が惨たらしく凌辱されたこと、彼女が残した「女性である自分は勝利もしくは死の選択しか残されていない」という言葉が、なんだかひどく印象に残った。

 彼と二人きりで話す機会はなかなか訪れず、次の季節になった。
 ブーディカを知らなかったので調べたと告げ、どういう意味かと訊ねると、彼は微笑んで言った。

「褒め言葉ですよ。気高く逞しく美しい」

 その時の彼の表情に、私は魅入られ、離れることができなくなってしまった。いつもの、人当たりのよい、けれども空虚な笑みでは、なかったから。
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