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第八章 人の数だけ気持ちがある

192 神を愛したい者の回旋曲 ⑤

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 翌日の土曜は楽器屋さんに行くことにした。

「キーボード?」
「うん。バイト代で買おうと思って。響と話してて、やっぱり私は音楽が好きなんだなって、わかったから」
「そっか!」

 響は喜んで車を出してくれ、帰宅後、組み立ても手伝ってくれた。

「弾いてみてよ。俺、玲美の演奏、聴きたい」

 リクエストされる気はしてたから、家電量販店にも寄ってもらい、音声分配ケーブルを買っておいた。キーボードだから、ヘッドホンをつなげば外には聞こえない。

 鍵盤に指を乗せ、ふーっと息を吐き、弾いた。三分ほどの小品。弾き終えると、響が私に問いかけてくる。

「これ、なんて曲?」
「カスキの『夜の海辺にて』」
「すごくいいな! ほんとに夜の海辺みたいな感じした!」
「うん」

 ブランクがあるから運指は全然駄目なはず。でも、今の演奏はなぜだか、自分でもすごく気に入った。

 中学生の頃、「音高受験の課題曲とは全く関係ない、好きな曲を一曲弾いてみろ」と先生に言われ、この「夜の海辺にて」を弾いた。叙情的だけどそこまで甘くないところと、作曲者カスキの境遇がなんだか私をとらえて。
 カスキは才能に恵まれて留学したのに、第一次世界大戦で帰国を余儀なくされ、音楽教師として慎ましい生涯を送った人だ。同じフィンランドの大作曲家シベリウスと全く同じ日に亡くなったから、最期まで注目されなかったんだ。

 その時、むしろ課題曲よりも細かく駄目出しされた。先生に言われたことが全然理解できなくて、どうして課題曲よりも注意されるんだろうとばかり思っていて。
 当時思い描いていたこの曲の海は、冷え冷えとしていて厳しく、一度波に飲み込まれたらもう戻って来ることはできない、そんなイメージだったけど。
 なんだか今回は、優しく波打つ遠浅の海のような気がした。

「ドレミちゃん」
「何?」
「今度、夜の海辺、一緒に歩こう。俺、夜目は利くから」
「うん」

 響と歩く夜の海辺は、きっと暖かい。
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