179 / 352
第八章 人の数だけ気持ちがある
178 神に愛されぬ者の遁走曲 ④
しおりを挟む
沈黙を破ったのは、ずっと何か考えている様子だった相良さんの方だ。
「玲美ちゃんは、優秀なんだね。いい高校に通っているようだし」
高校名なんか言っていないのに、どうしてそう思うんだろう?
「靴下。校章の刺繍、ついてるから」
私の顔を見て、疑問を察した相良さんが答えてくれる。
確かに、紺の靴下には白い校章の刺繍が施されている。なんてしょぼいミス。ズボンは嵩張るから、私服はスカートを選んだ。制服以外のスカートを穿くのがひさしぶりで、そこまで気が回らなかった。自分の浅はかさに泣きたい。
「成績がよくても無意味です。何の役にも立たない」
「ふうん。じゃあさ、僕の妻が勤めてる大学に行かない? ちなみに、僕の妻、研究にはすっごく厳しいよ。遠縁だとかまるで関係なく、成績悪い学生は門前払いだから!」
相良さんが挙げたのはそこそこ有名な私大だ。奥様は美術史の教授をなさっているそう。
「考えてみます」
下を向いたまま、私は気のない返事をする。未来のことなんかわからない。むしろ未来なんて、どうでもいいかもしれない。考えるって、便利な言葉だ。本当は何も考えていなくても、言える。すごく考えさせられました。前向きに検討します。
またしばらく沈黙が場を支配する。今度も沈黙を破ったのは相良さんの方だ。
「僕は、弟さんの名前、覚えてないんだよ。玲美ちゃんの方が印象に残った。必死に食らいついて、がんばってがんばって、でも手に入らないものを知ってる目をしてた」
思わず顔を上げ、相良さんを見る。にこにこと、とても優しく温かい笑顔だ。話の内容と表情がまるで一致していない。
「僕もおんなじで、音楽一族なのに音楽の才能がまるでなかった。代わりに絵が僕を救ってくれたから、よかったら玲美ちゃんもどうだろうか」
「……単純すぎません?」
「年を取ると、単純な方がいいって思うことが増えるんだよ。多機能なものより単機能のものの方が壊れないしね」
私が紅茶を飲み終えると、相良さんは画廊を案内してくれた。
二枚の絵が目に留まる。同じ作者が描いた、淡く神秘的な月の光が差す夜の海と、明るい陽が差したおそらく朝の海の絵。同じ場所なのに、全然印象が違う。
「いいでしょう、この連作」
「光の明るさのせいか、海の色が全然違って見えます」
「ウルトラマリン、海を越えてこの輝かしい青はやってきた。なかなかドラマティックだよね」
ウルトラマリンはラピスラズリを原料にした色だ。十四世紀頃から広く使われ始め、ヨーロッパへの輸入が盛んになったのは十六世紀初頭。ラピスラズリの産地、アフガニスタンからは、地中海を越えて入ってくるルートが一般的だった。だからウルトラマリン。
深い、深い、神秘的な、優しく美しい青の世界。
音楽の世界には拒まれてしまったけれど、絵画の世界は私を歓迎してくれるかもしれない。
それから、私はのんびり勉強をがんばったと思う。相良さんの奥様が勤めている大学は余裕で合格圏内だったし、休日は息抜きがてら相良さんの画廊に通った。ぽつぽつお互いのことを話し、少しずつ打ち解けていったと思う。
ちなみに、やたらお世辞が上手いと思った相良さんは、日本人とドイツ人のクオーターだった。生真面目で堅物なドイツ人……? 偏見はよくないと実感した。
「玲美ちゃんは、優秀なんだね。いい高校に通っているようだし」
高校名なんか言っていないのに、どうしてそう思うんだろう?
「靴下。校章の刺繍、ついてるから」
私の顔を見て、疑問を察した相良さんが答えてくれる。
確かに、紺の靴下には白い校章の刺繍が施されている。なんてしょぼいミス。ズボンは嵩張るから、私服はスカートを選んだ。制服以外のスカートを穿くのがひさしぶりで、そこまで気が回らなかった。自分の浅はかさに泣きたい。
「成績がよくても無意味です。何の役にも立たない」
「ふうん。じゃあさ、僕の妻が勤めてる大学に行かない? ちなみに、僕の妻、研究にはすっごく厳しいよ。遠縁だとかまるで関係なく、成績悪い学生は門前払いだから!」
相良さんが挙げたのはそこそこ有名な私大だ。奥様は美術史の教授をなさっているそう。
「考えてみます」
下を向いたまま、私は気のない返事をする。未来のことなんかわからない。むしろ未来なんて、どうでもいいかもしれない。考えるって、便利な言葉だ。本当は何も考えていなくても、言える。すごく考えさせられました。前向きに検討します。
またしばらく沈黙が場を支配する。今度も沈黙を破ったのは相良さんの方だ。
「僕は、弟さんの名前、覚えてないんだよ。玲美ちゃんの方が印象に残った。必死に食らいついて、がんばってがんばって、でも手に入らないものを知ってる目をしてた」
思わず顔を上げ、相良さんを見る。にこにこと、とても優しく温かい笑顔だ。話の内容と表情がまるで一致していない。
「僕もおんなじで、音楽一族なのに音楽の才能がまるでなかった。代わりに絵が僕を救ってくれたから、よかったら玲美ちゃんもどうだろうか」
「……単純すぎません?」
「年を取ると、単純な方がいいって思うことが増えるんだよ。多機能なものより単機能のものの方が壊れないしね」
私が紅茶を飲み終えると、相良さんは画廊を案内してくれた。
二枚の絵が目に留まる。同じ作者が描いた、淡く神秘的な月の光が差す夜の海と、明るい陽が差したおそらく朝の海の絵。同じ場所なのに、全然印象が違う。
「いいでしょう、この連作」
「光の明るさのせいか、海の色が全然違って見えます」
「ウルトラマリン、海を越えてこの輝かしい青はやってきた。なかなかドラマティックだよね」
ウルトラマリンはラピスラズリを原料にした色だ。十四世紀頃から広く使われ始め、ヨーロッパへの輸入が盛んになったのは十六世紀初頭。ラピスラズリの産地、アフガニスタンからは、地中海を越えて入ってくるルートが一般的だった。だからウルトラマリン。
深い、深い、神秘的な、優しく美しい青の世界。
音楽の世界には拒まれてしまったけれど、絵画の世界は私を歓迎してくれるかもしれない。
それから、私はのんびり勉強をがんばったと思う。相良さんの奥様が勤めている大学は余裕で合格圏内だったし、休日は息抜きがてら相良さんの画廊に通った。ぽつぽつお互いのことを話し、少しずつ打ち解けていったと思う。
ちなみに、やたらお世辞が上手いと思った相良さんは、日本人とドイツ人のクオーターだった。生真面目で堅物なドイツ人……? 偏見はよくないと実感した。
0
お気に入りに追加
97
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
鬼上官と、深夜のオフィス
99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」
間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。
けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……?
「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」
鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。
※性的な事柄をモチーフとしていますが
その描写は薄いです。
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる