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第八章 人の数だけ気持ちがある
178 神に愛されぬ者の遁走曲 ④
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沈黙を破ったのは、ずっと何か考えている様子だった相良さんの方だ。
「玲美ちゃんは、優秀なんだね。いい高校に通っているようだし」
高校名なんか言っていないのに、どうしてそう思うんだろう?
「靴下。校章の刺繍、ついてるから」
私の顔を見て、疑問を察した相良さんが答えてくれる。
確かに、紺の靴下には白い校章の刺繍が施されている。なんてしょぼいミス。ズボンは嵩張るから、私服はスカートを選んだ。制服以外のスカートを穿くのがひさしぶりで、そこまで気が回らなかった。自分の浅はかさに泣きたい。
「成績がよくても無意味です。何の役にも立たない」
「ふうん。じゃあさ、僕の妻が勤めてる大学に行かない? ちなみに、僕の妻、研究にはすっごく厳しいよ。遠縁だとかまるで関係なく、成績悪い学生は門前払いだから!」
相良さんが挙げたのはそこそこ有名な私大だ。奥様は美術史の教授をなさっているそう。
「考えてみます」
下を向いたまま、私は気のない返事をする。未来のことなんかわからない。むしろ未来なんて、どうでもいいかもしれない。考えるって、便利な言葉だ。本当は何も考えていなくても、言える。すごく考えさせられました。前向きに検討します。
またしばらく沈黙が場を支配する。今度も沈黙を破ったのは相良さんの方だ。
「僕は、弟さんの名前、覚えてないんだよ。玲美ちゃんの方が印象に残った。必死に食らいついて、がんばってがんばって、でも手に入らないものを知ってる目をしてた」
思わず顔を上げ、相良さんを見る。にこにこと、とても優しく温かい笑顔だ。話の内容と表情がまるで一致していない。
「僕もおんなじで、音楽一族なのに音楽の才能がまるでなかった。代わりに絵が僕を救ってくれたから、よかったら玲美ちゃんもどうだろうか」
「……単純すぎません?」
「年を取ると、単純な方がいいって思うことが増えるんだよ。多機能なものより単機能のものの方が壊れないしね」
私が紅茶を飲み終えると、相良さんは画廊を案内してくれた。
二枚の絵が目に留まる。同じ作者が描いた、淡く神秘的な月の光が差す夜の海と、明るい陽が差したおそらく朝の海の絵。同じ場所なのに、全然印象が違う。
「いいでしょう、この連作」
「光の明るさのせいか、海の色が全然違って見えます」
「ウルトラマリン、海を越えてこの輝かしい青はやってきた。なかなかドラマティックだよね」
ウルトラマリンはラピスラズリを原料にした色だ。十四世紀頃から広く使われ始め、ヨーロッパへの輸入が盛んになったのは十六世紀初頭。ラピスラズリの産地、アフガニスタンからは、地中海を越えて入ってくるルートが一般的だった。だからウルトラマリン。
深い、深い、神秘的な、優しく美しい青の世界。
音楽の世界には拒まれてしまったけれど、絵画の世界は私を歓迎してくれるかもしれない。
それから、私はのんびり勉強をがんばったと思う。相良さんの奥様が勤めている大学は余裕で合格圏内だったし、休日は息抜きがてら相良さんの画廊に通った。ぽつぽつお互いのことを話し、少しずつ打ち解けていったと思う。
ちなみに、やたらお世辞が上手いと思った相良さんは、日本人とドイツ人のクオーターだった。生真面目で堅物なドイツ人……? 偏見はよくないと実感した。
「玲美ちゃんは、優秀なんだね。いい高校に通っているようだし」
高校名なんか言っていないのに、どうしてそう思うんだろう?
「靴下。校章の刺繍、ついてるから」
私の顔を見て、疑問を察した相良さんが答えてくれる。
確かに、紺の靴下には白い校章の刺繍が施されている。なんてしょぼいミス。ズボンは嵩張るから、私服はスカートを選んだ。制服以外のスカートを穿くのがひさしぶりで、そこまで気が回らなかった。自分の浅はかさに泣きたい。
「成績がよくても無意味です。何の役にも立たない」
「ふうん。じゃあさ、僕の妻が勤めてる大学に行かない? ちなみに、僕の妻、研究にはすっごく厳しいよ。遠縁だとかまるで関係なく、成績悪い学生は門前払いだから!」
相良さんが挙げたのはそこそこ有名な私大だ。奥様は美術史の教授をなさっているそう。
「考えてみます」
下を向いたまま、私は気のない返事をする。未来のことなんかわからない。むしろ未来なんて、どうでもいいかもしれない。考えるって、便利な言葉だ。本当は何も考えていなくても、言える。すごく考えさせられました。前向きに検討します。
またしばらく沈黙が場を支配する。今度も沈黙を破ったのは相良さんの方だ。
「僕は、弟さんの名前、覚えてないんだよ。玲美ちゃんの方が印象に残った。必死に食らいついて、がんばってがんばって、でも手に入らないものを知ってる目をしてた」
思わず顔を上げ、相良さんを見る。にこにこと、とても優しく温かい笑顔だ。話の内容と表情がまるで一致していない。
「僕もおんなじで、音楽一族なのに音楽の才能がまるでなかった。代わりに絵が僕を救ってくれたから、よかったら玲美ちゃんもどうだろうか」
「……単純すぎません?」
「年を取ると、単純な方がいいって思うことが増えるんだよ。多機能なものより単機能のものの方が壊れないしね」
私が紅茶を飲み終えると、相良さんは画廊を案内してくれた。
二枚の絵が目に留まる。同じ作者が描いた、淡く神秘的な月の光が差す夜の海と、明るい陽が差したおそらく朝の海の絵。同じ場所なのに、全然印象が違う。
「いいでしょう、この連作」
「光の明るさのせいか、海の色が全然違って見えます」
「ウルトラマリン、海を越えてこの輝かしい青はやってきた。なかなかドラマティックだよね」
ウルトラマリンはラピスラズリを原料にした色だ。十四世紀頃から広く使われ始め、ヨーロッパへの輸入が盛んになったのは十六世紀初頭。ラピスラズリの産地、アフガニスタンからは、地中海を越えて入ってくるルートが一般的だった。だからウルトラマリン。
深い、深い、神秘的な、優しく美しい青の世界。
音楽の世界には拒まれてしまったけれど、絵画の世界は私を歓迎してくれるかもしれない。
それから、私はのんびり勉強をがんばったと思う。相良さんの奥様が勤めている大学は余裕で合格圏内だったし、休日は息抜きがてら相良さんの画廊に通った。ぽつぽつお互いのことを話し、少しずつ打ち解けていったと思う。
ちなみに、やたらお世辞が上手いと思った相良さんは、日本人とドイツ人のクオーターだった。生真面目で堅物なドイツ人……? 偏見はよくないと実感した。
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