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本編・きっかけはどうでも
28 Track Down ④
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「暇を感じることなんか、もう何年もなくて。勤務時間が足りないとか、眠る時間が足りないとか、そんなことしか思ってなかったのに。いざ無職になってみると、あんなに贅沢だと思っていた暇が、苦痛で、仕方なくて」
何もすることがないと、自分がどんなに無力かを思い知らされて、たまらなくなった。忙しければ見て見ぬ振りができるものも、ごまかせなくなる。
「彼のために生き方を変えることはできなかったのに。しょせんその程度の想いだったんだなってことだけがわかりました。私は本当に情のない人間だと思った」
たぶん、一番つらかったのは、これだ。私は彼のことを本当に大切に想えていたのか。
「たぶん、そうじゃないです」
先生がやんわりと否定する。
「どんなに好きなことでも、行き詰まった時、支えになる何かがないと続けられないです。律さんは彼がいたからがんばれたのだと思います。そして、重い荷物を一人で抱えることはないです」
三浦先生は私を心配するように見つめ、訊ねてくる。
「寒いですか?」
「……え?」
問われて、カタカタと震えている自分に気づく。少し待っていてください、そう言って先生は席を立った。
私は何を話してしまったんだろう。重い。大人なんだから、言うべきことと言うべきではないことを分けるべきだ。私は今、明らかに言うべきではないことを口にしてしまった。上手く言えないとか、言わないようにしようとか、臨界点を超えてしまうと、一番駄目なことを口にしてしまう。最悪。
そんなことを考えていると、先生が笑顔で戻ってきた。
「どうぞ」
温かいペットボトルの紅茶を差し出される。
「ありがとうございます……」
間違いだらけの私に、先生はいつでも温かく優しい。ペットボトルの蓋を開けると、爽やかなレモンの香りがした。
「僕は、律さんがお付き合いしておられた彼の気持ちが、正直、わかる気がするんです。覚えてらっしゃらないかもしれないですが、代打で学会発表をしたって話、しましたよね」
「覚えています……」
「共同研究をした先輩は、僕の恋人でした。僕よりよほど才能があって、師匠からも期待されていた」
先生の忘れられない恋人は、同じフィールドにいた方だったんだ。
「亡くなったのは彼女の父親だったので、博士課程を終えた後、研究員として大学に籍を残し、論文を書きながら常勤の研究職を探すというルートを、彼女は断念せざるを得ませんでした。食べていけないからです。実家が太いかどうかは、研究者が一人立ちするまでに、大きく影響するんですよね。残念ながら、現在はまだ」
先生は淡々と、でも少し悔しそうな表情で言う。
「学問の世界は、最初は才能よりも環境が大きいです。僕の実家も医者と学者の家系で、レールは敷かれていました。学問を志すことを許されるかどうか、誰とつながりを持てるのかは、運です。僕は運もよかった。代打で発表した学会で知り合いが増えて、ここに投稿してはどうか、こんな募集があるといった情報を得ることもできて、業績を重ねることができました。とんとん拍子に留学する方向へ話が進んだんです」
仕立てのよいスーツ、物腰のやわらかさ、穏やかな雰囲気。先生の経歴を少しうかがって、初めて見た時の育ちがよさそうという印象は外れていなかったんだな、なんて、少しずれたことを考える。
「でも、学問の世界は残酷で、最後にものを言うのは才能です。3年間の留学で何かを得られるか、僕は全く自信がなくて。そして、本来彼女が手にすべきだった成果を僕が奪ってしまったという思いが消えなくて。待っていてくれと言うことはできませんでした。自力で成果を得るまで、そんなことを言う資格はないような気がしていた」
先生はしばらく黙り、遠くを眺めていた。空を眺めているようで、本当は何も見ていないような、そんな目。
何もすることがないと、自分がどんなに無力かを思い知らされて、たまらなくなった。忙しければ見て見ぬ振りができるものも、ごまかせなくなる。
「彼のために生き方を変えることはできなかったのに。しょせんその程度の想いだったんだなってことだけがわかりました。私は本当に情のない人間だと思った」
たぶん、一番つらかったのは、これだ。私は彼のことを本当に大切に想えていたのか。
「たぶん、そうじゃないです」
先生がやんわりと否定する。
「どんなに好きなことでも、行き詰まった時、支えになる何かがないと続けられないです。律さんは彼がいたからがんばれたのだと思います。そして、重い荷物を一人で抱えることはないです」
三浦先生は私を心配するように見つめ、訊ねてくる。
「寒いですか?」
「……え?」
問われて、カタカタと震えている自分に気づく。少し待っていてください、そう言って先生は席を立った。
私は何を話してしまったんだろう。重い。大人なんだから、言うべきことと言うべきではないことを分けるべきだ。私は今、明らかに言うべきではないことを口にしてしまった。上手く言えないとか、言わないようにしようとか、臨界点を超えてしまうと、一番駄目なことを口にしてしまう。最悪。
そんなことを考えていると、先生が笑顔で戻ってきた。
「どうぞ」
温かいペットボトルの紅茶を差し出される。
「ありがとうございます……」
間違いだらけの私に、先生はいつでも温かく優しい。ペットボトルの蓋を開けると、爽やかなレモンの香りがした。
「僕は、律さんがお付き合いしておられた彼の気持ちが、正直、わかる気がするんです。覚えてらっしゃらないかもしれないですが、代打で学会発表をしたって話、しましたよね」
「覚えています……」
「共同研究をした先輩は、僕の恋人でした。僕よりよほど才能があって、師匠からも期待されていた」
先生の忘れられない恋人は、同じフィールドにいた方だったんだ。
「亡くなったのは彼女の父親だったので、博士課程を終えた後、研究員として大学に籍を残し、論文を書きながら常勤の研究職を探すというルートを、彼女は断念せざるを得ませんでした。食べていけないからです。実家が太いかどうかは、研究者が一人立ちするまでに、大きく影響するんですよね。残念ながら、現在はまだ」
先生は淡々と、でも少し悔しそうな表情で言う。
「学問の世界は、最初は才能よりも環境が大きいです。僕の実家も医者と学者の家系で、レールは敷かれていました。学問を志すことを許されるかどうか、誰とつながりを持てるのかは、運です。僕は運もよかった。代打で発表した学会で知り合いが増えて、ここに投稿してはどうか、こんな募集があるといった情報を得ることもできて、業績を重ねることができました。とんとん拍子に留学する方向へ話が進んだんです」
仕立てのよいスーツ、物腰のやわらかさ、穏やかな雰囲気。先生の経歴を少しうかがって、初めて見た時の育ちがよさそうという印象は外れていなかったんだな、なんて、少しずれたことを考える。
「でも、学問の世界は残酷で、最後にものを言うのは才能です。3年間の留学で何かを得られるか、僕は全く自信がなくて。そして、本来彼女が手にすべきだった成果を僕が奪ってしまったという思いが消えなくて。待っていてくれと言うことはできませんでした。自力で成果を得るまで、そんなことを言う資格はないような気がしていた」
先生はしばらく黙り、遠くを眺めていた。空を眺めているようで、本当は何も見ていないような、そんな目。
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