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本編・きっかけはどうでも
09 Track Up ③
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しまった。はっきり言い過ぎた。私はどうもうまくオブラートに包むことができない。思わず顔をこわばらせると、先生は優しく返してくださる。
「アンケートにもそう書いてくださいましたね」
アンケートにはさすがにそこまではっきりは書かなかった。
楔形文字そのものの話や解読した内容についてもっと聞きたかったのに、結局、現在の私達とどうつながっているのかみたいなさらっとした概略になってしまったから、物足りなく感じたのだ。流れは自然だしわかりやすかったけれど、そんな一般化はたぶん素人でもできる。だから「ハンムラピ法典に書かれている文言そのものをもっと掘り下げて解説してほしかったです」と書いた。
「そう思っていただけて、とても嬉しいです」
先生はもう一度笑顔を浮かべた。おそらく今度は、社交辞令ではないやつを。
「実は以前失敗したことがあるんです。特化しすぎて」
「失敗?」
「そう。なんとか時間内に本来の専門分野の導入部分だけでも解説しようとしたんですけど、1回完結1時間半では無理があったようで。自由記述欄の記入率、過去最低を記録しました」
先生は小さく笑い声を上げた。
「反応がないというのは、失敗ってことなんですよね。こういう企画の場合」
なるほど。悪い点を言われる方が改善できるから。反応がないのは、相手にすらされてないということだ。
「記述、3件しかなかったんです。その内の2件が『難しかったです』と『すごい内容なんでしょうけど駆け足でよくわかりませんでした』でまずいなあと思ったんですけど。最後の1件に『今までふれたことのない世界へ誘われてどきどきしました』と書かれていて。ああ、企画としては失敗したけれど、僕は報われたなあと思いました」
それを聞いて私もほっとする。1件ポジティブな反応があるだけでどれだけ安心することか。
「それ、書いてくれたの、高橋さんなんです」
? 脳内に疑問符が舞う。私が公開講座を見に行ったのはこの間が初めてだ。仕事をしている頃だったら、見に行こうなんて考えもしなかったと思うし。
私はきっと不思議そうな顔をしていたのだろう。先生は、小さく「あっ」とつぶやいて、続ける。
「従姉妹の、ゼミ生の高橋さんの方。この時の公開講座をきっかけに、うちの大学を受験しようと決めたのだそうです。つまり、企画としては失敗だったけれど、大学の営業としては成功したってことなんでしょうね」
「あ、従姉妹の方……」
「まあ、そんなきっかけでうちのゼミに来てくれた高橋さんも、結局楔形文字の研究はしていません。『演劇の起源と歴史』が彼女のテーマです」
そういえば、サークルも演劇って言っていたな、この間。
「……高橋さんって呼ぶと、ゼミ生のことかあなたのことかわからないですね」
先生は急に思案顔になる。
「そう、ですかね」
ある程度は文脈でわかるとは思うけど、さっきみたいにいきなりだと勘違いするかもしれないし、確かに高橋飽和状態にはなる。そんなことを考えていると唐突に呼びかけられた。
「律さん」
「は、はい?」
「律さんとお呼びしても、いいですか?」
ちょっとびっくりした。けれど、前の職場でも高橋姓の女子が他にいて名前で呼ばれていたので、そこまで抵抗はない。
「いいですけど」
「じゃあ、これからそう呼びますね」
よくわからないうちに私の新しい呼び名が決まり、その日の仕事は終わった。
「アンケートにもそう書いてくださいましたね」
アンケートにはさすがにそこまではっきりは書かなかった。
楔形文字そのものの話や解読した内容についてもっと聞きたかったのに、結局、現在の私達とどうつながっているのかみたいなさらっとした概略になってしまったから、物足りなく感じたのだ。流れは自然だしわかりやすかったけれど、そんな一般化はたぶん素人でもできる。だから「ハンムラピ法典に書かれている文言そのものをもっと掘り下げて解説してほしかったです」と書いた。
「そう思っていただけて、とても嬉しいです」
先生はもう一度笑顔を浮かべた。おそらく今度は、社交辞令ではないやつを。
「実は以前失敗したことがあるんです。特化しすぎて」
「失敗?」
「そう。なんとか時間内に本来の専門分野の導入部分だけでも解説しようとしたんですけど、1回完結1時間半では無理があったようで。自由記述欄の記入率、過去最低を記録しました」
先生は小さく笑い声を上げた。
「反応がないというのは、失敗ってことなんですよね。こういう企画の場合」
なるほど。悪い点を言われる方が改善できるから。反応がないのは、相手にすらされてないということだ。
「記述、3件しかなかったんです。その内の2件が『難しかったです』と『すごい内容なんでしょうけど駆け足でよくわかりませんでした』でまずいなあと思ったんですけど。最後の1件に『今までふれたことのない世界へ誘われてどきどきしました』と書かれていて。ああ、企画としては失敗したけれど、僕は報われたなあと思いました」
それを聞いて私もほっとする。1件ポジティブな反応があるだけでどれだけ安心することか。
「それ、書いてくれたの、高橋さんなんです」
? 脳内に疑問符が舞う。私が公開講座を見に行ったのはこの間が初めてだ。仕事をしている頃だったら、見に行こうなんて考えもしなかったと思うし。
私はきっと不思議そうな顔をしていたのだろう。先生は、小さく「あっ」とつぶやいて、続ける。
「従姉妹の、ゼミ生の高橋さんの方。この時の公開講座をきっかけに、うちの大学を受験しようと決めたのだそうです。つまり、企画としては失敗だったけれど、大学の営業としては成功したってことなんでしょうね」
「あ、従姉妹の方……」
「まあ、そんなきっかけでうちのゼミに来てくれた高橋さんも、結局楔形文字の研究はしていません。『演劇の起源と歴史』が彼女のテーマです」
そういえば、サークルも演劇って言っていたな、この間。
「……高橋さんって呼ぶと、ゼミ生のことかあなたのことかわからないですね」
先生は急に思案顔になる。
「そう、ですかね」
ある程度は文脈でわかるとは思うけど、さっきみたいにいきなりだと勘違いするかもしれないし、確かに高橋飽和状態にはなる。そんなことを考えていると唐突に呼びかけられた。
「律さん」
「は、はい?」
「律さんとお呼びしても、いいですか?」
ちょっとびっくりした。けれど、前の職場でも高橋姓の女子が他にいて名前で呼ばれていたので、そこまで抵抗はない。
「いいですけど」
「じゃあ、これからそう呼びますね」
よくわからないうちに私の新しい呼び名が決まり、その日の仕事は終わった。
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