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出雲くんのこと②

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 “先生”と呼ばれていた男はてっきりもう現れないものだと決めつけていた。
 だって、あの子はもう大学生活も終盤にかかっているのよ? あんなに若い男の子の貴重な三年半以上もの時間を、奪うことができる? 自分勝手に待たせることができる?
 お姫さまが叶うことのない夢を見てるだけだって思うでしょう。
 知らん顔して僕の店に顔を出して、様子を伺って、それでも出雲くんには姿を見せないで。何様だっていうの。今更何だって言うの。
 許せない。許せるわけがない。
 椎名ちゃんから聞いた、二十歳の日の話。
 毎晩、先生と夢見て呼んでいた出雲くん。
 一人でいられるほど強くはないのに、忘れることもできないで。
 誰かに甘えて、それでなんとか生きているあの姿を知っていて、あいつは放置していたって言うの?
 家族の期待にも、椎名ちゃんや僕の期待にも応えることはできなくて、罪悪感と孤独感に潰れそうになりながら、いつも寂しそうに、そっと距離を置いて微笑んでいたあの子を、知っていて。
 なんて残酷なのだろう。
 本当になんにもわからなくなってしまえばいいのに。
 気持ちいい、気持ちいいって、快楽に浸かりきっているあの子が一番、幸せそうに見える。
 ずっと僕が、安らげる場所に沈めておいてあげるのに。


 くたくたに疲れているのにどうしても寝付けず、ベットから起き上がってキッチンへ向かう。
 こんな時は出雲くんによくお酒を作ってもらっていたのにね。
 水切りラックからグラスを取って、ガランゴロンと派手な音を立てながら氷を入れる。一人きりのキンと冷えた部屋にそれはよく響いた。安い焼酎をレモンフレーバーの炭酸水で割る。なんの面白みもない、アルコールをとるためのお酒。
 ――コン……コン、コン
 ぐっと飲み干す勢いでそれを喉に流し込んだとき、迷いの捨てきれないノックの音がした。
「路彦さん……いらっしゃいますか?」
 間違えるはずのない、こちらを探る、控えめな、でも覗き込んでくるような声。
 叩きつけるようにグラスをキッチン台に置いて、玄関に飛び込む。
 扉を開ければ、そこには昨夜消えた愛しい子が立っていた。
「出雲くん……」
「路彦さん、あの、メッセージ、見ました。あの動画、本当にどこかに投稿されたのですか?」
 どこに行ってたのと聞く前に、一目散に確認されて言葉に詰まった。なんの情緒もない、危険を感じてここに戻ってきただけだと肩を落とす。
 それでも、ハメ撮りの動画をアップロードするだなんてちゃちな脅しをしておいて良かった。そんなくだらないことでもしなければ、この子はここには戻ってこなかったのだから。
「とりあえず入ったら?」
 何があったのか、どこに行っていたのかなんて知らない。
 ただ、部屋に足を踏み入れこの扉を閉めたら、もう二度とここから出雲くんが外に出られないようにしようと思った。何も気にしてないと笑顔を見せて、やりすぎたと少しの反省の色もつけて、安心させようと努める。
 けれど出雲くんは首を横に振った。
「動画は投稿したんですか?」
「こんなところじゃなくて、中で話しましょうよ……?」
「もう提示されていた時間は過ぎてます。投稿されたんですか?」
 たれ目の可愛いお顔が、健気に僕を睨みつける。頑固なこの子のことだ、返事をするまでこの質問は繰り返されるだろう。
「そんな怖い顔しないで」
 力の入った目尻を、指の背で撫でる。
「投稿してないわ」
 本当はぼかしてこのまま中に引き入れたかったけれど、まずは警戒心を解こうと真実を告げた。安心させようと思った。
 しかし出雲くんは僕の返答に大きく目を見開いて、何度も瞬きをして、しまいには顔をくしゃくしゃにして俯いた。望みを失った声で、どうして、と呟く。
「なんでですか?! 今からでも投稿してください! もっと顔が見えていて、すぐに俺だとわかる動画がいいです!」
 顔を上げて吐き出された言葉に、思わず顔をしかめる。どういうことなの。しかし出雲くんからしたらとても重要なことのようで、僕の反応を見ると、なんで、と唇をわなわな震わせた。
「俺の人生めちゃくちゃにしてください。そうしないと、先生が閉じ込めてくれないんです。もう先生の世界でしか生きたくない。先生がいれば何もいらない!」
「前に言ってた監禁がどうのってやつ? どうしてよ。出雲くん、あなた皆の前から本当にいなくなってしまう気なの?」
 腰を屈めて震える肩に手を置き、動揺する出雲くんへと目線を合わせて問いかける。
 出雲くんの顔をしっかり見て、目の焦点が合っていないことに気がつく。ゆらゆらとする瞳で、吐く息を震わせて、鼻を啜って。焦点の合わないまま僕の顔がある方に、ぼんやりと目を向ける。
 弱々しい手が伸びてきて、覚束ない様子で僕のシャツの襟元を縋るように掴んだ。
「でも、先生、閉じ込めてくれないって……ひどい……ずっと、ずっと待ってたのに」
 はらはらと、大粒の涙が静かにこぼれ落ちる。
「路彦さん……俺に、酷いことして……動画投稿じゃなくてもいいです。してみたかったプレイとか、ありますか? 怪我させても、いいから。お願いします。傷が残ってもいいから。訴えたりしないから。何でもします。お願いします。路彦さん、お願い……」
 訴えかけるその瞳はこちらを向いてはいるけれど、僕を見ているのかと問われれば、そうだと言える自信はなかった。
 いつ倒れてもおかしくないような、ふらつく出雲くんをとにかく中へと誘導し、いつも座っていたクッションに座らせた。何か飲むかと聞いても俯いて首を横に振るので、あえて距離を取ってテーブルを挟んで出雲くんの向かいに僕も腰を下ろす。
 煙草に火をつけて、さっき作った適当なアルコールを流し込む。
「ねぇ……」
 呼びかけながら、一年半ほどの甘い生活と二ヶ月の退廃的な生活が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
 もう出雲くんがいない生活なんて思い出せない。
 僕だって待っていた。
 出雲くんがいつか先生を忘れて、僕と向き合ってくれる日を待っていた。抱いてと言われた日、やっと踏ん切りがついたのかと思った。
 隣にいれば未来が続いていくと思っていたあの日々は、最初から終わると決まりきっていたものだったの?
 自分がこの子にとって、都合がいい存在だとは理解していたのに。僕が思っていたよりそれはずっと、軽いものだった。
 本当にこの子は、僕でも、椎名ちゃんでも、誰でもよかったんだ。
「もしかして、僕に抱かれたのもそれが理由なの? 自分が酷いことされれば、あいつが捕まえてくれるとか、そういう話なわけ? あんたは“先生”と一緒になるために僕を利用したの?」
「違います」
 出雲くんは顔を上げ、首を横に振った。
「俺が悪い子だから」
 震える手が左耳のほくろとピアスを一緒になで、そのまま滑って金魚を愛でる。
「あれは先生の指示です。俺が男の人に寄りかからないと生きていけない、悪い子だから。だから先生は、本当に俺が自分のことが好きだか不安になってしまったんです。路彦さんと体の関係まで持ってしまったら、俺は路彦さんが好きになるのではと、不安にさせてしまったんです。
 路彦さんに抱かれたのは、先生への愛の証明です。だから、動画も撮ったんです。先生に見せるために。先生は他の男に抱かれる俺を見て興奮できるし、俺がちゃんと路彦さんを好きになってないって見てもらうために」
 虚ろな目をして淡々と語る出雲くんの言ってることが、わかるけど、理解できなかった。
「でも、頑張ったから、わかってもらえたから、お迎えに来てくださったんです。もう先生とずっと一緒です。俺ね、先生のお嫁さんになるんですよ」
 ふふ、と嬉しそうに、でも照れくさそうに、首を竦めた出雲くんは、すぐにまた肩を落とし、唇を固く結ぶ。
「なのに……閉じ込めてくれないって。やだ……どうして。路彦さん、助けて。俺にもっと酷いことして……助けて、お願いします」
 ――ここまできて、まだ僕を都合よく使おうっていうのね。
 ついそんな悪態が出そうになったが、代わりに煙草の煙を吐き出した。
 そもそも自分で選択した道だ。
「僕に言ったことを……あいつに言ってやりなさいよ。閉じ込めてってお願いしなさいよ」
「だめなんです。先生に幻滅されちゃう。先生が好きな俺はきっと、そんな俺じゃない。先生が好きなのは、人に好かれて、世間知らずで、華やかな生活に憧れて、それに喜ぶような……別れた時、そんなことを言っていましたから」
 瞬きとともに落ちそうになる涙を、頬を覆うようにしてそっと、上品に薬指ですくい取る。指の先まで出雲くんは美しい。
 むしろ僕は、アンタはそんな先生に幻滅しないのかと問いただしてやりたい。
 しかしここまでの会話で出雲くんは監禁されなかったことにのみ絶望したのだろうことは理解していた。放置されたことも、他の男に抱かれろと指示されたことも問題ではないのだ。
 それにこの子の気持ちを僕にも理解できる。
 ここまで自分の好意を踏みにじられていたと知った今でも、出雲くんを嫌いになれないのだから。
「先生の期待まで、裏切れません」
 ぼろぼろな癖にきちんと正座をして姿勢を正しながら出雲くんは、膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。
 期待されても困るとでもいうように、なんともない顔をしてお姉さんに接していた出雲くんを思い出すと、その言葉に胸がざわついて堪らなくなる。この子はどこまで自分に失望しなければいけないのだろう。
 ここまで巻き込まれて、都合よく使われて、さすがに部外者でいるつもりはない。近づいて離れてしまうことが怖くてできなかった、出雲くんに近づくための一歩を、覚悟を決めて踏み出した。
「そもそも、なんでアンタたち別れたのよ。先生とやらが出雲くんを大事にしてるとは思えないけど、あいつだって結局切るに切れずに、少なからず出雲くんに縛られてるわけじゃない。理解に苦しむわ。人を巻き込んで、また助けを求めるなら何があったか僕には聞く権利はあるはずよ」
「少なからずじゃないです」
 出雲くんは濡れた瞳でうなずき、微笑んだ。
「先生は一生、俺に縛られるんです」

 加賀見という男は何を考えているのかわからない、立ち振舞いや表情、言動に違和感のある男だった。
 会話からも人に興味をもっていないことはわかるし、自分本位であるのに対し、なぜか強烈な視線を向けてくるのだ。成人男性に似つかわしくない子供のように大きな瞳は、相手を気遣うことなくこちらを観察してくる。うちのキャストは程度の差はあれど、セクシャルマイノリティという立場から人の視線には敏感だ。だからかみんな、加賀見ちゃんの接客をするのを嫌がった。
 あの男は自分の閉じた世界に引きこもっているのだ。
 外の世界になにがあるか窓の外を眺めているけれど、外へ出ることはない。
 そのはずだった。
 でも出雲くんを見つけてしまったんだ。
 出雲くんから話を聞いて腑に落ちた。
 自分の世界に連れて帰りたいけれど、それもできずにずっと馬鹿みたいに迷っているわけだ。
 見つけた出雲くんがあんまり素敵だったから。
 出雲くんと同じ世界にいる人間たちと自分が違うとわかるから。
 羨ましくて、妬ましくて、眩しくて仕方ないんだわ。
 だっさい男。
「何が愛の証明よ。三年、いいえ、あんたは大学生活の全部をあいつのために使ったんでしょ? ずっとあいつを想い続けてたんでしょ? 愛してないわけないじゃない。ずっとずっと待ってた出雲くんにどうしてそんなことさせられるっていうの? 愛してるに決まってるじゃない。
 きっといつまで経っても、あいつが満足することはないわ。人と違う自分では幸せにできない、あっちのほうが、こっちのほうがってうじうじ考えるのよ。出雲くんだっていつかは心が変わるって、疑って試すことがやめられないのよ。出雲くんを閉じ込めない限りね。でもそんな度胸もない。出雲くんの未来を奪う度胸がない。“自分の愛する出雲くん”を奪う度胸がない」
 声を荒らげ、怒鳴りつけてしまいそうなのを堪えながら、できる限り冷静に話した。けれど噛みしめるように紡ぐ言葉に怒りが込められていることに出雲くんは気がついたと思う。そして僕の言っていることが的を得ていることにも気がついたと思う。
 聞いてるうちに出雲くんの呼吸はじわじわと荒くなっていき、激しく胸が上下していた。乾いていた涙が込み上げてきて、でもそれを我慢しようと、震えた息を何度も吐き出す。
 出雲くんの横に静かに移動すると、甘えたなこの子はすぐに僕の胸に抱きついてきた。胸にしがみついて、肩を震わせて静かに泣いている。本当に隙だらけ。こんな子を野放しにしようなんて馬鹿じゃないの。
「そんな男いいじゃない。僕が代わりに閉じ込めてあげる。たくさん愛してあげる。出雲くんが可愛くて、愛しくてたまらないの。愛してるの。店にも出なくていい。贅沢な暮らしはさせてあげられないけど、ずーっとここで、僕のためだけに静かに生きてくれればいい」
 しゃくる背中を優しく優しくさすりながら、真剣に、それでいて甘く誘う。
 出雲くんはもう、外の世界に希望なんてないのに、どうしてそれに気が付かないのかしら。
「もう出雲くんが隣にいないと眠れない」
 目のしっかり開かない、腫れた瞼の奥の瞳を覗き込み、顎に手を添える。
 唇を寄せてみたら、出雲くんは逃げなかった。舌を入れて、出雲くんの舌もすくって求め、何度も吸う。しかし出雲くんに動きはない。
「酷いこと、してくれるんですか?」
 唇が離れたあとの第一声は、残酷だった。

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