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ごめんなさい①
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窓際に置かれた二人で使用するには小さな丸テーブルに、華やかなラベルで飾られたビールを所狭しと並べて、みなとみらいの夜景を眺めながら静かに酒を飲む。
遠くには海が、近くには観覧車が見える。遊園地の営業はもう終了しているのだろうが、イルミネーションはまだ点灯されたままだ。上層階ならば上から見渡せたのだろうが、三階のこの部屋は代わりに明かりが近い。電気を点けず窓のカーテンを開けているだけで部屋の中はうっすらと明るい。確か日付が変わるまでのはずだから、残り一時間くらいか。観覧車らしく明かりが色とりどりに変化しながら回転し、それが海面もチカチカと飾り付けている。おもちゃ箱のようなイルミネーションが賑やかで海の静けさを打ち消すようだ。
「路彦さん」
向かいに座っている彼は、いつもよりお酒のペースが早く、言葉少ない。今も俺を見ずに窓の外を眺めている。
「あのお客様……今までお会いしたことなかったです。常連さんですか?」
「加賀見ちゃん? そうね……頻度は高くないけれど、もう一年近く来てくださってるわ。いつも水曜にいらっしゃるから、出雲くんとは会わなかったのね」
そんなに前から。俺の休みの日にわざと来ていたのは確実だが、それは何のためなのだろう。俺には会わずに、何をしていたのだろう。カメラや盗聴器でも仕掛けてたら洒落にならないし、やりかねないんだよなと頭が痛くなる。
「随分懐いてたじゃない」
「え、ああ……酔ってましたから」
「それだけ? あんなにしがみついて、僕が呼んでもイヤイヤするから困っちゃった」
何か良い言い訳はないかなと視線を巡らせていたら、机に置かれた灰皿が目に止まった。
「路彦さんと同じお煙草だったからかもしれませんね」
「僕と同じ煙草? 先生と同じ煙草でしょ」
路彦さんが煙草を咥えたので慌ててライターを手に取り火をつけた。
「この煙草吸ってる男が好きってだけなのかしら」
「馬鹿をおっしゃらないでください」
「まぁ……加賀見ちゃんはかっこいいわよね」
「もしかして、妬かれてます? 路彦さんも素敵ですよ」
「はぁ、そう、妬いてる。でも加賀見ちゃんに妬いてるとか、そんな簡単な話じゃない。あなたからしたら、先生以外の男はみんな一緒なんでしょうね……僕だって別にあなたの特別じゃない」
その先生こそがあなたが“加賀見ちゃん”と呼ぶ男なのだが。もちろんそんなことは言わず、椅子からふわっと身体を床へ滑らせ、路彦さんの膝に擦り寄った。太ももを撫でて、膝を割らせて、片方の太ももに頭を乗せて寄りかかる。そして部屋に用意されていた厚手の生地でできたガウンの上から、膨らみを探った。
「そんな寂しいこともおっしゃらないで」
撫でているとどんどん固くなっていく。路彦さんよりも俺の息が荒くなる。
先生に言われたから抱かれるだけ。
それでも俺は路彦さんに好意を抱いてはいる。先生との再会を果たした今、他の人には触れられるのも嫌だけど、この人が相手なら心の底から嫌というほどではない。
「路彦さんだって特別な人ですよ?」
だからちゃんと、誠意をもってそう答えた。
先生は画面越しに俺のこの感情を察してしまうだろうか。
「僕が触ろうか?」
熱い息を飲み込むようにしながら声が発せられる。ずっとおあずけをくらっているせいで我慢癖がついてしまったのか、ここまでしてあげてもそんな提案をしてくる彼に好感をもった。かわいい。
けれどせっかくの申し出は断らせてもらい、代わりにガウンの前を開く。下はボクサーパンツのみ身に付けたその姿は、普段から自宅でのトレーニングや時間をとってスポーツジムに通い、ボディメイクをしっかりしているだけあってため息が出るほど綺麗だった。陰影をくっきり見せるその一つ一つが主張しているような筋肉は、自分の細いから浮き出ているだけのものとは全然違う。しかし厚みのあるその腹筋の下では、下着の中で男性器が苦しそうに盛り上がっている。それが色っぽいし、隙を見せてくれているようでもあって魅力的だった。
「俺、シャワー長かったでしょう?」
「ん……そうだったかも」
意識を逸らすように煙草の灰を灰皿に落とすのを見ながら、内ももを撫でる。
「準備してきたんです」
挑発するように言うと路彦さんの表情は止まった。そうして少し経ってから今度は止まっていた分を取り戻すかのように、瞬きをしながら喉を鳴らす。
その間に俺は下着を脱がせていく。表情が止まっていても、お尻や足をあげてちゃんと脱がしやすいようにしてくれるのが可笑しくて、吹き出してなかなかに笑ってしまった。すると路彦さんは目を細めてわざとらしい笑みを作りながら、手で口を抑えて笑う俺の脇腹を足先でくすぐってきた。くわえ煙草の唇がいやに性的だ。
「ちょっと、路彦さん……だめ、だめですって……ふふ、笑い止まらなくなっちゃいます」
「出雲くんが生意気だからいけないの」
「だって路彦さん……きっと経験豊富でしょう? ホストされてたと酔ってポロッと言ってらしたのも覚えてますからね? そんな方が凄く初々しい反応されるから、なんだか可笑しくって」
目尻を拭いながら路彦さんを見ると、眉を上げて肩をすくめる姿があった。
「まぁ、それなりにね。全然売れなくて枕とかしてたわ」
「まくら? ですか?」
「やだ、知らないの? 客と寝るのよ。ダメホストの典型ね」
「路彦さんが……? お客様と接している姿を見ていると、そんな風には思えませんが……」
返事はせずにただ笑って、くすぐっていた足で今度は俺のガウンが開かれる。夜の誘いをするために下着は履かなかった。肩に掛けただけの状態で、腕には袖が通っているのにあとは全部さらけ出されている。
なんだか急に恥ずかしくなってきて顔を横に背けたくなるが、ぐっと気合を入れて路彦さんを見上げる。
強気でいないと本当は逃げ出してしまいそうだった。
できる限り軽い気持ちで、俺はこの人が嫌いじゃないから、性的な魅力も感じているから、セックスをしよう。そもそも抱かれるつもりだった。ちゃんとできる。これはプレイの一環だ。路彦さんの後ろには先生がいるのだ。
「大丈夫?」
煙草を灰皿に押し付けてビールに口をつけ、路彦さんは優しい声で聞いてきた。
「え……」
「いーえ。ベッド行こっか」
俺が頷くのをしっかり見届けてから、路彦さんは俺の手を引いてベッドまでエスコートしてくれた。ダブルベッドではなく、シングルベッドが二つ並んでいるうちの窓際のベッドに、二人で自然と身を寄せ合って寝転んだ。
「これじゃあ家で寝るのと変わらないわね」
「でも同性ですし、ダブルベッドはやっぱり泊まりづらいというか……そもそも断られちゃいますかね」
「そのへんは気にしてなかったけど……家まで出雲くんがもたないと思ってホテルとったのよ? 今日は一人でゆっくり寝かしてあげようと思ったの。一緒に寝るとモヤモヤしちゃうでしょ」
「何がモヤモヤするんですか」
「僕が。僕のちんこが」
「もう。路彦さんってすぐそういうこと言う……自称エレガントな口調、でしょう」
二人揃って着ている意味のあまりないガウンを羽織ったままだ。少しめくって、割れた腹筋の四角形を一つずつ指でなぞる。こんなに誘っているのに、路彦さんがなかなか手を出してこないので手持ち無沙汰というか、落ち着かない。
「そこが自称なのよ。この口調はね、キャラ付けなの。影が薄かったから、ホスト時代に苦肉の策で始めたの。なんとかそれが当たってくれたから結果オーライだけどね。おかげで自分の店が持てたわ」
ずっと一緒に暮らしてきて話し方に違和感を感じたことがなかったので、その発言には目を丸くした。
「では本当は違う話し方をされるという……?」
「んー、昔はね。今はもうこれが普通になっちゃったわ。不器用だから私生活から変えないと駄目でね。髪は昔から長かったけど、ここまでじゃなかったし、服装は後から付いてきた感じ。本当にね、出雲くんくらいの頃は大人しくて、ただお料理とかお酒とか……今と違ってお話は苦手だったけど、人のことが好きな、地味で冴えないフッツーの男だったの」
「路彦さんはお顔立ちだけで冴えてます」
「ふふふ、ありがと」
前髪をかきあげながら、瞼に口づけされる。じっと瞳を見つめて、色素が薄くて綺麗だと褒められた。唇にもキスされるかと思ったのに、何もされない。
このままずっと話していたら、どんどん誘いづらくなる。俺は焦った。焦って自分から唇にキスをして、ずっと嫌だと言っていたのに触れた瞬間にすぐ唇を舐めて、間から舌をねじ込んだ。路彦さんのお腹に置いていた手も下へ滑らせて、ちゃんと立ち上がっている男性器に触れ、根元から先端をゆるく握って擦り上げる。
長い舌は俺に応えてくれたが、あまり積極的というわけではない。俺が誘うままに絡めて、こちらには入ってこなかった。先生にされて気持ちよかったことを思い出して、舌のもっと中央や上顎を撫でようとするが長さが足りず、気持ちいいよりも舌を伸ばすのに必死になってしまった。唇が離れる頃には息が切れて呼吸が荒くなって、対する路彦さんは余裕の表情だ。俺が責めていたはずなのにこれでは逆みたいだ。
「どうしたの? ムラムラしてる割には元気がないみたいだけど」
下半身のことを言われているのはすぐに分かって顔が熱くなった。
「すぐ元気になります……今すぐ、えっちしたいです。路彦さん、俺としたいって思ってくれてますよね……?」
「そりゃしたいけどね。積極的なのに、拒否されてるいつもより嫌そうに見える」
「嫌じゃないです」
「どこがよ? 何に焦ってるの……なんて、僕が出雲くんにえっちなことばっかりするからいけないのよね。ごめんなさい。でもいつもは本気で嫌がっているように見えなかったから」
「今だって嫌がってないです……! いつもより、もっとえっちなことしたい……」
男性器を握っていた手を上下に動かしながら、もう一度キスをしようとする。しかし路彦さんは困ったように笑って、小さく首を横に降った。
「もう少し僕のくだらないお話聞いてくれない?」
「お話……?」
「そ、お話」
路彦さんが肩から腕をあげ、俺の頭の下に腕を入れようとしてきたので、大人しく頭を上げて腕枕をしてもらった。性器を握っていた手にもそっと手を重ねられたので、意図を察して手を引くと、えらい、なんて褒められる。こんなことで褒められても、と思いながらも照れくさくて視線を逃がす。ふっと笑い声が漏れるのだけ聞こえた。
「出雲くんの言う通り、ね。いままで色々な出会いがあったし、恋愛もしてきた。そうやってさっき話していた不器用な僕は、今の社交的で派手な僕になったわけ。我ながらいい男になったと思うわ」
冗談めかして言っているが、不器用なんて言葉はこの方には全く似合わないと思うので、もしそれが本当のことならば大変な努力が必要だったのだろうと思う。目の前の路彦さんはとても素敵な男性だ。だから黙って頷くと、路彦さんははにかんで笑った。
「でもね……できあがったこのいい男には、虚勢も混じっているのよね。求められる自分でいようと思うし、期待されると応えなきゃって……ううん、応えなきゃいけないって少し怖くなる。出雲くんもそういうところ、あるじゃない?」
ある。というよりは、今はそれほどでもないが、先生に出会うまでの自分はまさにそれだった。もちろん今だってその傾向がないわけではないが、目的がはっきりしたぶん、そして先生に教えてもらったくらいにはワガママになれた。
「俺はそこまで……真面目ではないですよ」
「なら、そのほうがいいわ。なんにせよ出雲くんといると僕は、昔の自分に少し戻っちゃうの」
「不器用な路彦さん……?」
路彦さんは頷いた。そして触れることはなく、俺の顔の輪郭の外側を撫でるように手のひらを宙で動かす。
「臆病なの。嫌われたくない卑怯者。触れたくてたまらないのに、どうしたらいいかわからない。でもそれを悟られたくなくて、必死で嘘ついて、ただの面倒見の良い男を演じてきたの。その方が優位に立てるし、何より貴方にかっこつけたかったのね」
空気を撫でる筋張った手に自分の手を重ねて、自分の頬に触れさせた。
もう聞きたくない。
聞きたくないけど、その先もちゃんと聞いてあげたい。
テーブルの上のビールが欲しい。いつもはすぐに酔ってしまうのに、部屋に入ってから身体は火照っても頭の中は冷たいままだ。罪の意識だけがどんどん募って溺れてしまいそう。
どんな顔をしていいか分からず微笑みすら作れない。口の端を横に引いてきつく閉じ、感情が溢れ出すのを堪える。その唇に路彦さんの温かい指先が触れて、ほんの少し力が抜けた。
「でももう、カッコつけていられないわ。仮初じゃない本気の恋だから、余裕がないのね。だからね、さっきからドキドキしちゃって、カッコ悪かったでしょ」
「恋……」
「うん、恋。出雲くんが好き。最初に出会った時からずっとあなたに惹かれてる。僕はあなたに夢中」
わかりきってることでしょうけど、と苦笑いを浮かべる彼の手のひらに頬を擦り寄せて、頷く。もちろんわかっているし、路彦さんも俺が知っていることはわかっていて、ただ明言されていなかっただけのことだ。
俺は今日という日に懸けていた。
先生に会えなければ、路彦さんと関係を進めて、もう少し俯瞰的にいつか先生と再会できる日を待とうと思っていた。
そして今日という日に懸けていたのは、路彦さんも同じだったようだ。
でもね、路彦さん。
俺は先生と再会してしまいました。
先生と会う日までは一緒にいようという約束は、もうなくなってしまったんです。
でも先生の望む通りにするためにはまだもう少し、あなたのそばにいなくてはならない。先生との繋がりを消さないためにも店には在籍していなければならない。
この人を利用している時点で最低なのだが、だからといってそのためにこの告白を受け入れるのはあまりにも酷い。でも絶対にセックスはしないといけなくて、酔いはこないのに頭がくらくらする。
「でもまだちょっと、カッコつけてるの。本当は加賀見ちゃんにくっついてたことだってもっと文句を言ってやりたいし、あなたに謝らないといけないこともある」
路彦さんは俺の返しを待っているのかと思ったが、黙っていたら急に表情を固くして、ずっとこちらを見つめていた目を伏せた。
「前に聞いたでしょ……? 夢で会う先生が僕かって」
息をついて、唇を舐めて湿らせて、路彦さんの目がまた俺を向く。そんな様子を見て、あ、と乾いた声が漏れた。
「あなたが酔って意識が朦朧としている時に、何回も……煙草を吸って、貴方の大好きな先生と同じ匂いをさせて、悪戯してたの。ずっと近くに無防備な出雲くんがいて我慢できなかった。先生、先生って呼ぶ貴方の体に触ってやらしいことしてたの。出雲くんが夢で会っていた先生は、僕」
わかってた、わかってたのに目頭が熱くなって、はぁぁ、と吐く息が震えた。
だって夢で会う先生の正体があなたかと聞いた日から、先生は夢に現れなくなった。はじめから俺の身体を知り尽くしたように触れてきたこの手。
わかってた、わかっていた。でももう遅れだ。だって俺は先生の匂いがわからなくなってしまったのだから。
やっと気付いた。
俺が先生だと思っていた匂いには、ほろ苦いバニラにほんのり薔薇の香りが混じっていたのだ。
俺の頬を包む手の平からは今、その匂いがしない。路彦さんが今日使ったシャンプーは当然いつもの香りとは違うからだ。今香る匂いこそが本当に先生と同じ匂いなのだろう。
「引いた……? 嫌いになった? 出雲くんを抱くならね……はっきりと思いを告げて、あなたに酷いことをしてたことをちゃんと話そうと思っていたの。ずっと騙してた。ごめんなさい」
路彦さんと向き合う気ならば、酷いと怒ればいい。どれだけ傷ついたか、それだけ酷いことをしたか語り、隙だらけで彼の優しさに甘えきっていた自分を反省し、許せばよかった。そして思いを告げてくれたことに、何らかの返事をすればいい。
でももうその選択肢が選ばれることはない。ルートは決まっている。そこに向かうために行動するだけ。
くっついていた路彦さんの身体から離れ、上半身を半分だけ起こし彼の胸に手を当て、見下ろした。
自分をよくよくイメージする。イメージして、頭の中でセリフを考え組み立て、この人だって俺に悪いことしていた、俺は怒っていい、これで別にいいのだと自分に言い聞かせた。
目を細めて、口角をきゅっと上げ、笑って見せる。
「重い」
ただ一言そう告げた俺に、路彦さんは眉間に皺を寄せて顔をしかめた。
「何言ってるんですか。重いですよ。別にそんなこと気にしてませんし、路彦さんが俺のこと好きなのも知ってますし。俺に好きな人がいるのもご存知じゃないですか。言う必要ありますか、それ」
よくもこう酷い言葉が思いつくものだ。大丈夫かな、不自然じゃないだろうかと気にはなるが、振り切らないとこんな言葉口にできない。疑問を抱かないように、感情を刺激するために畳み掛ける。
「俺はエッチしたいだけです。だからそんなに重く考えなくていいじゃないですか。路彦さんがどんな思いだろうと、俺が先生を好きなことには変わりません。それより、寝てる俺にどんなことしたんですか? どんな悪戯されたか想像しただけでうずうずしちゃいます……」
仰向けに寝転ぶ路彦さんの胸板に頬ずりして、小さな突起に軽く歯を当てた。路彦さんは少し反応を見せたものの、何も言わずに俺を見下ろす。細められたその目はなんだか俺を哀れんでいるようだった。
「ねぇ……路彦さん。こっそり悪戯するんじゃなくて、したいことなんでもしていいですよ。もっとフランクに、気持ちいいだけのエッチしましょう?」
路彦さんの真剣なお話や俺への気持ちなど、全て俺にとってはどうでもいいと一蹴りにして、路彦さんの足に自分の足を絡ませる。
俺と路彦さんの関係には未来などなにもない。期待させるなら怒らせたほうがマシ。乱暴なセックスでもしてくれるだけで万々歳。
「わかった」
返事が聞こえたと同時くらいの感覚で、手を引かれ、後頭部も抑え込まれて、仰向けに寝転んだままの路彦さんに俺が被さる形でキスをされた。今度は舌が入ってきて、下唇の裏を撫で、歯列を開かれていく。路彦さんの長い舌先は、俺が届かなかった上顎のくぼみまでくすぐった。
一度唇が離れて、路彦さんに身体を転がされ、体勢が逆転する。そしてまた口付けられた。
中の方までじっくり撫で回されているのに、甘い。
キスが終わる頃には体の力が抜け、路彦さんの首を抱いていた腕がずるずると落ちた。
「ちょっと待ってて。テーブルからお酒持ってくる。飲みながらセックス、いいでしょ?」
「みちひこさん、スマホ……」
「なに? とってきてほしいの?」
問いかけにゆるく頷く俺の頭を撫でてから、窓際のテーブルへ歩いていく後ろ姿を見る。イルミネーションが明るくて、こんなに近くにいるのに路彦さんの姿はよく見えず、涙で滲んで見えるカラフルな明かりの中で黒いシルエットとして浮かび上がる。
そして路彦さんがテーブルにあった煙草をくわえて火を点けた瞬間、イルミネーションが一斉に消え、部屋の中は真っ暗になった。午前零時だ。
煙草の火はぼんやり見えているけれど、その心もとない小さな火では喫煙者の表情すらわからない。
カチャリカチャリと瓶を手に取る音がして、彼が近づいてくる。コトン、といくつかサイドボードに物を置く音が続いて、フロントへつながる電話とともに置かれていた、ランプの淡いオレンジ色が枕元を照らした。サイドボードにはビール瓶が二つと、煙草と灰皿ギチギチに置かれていた。
ビールを口につけながらスマートフォンを枕元に置いて、路彦さんがベッドに膝をつくとギシ、とスプリングが沈む。
「あら? 見ないの?」
持ってきてもらっておいて、手に取ることもしない俺を見て首を傾げる。まだ半分近く残っていたビールを飲み干し、空瓶を置いた路彦さんは俺に覆いかぶさってきた。すぐにキスができそうな距離にあるお顔を両手で包む。
「言ったじゃないですか、楽しみましょうって……おかずに困らないようにハメ撮りしましょう? 路彦さん撮って?」
「初めてのセックスでハメ撮り?」
「問題ありますか?」
「ん…………ない、か」
俯いて、笑って、路彦さんは俺の唇の端っこにキスした。その後耳にかかる髪を掻きあげて耳にもキスをして、その唇はするりと下におりて金魚を口づける。
「それがあなたの決めたことなら、僕に求めることなら、出雲くんが望む通りにする。かっこつけられなくても、出雲くんの期待に沿う努力くらいできる」
顔の横あたりに手首を抑え込まれ、固い指が握った俺の手の中に入って、開かれていく。そのまま指を絡めて手を握られた。
「ハッキリ言ってくれてありがとう。これで割り切って役割を全うできる」
遠くには海が、近くには観覧車が見える。遊園地の営業はもう終了しているのだろうが、イルミネーションはまだ点灯されたままだ。上層階ならば上から見渡せたのだろうが、三階のこの部屋は代わりに明かりが近い。電気を点けず窓のカーテンを開けているだけで部屋の中はうっすらと明るい。確か日付が変わるまでのはずだから、残り一時間くらいか。観覧車らしく明かりが色とりどりに変化しながら回転し、それが海面もチカチカと飾り付けている。おもちゃ箱のようなイルミネーションが賑やかで海の静けさを打ち消すようだ。
「路彦さん」
向かいに座っている彼は、いつもよりお酒のペースが早く、言葉少ない。今も俺を見ずに窓の外を眺めている。
「あのお客様……今までお会いしたことなかったです。常連さんですか?」
「加賀見ちゃん? そうね……頻度は高くないけれど、もう一年近く来てくださってるわ。いつも水曜にいらっしゃるから、出雲くんとは会わなかったのね」
そんなに前から。俺の休みの日にわざと来ていたのは確実だが、それは何のためなのだろう。俺には会わずに、何をしていたのだろう。カメラや盗聴器でも仕掛けてたら洒落にならないし、やりかねないんだよなと頭が痛くなる。
「随分懐いてたじゃない」
「え、ああ……酔ってましたから」
「それだけ? あんなにしがみついて、僕が呼んでもイヤイヤするから困っちゃった」
何か良い言い訳はないかなと視線を巡らせていたら、机に置かれた灰皿が目に止まった。
「路彦さんと同じお煙草だったからかもしれませんね」
「僕と同じ煙草? 先生と同じ煙草でしょ」
路彦さんが煙草を咥えたので慌ててライターを手に取り火をつけた。
「この煙草吸ってる男が好きってだけなのかしら」
「馬鹿をおっしゃらないでください」
「まぁ……加賀見ちゃんはかっこいいわよね」
「もしかして、妬かれてます? 路彦さんも素敵ですよ」
「はぁ、そう、妬いてる。でも加賀見ちゃんに妬いてるとか、そんな簡単な話じゃない。あなたからしたら、先生以外の男はみんな一緒なんでしょうね……僕だって別にあなたの特別じゃない」
その先生こそがあなたが“加賀見ちゃん”と呼ぶ男なのだが。もちろんそんなことは言わず、椅子からふわっと身体を床へ滑らせ、路彦さんの膝に擦り寄った。太ももを撫でて、膝を割らせて、片方の太ももに頭を乗せて寄りかかる。そして部屋に用意されていた厚手の生地でできたガウンの上から、膨らみを探った。
「そんな寂しいこともおっしゃらないで」
撫でているとどんどん固くなっていく。路彦さんよりも俺の息が荒くなる。
先生に言われたから抱かれるだけ。
それでも俺は路彦さんに好意を抱いてはいる。先生との再会を果たした今、他の人には触れられるのも嫌だけど、この人が相手なら心の底から嫌というほどではない。
「路彦さんだって特別な人ですよ?」
だからちゃんと、誠意をもってそう答えた。
先生は画面越しに俺のこの感情を察してしまうだろうか。
「僕が触ろうか?」
熱い息を飲み込むようにしながら声が発せられる。ずっとおあずけをくらっているせいで我慢癖がついてしまったのか、ここまでしてあげてもそんな提案をしてくる彼に好感をもった。かわいい。
けれどせっかくの申し出は断らせてもらい、代わりにガウンの前を開く。下はボクサーパンツのみ身に付けたその姿は、普段から自宅でのトレーニングや時間をとってスポーツジムに通い、ボディメイクをしっかりしているだけあってため息が出るほど綺麗だった。陰影をくっきり見せるその一つ一つが主張しているような筋肉は、自分の細いから浮き出ているだけのものとは全然違う。しかし厚みのあるその腹筋の下では、下着の中で男性器が苦しそうに盛り上がっている。それが色っぽいし、隙を見せてくれているようでもあって魅力的だった。
「俺、シャワー長かったでしょう?」
「ん……そうだったかも」
意識を逸らすように煙草の灰を灰皿に落とすのを見ながら、内ももを撫でる。
「準備してきたんです」
挑発するように言うと路彦さんの表情は止まった。そうして少し経ってから今度は止まっていた分を取り戻すかのように、瞬きをしながら喉を鳴らす。
その間に俺は下着を脱がせていく。表情が止まっていても、お尻や足をあげてちゃんと脱がしやすいようにしてくれるのが可笑しくて、吹き出してなかなかに笑ってしまった。すると路彦さんは目を細めてわざとらしい笑みを作りながら、手で口を抑えて笑う俺の脇腹を足先でくすぐってきた。くわえ煙草の唇がいやに性的だ。
「ちょっと、路彦さん……だめ、だめですって……ふふ、笑い止まらなくなっちゃいます」
「出雲くんが生意気だからいけないの」
「だって路彦さん……きっと経験豊富でしょう? ホストされてたと酔ってポロッと言ってらしたのも覚えてますからね? そんな方が凄く初々しい反応されるから、なんだか可笑しくって」
目尻を拭いながら路彦さんを見ると、眉を上げて肩をすくめる姿があった。
「まぁ、それなりにね。全然売れなくて枕とかしてたわ」
「まくら? ですか?」
「やだ、知らないの? 客と寝るのよ。ダメホストの典型ね」
「路彦さんが……? お客様と接している姿を見ていると、そんな風には思えませんが……」
返事はせずにただ笑って、くすぐっていた足で今度は俺のガウンが開かれる。夜の誘いをするために下着は履かなかった。肩に掛けただけの状態で、腕には袖が通っているのにあとは全部さらけ出されている。
なんだか急に恥ずかしくなってきて顔を横に背けたくなるが、ぐっと気合を入れて路彦さんを見上げる。
強気でいないと本当は逃げ出してしまいそうだった。
できる限り軽い気持ちで、俺はこの人が嫌いじゃないから、性的な魅力も感じているから、セックスをしよう。そもそも抱かれるつもりだった。ちゃんとできる。これはプレイの一環だ。路彦さんの後ろには先生がいるのだ。
「大丈夫?」
煙草を灰皿に押し付けてビールに口をつけ、路彦さんは優しい声で聞いてきた。
「え……」
「いーえ。ベッド行こっか」
俺が頷くのをしっかり見届けてから、路彦さんは俺の手を引いてベッドまでエスコートしてくれた。ダブルベッドではなく、シングルベッドが二つ並んでいるうちの窓際のベッドに、二人で自然と身を寄せ合って寝転んだ。
「これじゃあ家で寝るのと変わらないわね」
「でも同性ですし、ダブルベッドはやっぱり泊まりづらいというか……そもそも断られちゃいますかね」
「そのへんは気にしてなかったけど……家まで出雲くんがもたないと思ってホテルとったのよ? 今日は一人でゆっくり寝かしてあげようと思ったの。一緒に寝るとモヤモヤしちゃうでしょ」
「何がモヤモヤするんですか」
「僕が。僕のちんこが」
「もう。路彦さんってすぐそういうこと言う……自称エレガントな口調、でしょう」
二人揃って着ている意味のあまりないガウンを羽織ったままだ。少しめくって、割れた腹筋の四角形を一つずつ指でなぞる。こんなに誘っているのに、路彦さんがなかなか手を出してこないので手持ち無沙汰というか、落ち着かない。
「そこが自称なのよ。この口調はね、キャラ付けなの。影が薄かったから、ホスト時代に苦肉の策で始めたの。なんとかそれが当たってくれたから結果オーライだけどね。おかげで自分の店が持てたわ」
ずっと一緒に暮らしてきて話し方に違和感を感じたことがなかったので、その発言には目を丸くした。
「では本当は違う話し方をされるという……?」
「んー、昔はね。今はもうこれが普通になっちゃったわ。不器用だから私生活から変えないと駄目でね。髪は昔から長かったけど、ここまでじゃなかったし、服装は後から付いてきた感じ。本当にね、出雲くんくらいの頃は大人しくて、ただお料理とかお酒とか……今と違ってお話は苦手だったけど、人のことが好きな、地味で冴えないフッツーの男だったの」
「路彦さんはお顔立ちだけで冴えてます」
「ふふふ、ありがと」
前髪をかきあげながら、瞼に口づけされる。じっと瞳を見つめて、色素が薄くて綺麗だと褒められた。唇にもキスされるかと思ったのに、何もされない。
このままずっと話していたら、どんどん誘いづらくなる。俺は焦った。焦って自分から唇にキスをして、ずっと嫌だと言っていたのに触れた瞬間にすぐ唇を舐めて、間から舌をねじ込んだ。路彦さんのお腹に置いていた手も下へ滑らせて、ちゃんと立ち上がっている男性器に触れ、根元から先端をゆるく握って擦り上げる。
長い舌は俺に応えてくれたが、あまり積極的というわけではない。俺が誘うままに絡めて、こちらには入ってこなかった。先生にされて気持ちよかったことを思い出して、舌のもっと中央や上顎を撫でようとするが長さが足りず、気持ちいいよりも舌を伸ばすのに必死になってしまった。唇が離れる頃には息が切れて呼吸が荒くなって、対する路彦さんは余裕の表情だ。俺が責めていたはずなのにこれでは逆みたいだ。
「どうしたの? ムラムラしてる割には元気がないみたいだけど」
下半身のことを言われているのはすぐに分かって顔が熱くなった。
「すぐ元気になります……今すぐ、えっちしたいです。路彦さん、俺としたいって思ってくれてますよね……?」
「そりゃしたいけどね。積極的なのに、拒否されてるいつもより嫌そうに見える」
「嫌じゃないです」
「どこがよ? 何に焦ってるの……なんて、僕が出雲くんにえっちなことばっかりするからいけないのよね。ごめんなさい。でもいつもは本気で嫌がっているように見えなかったから」
「今だって嫌がってないです……! いつもより、もっとえっちなことしたい……」
男性器を握っていた手を上下に動かしながら、もう一度キスをしようとする。しかし路彦さんは困ったように笑って、小さく首を横に降った。
「もう少し僕のくだらないお話聞いてくれない?」
「お話……?」
「そ、お話」
路彦さんが肩から腕をあげ、俺の頭の下に腕を入れようとしてきたので、大人しく頭を上げて腕枕をしてもらった。性器を握っていた手にもそっと手を重ねられたので、意図を察して手を引くと、えらい、なんて褒められる。こんなことで褒められても、と思いながらも照れくさくて視線を逃がす。ふっと笑い声が漏れるのだけ聞こえた。
「出雲くんの言う通り、ね。いままで色々な出会いがあったし、恋愛もしてきた。そうやってさっき話していた不器用な僕は、今の社交的で派手な僕になったわけ。我ながらいい男になったと思うわ」
冗談めかして言っているが、不器用なんて言葉はこの方には全く似合わないと思うので、もしそれが本当のことならば大変な努力が必要だったのだろうと思う。目の前の路彦さんはとても素敵な男性だ。だから黙って頷くと、路彦さんははにかんで笑った。
「でもね……できあがったこのいい男には、虚勢も混じっているのよね。求められる自分でいようと思うし、期待されると応えなきゃって……ううん、応えなきゃいけないって少し怖くなる。出雲くんもそういうところ、あるじゃない?」
ある。というよりは、今はそれほどでもないが、先生に出会うまでの自分はまさにそれだった。もちろん今だってその傾向がないわけではないが、目的がはっきりしたぶん、そして先生に教えてもらったくらいにはワガママになれた。
「俺はそこまで……真面目ではないですよ」
「なら、そのほうがいいわ。なんにせよ出雲くんといると僕は、昔の自分に少し戻っちゃうの」
「不器用な路彦さん……?」
路彦さんは頷いた。そして触れることはなく、俺の顔の輪郭の外側を撫でるように手のひらを宙で動かす。
「臆病なの。嫌われたくない卑怯者。触れたくてたまらないのに、どうしたらいいかわからない。でもそれを悟られたくなくて、必死で嘘ついて、ただの面倒見の良い男を演じてきたの。その方が優位に立てるし、何より貴方にかっこつけたかったのね」
空気を撫でる筋張った手に自分の手を重ねて、自分の頬に触れさせた。
もう聞きたくない。
聞きたくないけど、その先もちゃんと聞いてあげたい。
テーブルの上のビールが欲しい。いつもはすぐに酔ってしまうのに、部屋に入ってから身体は火照っても頭の中は冷たいままだ。罪の意識だけがどんどん募って溺れてしまいそう。
どんな顔をしていいか分からず微笑みすら作れない。口の端を横に引いてきつく閉じ、感情が溢れ出すのを堪える。その唇に路彦さんの温かい指先が触れて、ほんの少し力が抜けた。
「でももう、カッコつけていられないわ。仮初じゃない本気の恋だから、余裕がないのね。だからね、さっきからドキドキしちゃって、カッコ悪かったでしょ」
「恋……」
「うん、恋。出雲くんが好き。最初に出会った時からずっとあなたに惹かれてる。僕はあなたに夢中」
わかりきってることでしょうけど、と苦笑いを浮かべる彼の手のひらに頬を擦り寄せて、頷く。もちろんわかっているし、路彦さんも俺が知っていることはわかっていて、ただ明言されていなかっただけのことだ。
俺は今日という日に懸けていた。
先生に会えなければ、路彦さんと関係を進めて、もう少し俯瞰的にいつか先生と再会できる日を待とうと思っていた。
そして今日という日に懸けていたのは、路彦さんも同じだったようだ。
でもね、路彦さん。
俺は先生と再会してしまいました。
先生と会う日までは一緒にいようという約束は、もうなくなってしまったんです。
でも先生の望む通りにするためにはまだもう少し、あなたのそばにいなくてはならない。先生との繋がりを消さないためにも店には在籍していなければならない。
この人を利用している時点で最低なのだが、だからといってそのためにこの告白を受け入れるのはあまりにも酷い。でも絶対にセックスはしないといけなくて、酔いはこないのに頭がくらくらする。
「でもまだちょっと、カッコつけてるの。本当は加賀見ちゃんにくっついてたことだってもっと文句を言ってやりたいし、あなたに謝らないといけないこともある」
路彦さんは俺の返しを待っているのかと思ったが、黙っていたら急に表情を固くして、ずっとこちらを見つめていた目を伏せた。
「前に聞いたでしょ……? 夢で会う先生が僕かって」
息をついて、唇を舐めて湿らせて、路彦さんの目がまた俺を向く。そんな様子を見て、あ、と乾いた声が漏れた。
「あなたが酔って意識が朦朧としている時に、何回も……煙草を吸って、貴方の大好きな先生と同じ匂いをさせて、悪戯してたの。ずっと近くに無防備な出雲くんがいて我慢できなかった。先生、先生って呼ぶ貴方の体に触ってやらしいことしてたの。出雲くんが夢で会っていた先生は、僕」
わかってた、わかってたのに目頭が熱くなって、はぁぁ、と吐く息が震えた。
だって夢で会う先生の正体があなたかと聞いた日から、先生は夢に現れなくなった。はじめから俺の身体を知り尽くしたように触れてきたこの手。
わかってた、わかっていた。でももう遅れだ。だって俺は先生の匂いがわからなくなってしまったのだから。
やっと気付いた。
俺が先生だと思っていた匂いには、ほろ苦いバニラにほんのり薔薇の香りが混じっていたのだ。
俺の頬を包む手の平からは今、その匂いがしない。路彦さんが今日使ったシャンプーは当然いつもの香りとは違うからだ。今香る匂いこそが本当に先生と同じ匂いなのだろう。
「引いた……? 嫌いになった? 出雲くんを抱くならね……はっきりと思いを告げて、あなたに酷いことをしてたことをちゃんと話そうと思っていたの。ずっと騙してた。ごめんなさい」
路彦さんと向き合う気ならば、酷いと怒ればいい。どれだけ傷ついたか、それだけ酷いことをしたか語り、隙だらけで彼の優しさに甘えきっていた自分を反省し、許せばよかった。そして思いを告げてくれたことに、何らかの返事をすればいい。
でももうその選択肢が選ばれることはない。ルートは決まっている。そこに向かうために行動するだけ。
くっついていた路彦さんの身体から離れ、上半身を半分だけ起こし彼の胸に手を当て、見下ろした。
自分をよくよくイメージする。イメージして、頭の中でセリフを考え組み立て、この人だって俺に悪いことしていた、俺は怒っていい、これで別にいいのだと自分に言い聞かせた。
目を細めて、口角をきゅっと上げ、笑って見せる。
「重い」
ただ一言そう告げた俺に、路彦さんは眉間に皺を寄せて顔をしかめた。
「何言ってるんですか。重いですよ。別にそんなこと気にしてませんし、路彦さんが俺のこと好きなのも知ってますし。俺に好きな人がいるのもご存知じゃないですか。言う必要ありますか、それ」
よくもこう酷い言葉が思いつくものだ。大丈夫かな、不自然じゃないだろうかと気にはなるが、振り切らないとこんな言葉口にできない。疑問を抱かないように、感情を刺激するために畳み掛ける。
「俺はエッチしたいだけです。だからそんなに重く考えなくていいじゃないですか。路彦さんがどんな思いだろうと、俺が先生を好きなことには変わりません。それより、寝てる俺にどんなことしたんですか? どんな悪戯されたか想像しただけでうずうずしちゃいます……」
仰向けに寝転ぶ路彦さんの胸板に頬ずりして、小さな突起に軽く歯を当てた。路彦さんは少し反応を見せたものの、何も言わずに俺を見下ろす。細められたその目はなんだか俺を哀れんでいるようだった。
「ねぇ……路彦さん。こっそり悪戯するんじゃなくて、したいことなんでもしていいですよ。もっとフランクに、気持ちいいだけのエッチしましょう?」
路彦さんの真剣なお話や俺への気持ちなど、全て俺にとってはどうでもいいと一蹴りにして、路彦さんの足に自分の足を絡ませる。
俺と路彦さんの関係には未来などなにもない。期待させるなら怒らせたほうがマシ。乱暴なセックスでもしてくれるだけで万々歳。
「わかった」
返事が聞こえたと同時くらいの感覚で、手を引かれ、後頭部も抑え込まれて、仰向けに寝転んだままの路彦さんに俺が被さる形でキスをされた。今度は舌が入ってきて、下唇の裏を撫で、歯列を開かれていく。路彦さんの長い舌先は、俺が届かなかった上顎のくぼみまでくすぐった。
一度唇が離れて、路彦さんに身体を転がされ、体勢が逆転する。そしてまた口付けられた。
中の方までじっくり撫で回されているのに、甘い。
キスが終わる頃には体の力が抜け、路彦さんの首を抱いていた腕がずるずると落ちた。
「ちょっと待ってて。テーブルからお酒持ってくる。飲みながらセックス、いいでしょ?」
「みちひこさん、スマホ……」
「なに? とってきてほしいの?」
問いかけにゆるく頷く俺の頭を撫でてから、窓際のテーブルへ歩いていく後ろ姿を見る。イルミネーションが明るくて、こんなに近くにいるのに路彦さんの姿はよく見えず、涙で滲んで見えるカラフルな明かりの中で黒いシルエットとして浮かび上がる。
そして路彦さんがテーブルにあった煙草をくわえて火を点けた瞬間、イルミネーションが一斉に消え、部屋の中は真っ暗になった。午前零時だ。
煙草の火はぼんやり見えているけれど、その心もとない小さな火では喫煙者の表情すらわからない。
カチャリカチャリと瓶を手に取る音がして、彼が近づいてくる。コトン、といくつかサイドボードに物を置く音が続いて、フロントへつながる電話とともに置かれていた、ランプの淡いオレンジ色が枕元を照らした。サイドボードにはビール瓶が二つと、煙草と灰皿ギチギチに置かれていた。
ビールを口につけながらスマートフォンを枕元に置いて、路彦さんがベッドに膝をつくとギシ、とスプリングが沈む。
「あら? 見ないの?」
持ってきてもらっておいて、手に取ることもしない俺を見て首を傾げる。まだ半分近く残っていたビールを飲み干し、空瓶を置いた路彦さんは俺に覆いかぶさってきた。すぐにキスができそうな距離にあるお顔を両手で包む。
「言ったじゃないですか、楽しみましょうって……おかずに困らないようにハメ撮りしましょう? 路彦さん撮って?」
「初めてのセックスでハメ撮り?」
「問題ありますか?」
「ん…………ない、か」
俯いて、笑って、路彦さんは俺の唇の端っこにキスした。その後耳にかかる髪を掻きあげて耳にもキスをして、その唇はするりと下におりて金魚を口づける。
「それがあなたの決めたことなら、僕に求めることなら、出雲くんが望む通りにする。かっこつけられなくても、出雲くんの期待に沿う努力くらいできる」
顔の横あたりに手首を抑え込まれ、固い指が握った俺の手の中に入って、開かれていく。そのまま指を絡めて手を握られた。
「ハッキリ言ってくれてありがとう。これで割り切って役割を全うできる」
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