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欲深になれというのなら⑥

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 いずも、と耳元で囁かれ、ビクッと身体が大きく反応する。身体と心の両方が震えている。
「僕の匂い。彼の匂いで……上塗りされて、忘れてしまったんだね」
 息がかかったと思えば、今度は耳の裏側をスンと嗅がれる。髪を梳いて、そこにも鼻先が埋まって。
「君からも、彼の匂いがする」
 これが、先生の匂い……?
 鼻先を寄せられているので、自然と俺の頭も先生の首筋から肩にかけた窪みに調度ぴったりとハマっていた。焦がれていた香りに包まれているはずなのに、その先生が発している匂いに微妙な違和感を覚える自分がいる。きゅっとしがみつくように抱きついて、顔を少しずつずらしながら顔を埋め、匂いを探す。
 なんで、なんで、と必死に鼻を動かす哀れな酔っぱらいは、これまで嗅いでいたのが混ざりものだったことに本当は気が付き始めていた。けれどもそれを認めるのはどうしても嫌だった。
「君はもう……僕のものとは、言えない……ね。この肌は……他の人の痕跡が、ありすぎる」
 匂いを辿る俺の後頭部に手を添えて、抱き寄せられる。先生の悲しみが分け与えられているかのように、苦しいくらいに強く。
「なんで……そんなことないです……やだ……俺はずっと、ずっと先生のものです。先生のこと待ってたんです」
 あるはずのない匂いを探るという、無駄な抵抗とも言える行為は止め、だるい身体を先生に預け密着した。お酒で気持ち悪くなることもなく気分は良い。長い腕に包まれていると、うとうと眠くなってくる。先生はちゃんと目が開かない俺の顔を覗き込んで、前髪を優しく撫でてくれた。手の動きに合わせ瞼が何度も落ちる。
「それならどうして、全身脱毛の施術とか、タトゥーとか、一生残ることを……させちゃうかな。僕はずっと、これからずっと、君の肌に触れるたびに嫉妬して、嫌悪して、それでもこの肌が愛しくて、苦しくなるんだ」
「せんせい……ちがうんです。聞いて、ください。すべては先生との生活がいつでも始められるように、したことなんですよ?」
「いつでも? 僕との生活が、始められる? そんなふうには……思えない。いつだって誰か他の、僕よりもずっとまともな……それでいて、僕と同年代の男と……いた。僕には、君が僕にこだわる理由が、わからない。君は、誰とだって……」
 淡々とほとんど抑揚のないまま、声の温度だけがどんどんと上がっていく。しかし最後の言葉は発音されずに消えてしまい、先生がその先を言うことはなかった。そして眉根を寄せて笑いながらまた違う言葉を紡ぐ。
「あの人とセックス、した?」
「しっ……してないです……! してないに決まってるじゃないですか」
 一応嘘ではないのだが、一瞬返答に迷ってしまった。それを見透かすように先生が小首をかしげる。
「ふうん? 意外、だな。抱かれてみたら、好きに……なるかもしれないよ?」
「そんなことないです……」
「先生が隼人に負けているとこがあるなら、セックスしてないところです……君の言葉、だよ。思い返すと、随分ひどいな」
 確かにそんな発言をした記憶がある。しかしそれは先生を煽るためであって本音なはずもなく、先生だってわかっているだろうに。意地が悪い。
「彼が今……僕に負けているところが、あるとしたら。それかな?」
「いじわるすぎます……ひどい。もっともっと、ありますもん……先生の圧勝です……」
「どうかな。セックスしたら、それも全部、変わるかも……しれないよ? 見たいな……君が抗って、でも心変わり、する瞬間……」
「本気ですか……?」
「うん? 本気だよ。見てみたいし、死ぬほど見たくない。ハメ撮り、撮っておいて」
 お互いの体温で温まっているというのに、心だけがつららのような、冷たく鋭いもので何度も刺されているみたいに冷え切って痛い。身体はこんなに隙間なく抱きしめあって、俺の後頭部と腰に触れるその手は、先生の背を抱くこの手は、こんなに相手を愛おしく想っているのに。意地悪な言葉の数々と優しい手のちぐはぐさに、ただ意地悪をされるよりも苦しくなる。
 路彦さんと想定以上に親密になってしまったことに悔やむところはあれど、絶対に絶対に先生だけが大好きなのに、そこまで言われると俺だって拗ねたくなってくる。寂しさを他で埋めてしまっていたけれど、その関係は先生にも相手にも不誠実だったかもしれないけれど、いつだってすぐに全てを捨てる覚悟だったんだ。そもそも先生が俺から離れたのだから、ヤキモチならせめてもっと可愛く妬いてほしい。そうしてくれないとこの人は、本気なのかどうかわからない。だから怖くなる。
 先生の肩に顔をくっつけているので頬は膨らまないが(むにっと頬の肉が押し上がっている感覚がある)、むぅっと唇が尖る。臆病風を消し去るために、そんな風に敢えて重くならないように怒りをあらわにした。
「自由にしていいって、恋人作るなら僕の見ていないとこでやってって先生だって言ってたじゃないですか……それなのに隠れて見てたなんてずるいです。その上そんな酷いこと言って……先生だってその、夜のお店とか……」
「行ってない」
「新しい職場で出会いとか……」
「出会い? 新しい職場なのだから、全員が知らない人、だったけど」
「そうじゃなくて……もういいです」
 真剣な気持ちでクレームを出しているのに身体は眠気が抜けておらず、ふにゃふにゃと魂が半分抜けたみたいな説得力のない声しか出ないし、先生はこちらの意図をわかってくれないし、もう何もかも嫌だと先生の胸に顔を埋めてぐりぐりとした。
「先生きらいです」
「うん」
「でも、それよりももっと大好きです」
「うん……」
「だからそんなに、怒らないでください。先生が大好きなんですよ……? また俺のこと、先生の匂いにして……して、ください」
 先生の匂いが移るよりも先に、そろそろ二人の時間にタイムリミットがきそうだ。離れたくない、このままここにいたい、さらってほしい。ぐりぐりしたのよりもっと優しく、先生の体温に頬ずりをして息をつくと、ムカムカしていた気持ちが柔らかく抜けていくようだった。先生もそれは同じだったようで、ごめんね、という謝罪とともに、頭部に唇が触れる。
「ごめん……ちがう。違うんだ……こんなことを、言いたいわけじゃ……なくて。謝りたかったんだ。君に」
「なんで……?」
「僕の、中途半端な言葉が……君を縛り付けて、しまった。君は、幸せになれるのに」
「え、ちがう……ちがい、ます……」
「ちゃんと……突き放せばよかったと、思ってる」
「だめです、やだ……ここにいる……先生……」
「君を、責めたいわけじゃ……なかった。ごめんね。本当に、だめだな。僕は。ごめんね……?」
 遠くから駆け足でこちらに近づいてくる足音が聞こえてきてくる。音がどんどん近くなっている。それと比例して先生の俺を抱く手は緩み、俺の先生を抱く手はきつくなった。
 やだ、やだ、だめ、いま離れたら先生がまたいなくなっちゃう。
 先生の言うことに文句なんか言うんじゃなかった。
 責められたほうがずっとずっと良かった。
 もうどこにも行かないで。
 お願いします。
「待たせちゃったわね、ごめんなさい」
 路彦さんの声が聞こえ、さっきまで華奢な手が撫でてくれていた頭を、代わりに武骨な手が撫でる。
「あら完全にしがみついてるじゃない。気分悪い? ほら、お水買ってきたからこっち来なさい」
 ずっと堪えていた眠さにも限界が迫っていて、いやいやと先生に顔を押し付けながらしがみつくという、駄々っ子のような抵抗しかもうできなかった。肩と二の腕を掴まれて引き剥がされそうになって、ううぅーと唸り声まであげる。
「加賀見ちゃん、本当にごめんなさい。うちの店の子なんだけど、キッチン担当でお酒弱いのよ」
「そう……僕は、平気……」
 手を強く引かれると、長らく浸っていたあの香りが辺りを漂って、そちらに引っ張られそうになる。
「ほら、キョウくん。こっち来なさいってば。これ以上迷惑かけられないでしょ?」
「キョウくんじゃないぃ……やっ……」
「ああ、そうね。ちゃんと名前で呼んでほしいわよね」
 耳元に唇を寄せ声を潜め「出雲くん、おいで」と囁かれる。続けて「出雲くんが甘える場所はこっちでしょ?」とも。営業終了後にキョウくんと呼ぶといつも俺が嫌がるから、路彦さんはそう言い直してくれたのだと思う。でもそんなことは今どうでもよくて、それがなんだか申し訳なかった。
 声は出さず、ただ小さく首を横に振った……が、背中に手を添える程度だった先生の手が、ぎゅうっと力強く俺の腰を掴んだ。服越しなのに指が肌に食い込み、痛みに奥歯を噛みしめる。
「困ったわ。動けないわねこれじゃ」
「この子、帰れる? ホテルでも……とったら?」
「ああ、いいかもしれないわね。平日だしどこか空いてるかもしれないわ」
 腰の痛みに気を取られて反応が遅れてしまい、え、と発する間もなく勝手に話は進められていく。顔を少しずらして路彦さんを盗み見れば、早速スマートフォンで空き部屋を探している様子だった。待って、と声を出そうとするが、先生の人差し指が唇にすっと立てられる。
 恐る恐る先生のお顔を見上げる。すると驚くほど穏やかに微笑んでいた。
 ――僕のこと、すき?
 ほとんど音になっていない声だったが、口の動きでなんとか補填できた。それに当然だと頷く。
 ――それなら、彼に抱かれたくらいじゃ、揺らがないね? 試そうか?
 あ、と掠れた声が漏れる。
 ――いい子でちゃんと、言うこと聞ける?
 頷けない、頷けないし、反応するよりも早くに路彦さんが、ホテルを見つけて予約をとった旨を伝えてきた。そして「いい子だからいい加減こっちに来なさい」と言われてふらふらと先生から離れ、路彦さんの方へ寄って行くと、強引に腕を引かれて路彦さんに倒れ込むように抱き寄せられた。怖くて先生のお顔が見られない。
「やっと捕まえた。もう、困った可愛い子ね。加賀見ちゃん、本当にお世話になったわ。この埋め合わせは今度お店で……」
「店長」
 話を途中で遮り、先生は俺の首元を指さした。
「その子の金魚……可愛いね?」
「いいでしょ? 僕の力作よ」
「うん……いい。皮膚ごと剥ぎ取って、もらいたいくらい」
 首元を差していた指が、切り取り線をつけるように四角を宙で描く。
 路彦さんはそんな奇怪な発言にも苦笑いを浮かべるのみで、対応に慣れているようだった。改めてお礼と挨拶をしているのを聞いていても、礼儀は欠かないものの親しげだ。
「キョウくん」
 うとうとしたおかげで眠気も酔いも覚めてきた頭へ入ってきた声に、ビクッと身体を震わせ思わず背筋が伸びた。その声でキョウくんと呼ばれるのはいつまでたっても慣れることはなさそうだ。
「いつも……ケーキ、ごちそうさま……今度は君がいる日に……行く」
 去り際に肩に手を置かれた。始めのタッチこそ優しいものだったが、手が離れていく寸前にぐっと力が込められる。
「またね?」
 先生が遠ざかっていく。身体が硬直してしまいその背中を見送ることはできなかった。
 先生の情緒は今も昔も変わらず、安定することはない。それを身に沁みて感じた。
 俺に対する感情は愛しさも虚しさも憎らしさも全てが重く、過剰な独占欲を主に抱えるには困難なものばかりだ。俺以上に先生へと伸し掛かって本人を苦しめる。先生のことを怖いと思うけれど、そんなところが可愛らしく美しくもある。
 先生の気持ちがお変わりなくてよかったと安堵して、どうして諦めて閉じ込めてくれないんだろうと落胆する。
 こんなことしたってまた先生も俺も傷つくだけなのに。
 いやだな、と手が震える。震えを抑えようと路彦さんの袖を握った。
「あの人、変わってるのよね。この間なんか僕の髪の毛がほしいって」
「路彦さん」
「あら、さっきより顔色いいわね。なぁに?」
 先生、またねって言ってくれたから。先生の言うこと、ちゃんと聞かないと駄目だ。どこで俺のこと見てるのかわからない。いい子にしないともう会えないかもしれない。
 先生にまた会うためだったらなんだってできる。
「あの……」
「どうしたの? 調子戻ってきたなら、会場の中見てみる?」
 歯切れが悪く、せっかくの提案にも俯いて首を横に振る俺に、気遣う瞳を向けてくれる。
 この優しい人に、ごめんなさいと心の中で謝罪をした。
「お酒……買って、ホテルで飲みたいです。限定の瓶ビールとか、販売あるみたいですよ?」
「構わないけど、それでいいの? あんなに楽しみにしてたのに」
 頷いて口元に手を添えこっそりと、上目遣いでありきたりな殺し文句を囁く。
「路彦さんと、早く二人きりになりたいです」
 さっきまで他の男にしがみついていたのに白々しいと我ながら思ったが、路彦さんは目を剥いて、次に頬を染め、わかった、といつもよりずっと低く男らしいトーンで返した。
 今日何もかも諦めてこの人に抱かれると思ってた。
 でも違った。
 先生にまた会うために俺は今日、この人に抱かれる。
 



 
 
 
 

 

 



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