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告白録⑤

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 床に放ったジャケットが転がっているのが見えたので、手を伸ばして袖を掴み手繰り寄せる。内ポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。隠しフォルダの中に入っている膨大な量の動画の中からお気に入りのものを再生して、カバーの背面についてるスタンドを開いて床に立てる。
 目を開けているのもかったるいのでそのまま仰向けになって目を閉じた。回し車の音がかなり邪魔ではあるが、耳元に寄せればカチャカチャと何でもない生活音が聞こえてくる。
 あの人。ギブアップしていたけれど、まだ飲めたんじゃないかな。僕もまだ飲めたけれど、さすがに酔いが回っている。
 飲みすぎは良くない。恋しくなる。
 顔を横に向ければスマートフォンの画面が目に入る。僕の帰りを待ちながら夕ご飯を作っている姿がある。
 酔っ払って床に転がるなんて、あの子といた時以来ではないだろうか。首が苦しくてボタンを外してもらった。今より酔っていたけれど、それはしっかり覚えている。可愛さの話をした時にあの子は自分とハムスターを一緒にするなと言っていたけれど、確かにハムスターは酔って帰ったところで介抱してはくれない。
 思い出の中の君に甘えていた自分がさっきまでカウンター越しに会話していたあの男に置き換わる、そんな映像が頭に浮かんでらしくもなく床に拳を叩きつけた。
 手が痛い。手を天井にかざしてみれば赤くなっていた。
 イライラする。動きたくないしこのまま寝てしまえればいいのだが、酔って眠って目は冴えてしまった。
 ああ、いやだ。いやだ。いやだな。いやな気分だ。
『せんせい、おかえりなさい』
 ぱたぱたと軽い足音と共に、あたたかい声が耳に入る。
 君のせいでいやな気分になっているのだけれど、君の声が僕を動かすのも事実。赤くなった手でスマートフォンを握りしめ、上半身を起こしてあぐらをかいて座る。動画を少し戻すと、玄関の鍵が開くのと同時に驚きと笑顔を咲かしてキッチンから出ていく姿があった。
『せんせい、おかえりなさい』
 あの子の姿がなくなり、さっき聞いたばかりの挨拶がもう一度流れて動画は終わる。
 しばらく何も操作せずにぼーっと画面を眺めていたら、スリープ状態に入り液晶は真っ黒になった。そこに写り込む自分の顔は特に表情もないのだが何故だか悲しげだ。
 膝に手を置き気合を入れ、何とか立ち上がる。はじめの一歩は少しよろけたが、そのあとは真っ直ぐキッチンへと迎うことができた。さっきまで動画に映っていたのと同じ場所にしては散らかったそこへ足を踏み入れ、冷蔵庫から昨日開けた赤ワインのボトルを出す。食器棚から出し入れすることがほとんどなくなり、食洗機に置いたままのワイングラスを手に取って美しい赤色の液体を注いだ。芳醇な香りをゆっくり楽しむこともなく深く二度飲み込む。
 僕は未だにあの子に出会いたくなかったと思っている。
 僕の人生における最大の失敗はあの子に出会ったこと。
 そばにいるのも苦痛。離れるのも苦痛。忘れることはできない。
 でもそばにいる苦しさに比べれば、寂しいくらいのほうがいくらかマシだ。
 出雲を自分が傷つけてしまう恐怖に比べればずっといい。
 君を自由にしたら僕はことある事に怒るだろうし、君を拘束すれば自分が許せなくなる。
 君と一緒にいたあの日々は自分が一生味わうことのないはずだったあたたかで幸せなものだったけれど、同じくらいかそれ以上に辛く苦しくて、あの時に比べれば寂しいくらいどうということもなく、平穏な日々を過ごせている。
 出会いすらしなければ、人に与えられる幸せを知ることもなかったが、苦しいも寂しいも知らぬまま死ねたのだろう。平穏とはいえ、一生消えない一抹の不安を胸に抱えているより、何も知らない方がよかった。
 酒に溺れるとこんなことばかり考えてしまう。
 こうなってくると果てはフォルダに入っている出雲の卑猥な動画をいっそ、動画サイトに投稿してしまおうかという計画をするまで堕ちる。あの子が撮影協力をした高校案内のパンフレットの画像から勤めているバーのSNSまで一緒に載せれば……ああ。毎回つまらなくワンパターンな考えだ。馬鹿らしい。
 出雲の幸せを願う自分は、心の奥底では不幸になってしまえと思っている。君を“保護する”という名目のもと、手元に置いておければ一番いい。でもその引き金を自分で引いたら結局は後悔する。
 あの子に出会ってしまった時点で僕がそれなりに不幸になるというルートは確定したと思う。八方塞がりだ。逃げ場がない。
 先生、覚えていらっしゃいますか。
 今日で二十歳になりました。
 先生、扉を開けてください。
 先生、先生、お願いします。
 いらっしゃるんでしょう?
 二年間自由に過ごしました。もう十分です。
 先生のお嫁さんにしてくださるんでしょう?
 先生、先生、先生……――
 あの日の声が頭の中をぐるぐる回ってはこだまする。忘れるはずもない君の二十歳の誕生日。扉越しですらない、一階のロビーのインターホン越しに、君は誕生日から一週間毎日訪ねてきては僕に訴えかけてきた。はじめ頬を紅潮させ期待で胸いっぱいにさせていた様子の出雲は、日が経つにつれ顔にも声にも覇気を失い、不安で顔を真っ青にして、終いには昔と同じように鼻をぐずぐずと鳴らして泣いていた。それを全て見届けておいて僕は最後まで扉を開けることはなかった。
 誕生日から八日経った四月七日、この扉が開けられることはないと悟った出雲が来ることはなかった。それから一度もこの部屋を訪ねてきたことはない。
 あの時も今も、僕が劣等感を抱くような“まともな男”が君の近くにいる。不特定多数の中の一人で片付けるにしては特別な存在がいる。
 別にそれでいい。嫌だけど、殺してやりたいとすら思うけど、それでいい。出雲が一人で泣いているよりはいいはずだ。
 僕はあの子の隣にいるのはこわい。
 だからいい。
 今頃どうしているのだろうかと考えると死にたくなるけれど、いい。本当に耐えられなくなったら死んでしまってもいい。自死するというのは相当なエネルギーが必要だろうから、僕にできるかはわからないけれど、酒量は増える一方だし寝てる間にさっくり死ねないものだろうか。最後は出雲の夢でも見ながら死にたいと願いながら、寝る前に君の動画を流したりしているが、健康診断の結果を見る限りまだ健康だ。この体格といい我ながら恨めしいほど恵まれた身体だ、皮肉が言いたくなるほどに。
 ワインを注ぎ足してハムスターのケージの前に座る。全然懐いたりしているわけではないが、目が合えばなんとなく飼い主として認識されているとは思える。白い毛をしているのに真っ黒いうるうるとした瞳で見てくるのが可愛い。
 この子が生きてるうちは頑張ろうと思うが、もうそんなに長生きしないだろう。もっと寂しくなる。
 出雲に出会ったことは後悔しているが、あの子に出会わなければハムスターを飼ってみようとは思わなかった。幼少期唯一のちょっと嬉しくて悲しかった思い出が消化できたことはいいことだ。
 もしかして思い残すのとはないというやつだろうか。
 しかしなんとなく腑に落ちず、ワインで唇を湿らす。
 死にたくなる……そうは思っても、いや、やっぱりそれはないな。寂しくても、辛くても、腹が立っても、悲しくても、とりあえずは君を眺めていられる。今も見守っている。それにこれから出雲が不幸になる可能性もある。だめだ、長生きしよう。長生き。
 本当にあの子が辛い時には迎え入れる、その約束だけは守らないといけない。
 うん。お酒飲んで、酔っ払って、悲観に暮れた。自問自答した。目的を見つめ直すの大事。物置兼書斎で今日のことも記録しておこう。
 デスクについて、まず自分が打ち出した文章が「宇田川路彦・予想されるアルコール中毒致死量」だったが、あまりに洒落にならないのですぐに消した。なにかもっと平和的なもの、と考えて「宇田川路彦に出雲が三つ編みした場合の編み目の数」を記録する。そうして、せっかく勝ったのだからあの三つ編み切り落としてくればよかったと後悔するのだった。






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