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本命(ウケ)と浮気相手(タチ)とその彼氏(ウケ)と宅飲みなんて泥酔覚悟で飲むしかない⑧
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頭がきちんと働いていないのも手伝って、言葉が全く出てこない。
それなのに玲児の緊張感がひしひしと伝わる視線から逃げることもできなくて、見つめ合い、時間が経過するだけふざけた回答は許されなくなる。
「照れ、くさくて」
嘘には本音を交えたほうが真実味が増す。ボロも出にくい。
どこかの嘘つきのそんなテクニックを聞いた時、大きく頷いたのを覚えている。意識せずとも自分も実行しており(当然玲児に対しても)、効果的だとわかっていたからだ。
頭の片隅にこの記憶があったのは確かだ。
けれどこの第一声の理由だけは、玲児に極力嘘をつきたくない、その気持ちからだった。
「覚えてねぇけどなんかきっかけがあって、水泡って呼んだりするようになったんだよな。加賀見ってふつーに呼んでることもあるんだけど。昔からみなちゃんって女子の真似して呼んだりもしてたし。でもお前たちの前じゃちょっと照れくさくて」
でもそれだけでは後が続かなくて、結局ベラベラとあることないこと話すしかなくなる。
玲児は眉を顰め、頷くこともせずにじっと俺の話を聞いている。その目は何かを探るみたいに俺の瞳のもっと奥を覗き込み、時折揺れる。それを制止するために俺は玲児に返事を求めた。
「実際にそうやって違和感あったんだろ?」
「む……そうだな」
少し緊張が薄れた。ほっとして会話を終わらせる方向へもっていく。
「やー恥ずかしいな、無駄に隠してたのも恥ずいし。なんかごめんな。いらない心配かけて」
「そのきっかけ、というのは……?」
「なんだったかな……覚えてない」
「そうか……」
「マジでなんでもないことだと思うよ。思い出したら言うわ」
「む」
「ん」
目を閉じる。もういいだろ、終わりだ。その意思表示。頭痛い。頭の後ろ半分がズキズキする。
目を開けて会話してるのもしんどいのに、こんな。
「なぁ、加賀見はおまえのこと」
「大鳥って呼んでるじゃん。意識してねーからわかんねーよ」
後ろめたいことがあると優しくなると指摘されたばかりの口調は、苛立ちに荒くなる。額に手の甲を当て、閉じた瞼の向こうからでも明るい電灯を隠した。
「水泡というのは、加賀見にそう呼べと」
「は?」
まだ続くのか。勘弁してくれ。
あーもう最悪だ。何も聞かないでくれ。
後ろめたいことしかないんだ。
「あいつはお前に」
「そんなんじゃねーよ、しつっこいな。お前加賀見のこと何だと思ってんの? あいつはさっきだって介抱してくれてただけだし、なんもねーよ。あんなんでも友達だから悪く言われんの気分悪ぃんだけど。俺が酔ってるときになんかしてんじゃねーかって、完全に犯罪者扱いじゃねーか。自分がどんだけ失礼なこと言ってるかわかってんの?」
俺が詰め始めるのと、食器を洗う水音が止むのはほぼ同時だった。出雲が近づいてくる足音を聞きながらも、俺は止まることができない。
聞かれれば聞かれるほど、本音なんかなくなる。
焦って苛立って、何も悪くない玲児に逆上して怒鳴る羽目になる。
自分の手を影にして横目に見た玲児は酷く傷ついた顔をしていた。
納得がいかず何度も追求してしまう唇を噛み締め、苦しそうに表情を歪めて目を細める。
自分のクソさ加減に呆れる。なんで玲児がこんな顔しなきゃいけないんだよ。俺が完全に悪いのに。
でもわかってる、俺がやってるのは“そういうこと”だ。
それどころかこんなのまだ甘い。真実を知ったらこんなものじゃ済まない。
出雲が上から、俺を見下ろしてる。
見なくてもわかる、気配がするし、少し暗くなったから。
何も言うなよ、何も余計なこと言わないでくれ頼む。
頭ガンガンして、心臓バクバクして、体温が上昇して汗が吹き出す。
顔とか脇とかばっかり汗かいて気持ち悪い。
完全に舐めてた、二人のこと。
だから全力で今日という日を止めないで俺はここにいる。
本当に、本当に馬鹿だ。
「喧嘩ですか? 大丈夫ですか?」
しかし聞こえてきたのは、俺たちを気遣う声だった。
いやきっと俺たちではなく、玲児を気遣っている。テンプレートのような優しい声色ではなく、心からの温かさを感じた。
「頭痛いから寝る」
自分に向けられたものではないもしても、その声に安心して俺は玲児に背を向けた。
背もたれに顔を埋める。目の前は真っ暗になって、意識も下の方へ落としてく。もう何も考えたくない。
「玲児くん」
「すまん、騒がしかったな。片付けも任せてしまってすまない」
「俺のほうこそ、ごめんなさい」
「む? なにがだ?」
「いえ。あちらで何か飲みましょう」
二人が遠ざかっていく。それと一緒にぐらぐらの意識も遠ざかっていく。
出雲の“ごめんなさい”の意味を考えようとした。けれどもそれは俺の意識と一緒に、ぽちゃん、と音を立てて池に落ちた。
落ちた意識が形作られて、浮上してくる。
久しぶりにとても深い深い眠りだった。夢も何もない、寝ている間のうすい記憶や意識のようなものが一切ない、その間自分の存在が消えていたかのような、死んでいたかのような眠りだ。
俺はこういう眠りが凄く嫌いだ。
そら恐ろしくてゾッとする。怖い。すごく怖い。
だから常夜灯のみの薄暗い部屋の中に浮かぶ、糸のような煙を辿った。
嗅ぎなれた煙草のにおい。苦いのに甘いバニラの香りがする。
「みな、わ……?」
「ん……? 起きた?」
カーペットの敷かれた床に座り、ソファに寄りかかっていた背が振り返る。すぐに手が伸びてきて、乱れた俺の髪を梳かし、撫でつける。
「おはよう」
とろけるような優しい声。
まだ重たい瞼でゆっくりと瞬きをしながら、恐怖が薄らいでいくのを感じた。
こうやっていつも目覚められたらいいのに。
いつでもこうして目覚めたい。恐ろしい目覚めを独りぽっちで迎えるのにはもううんざりしている。
優しい眠りも、目覚めも知ってる。
それなのに記憶にあるのは独りぽっちの眠りと目覚めだけ。
「気持ち悪く、ない……? 飲み物、もってくる」
「みなわ」
「うん?」
「いま何時……?」
「二時半」
「二人、寝た?」
「うん」
「そっか」
「うん」
「お前はなんでそこにいんの?」
「心配、だったから……」
煙草をくしゃ、とテーブルの上の灰皿に押し付ける。
「いや。それは、自分を良く言い過ぎ……かな。僕が、そばにいたかった」
「みなわ」
「飲み物、もってくるよ?」
立ち上がろうとした水泡の腕を掴んで、引っ張る。どこにも行かないで。
「みなわぁ……」
ぽろぽろぽろぽろと、ダムが決壊したように突然涙がこぼれはじめた。
自業自得で誰も責めることなんてできない。
苦しいのも怒りも全部自分に向けるしかなく、神経すり減って削られてギリギリだった。
ソファの傍らで膝立ちになった水泡に、寝転がったまま抱かれる。肩から上が腕の中にすっぽり収まって、頭をうんと撫でられる。
何重にも防具を着てなんとか耐えていた俺の心は裸に剥かれていって、ますます涙は止まらなくなった。何度もしゃくりあげ、咳き込みながら、水泡にしがみついてわんわん泣いた。
でも俺もこいつも悪いやつで、クズで、共犯者というだけ。
加害者のくせに被害者ヅラして慰めてもらって気持ちよくなってる。
そんな自己嫌悪に襲われて、落ち着いたはずなのにずっと悲しい。
悲しいなんて思っていいのか、俺が。どんな感情だったらもっていいんだ。
「みな、わっ、抱きしめて……ギュッ、てきつく、すっげぇつよく、抱きしめて、ほしぃ……ッ」
わからなくて、苦しくて苦しくて、起き上がって水泡にとにかく強く抱き締めてもらった。胸が苦しいのが締め付けられる苦しさに紛れる。
もう俺、ずっとここにいたい。
玲児の顔見たくない。
そんな逃げた考えが浮かんで、だめだ苦しいのは紛らわせちゃいけないんだって思った。苦しまなきゃいけないんだ。
玲児と一緒にいたいよ。
玲児を愛していたいよ。
「みなわと、離れるしかない……?」
背を撫でる水泡の手が止まる。そしてぽんぽんと軽く叩いた。
「そうやって、聞くの……ずるいね?」
「あっ」
耳たぶに熱い唇があたる。
「僕に、離さないよ…………って、言われたい?」
「あ、みなわっ、息が……やだっ……」
「離れようか。僕と出雲も、見ての通りだ」
くすぐったさに漏れた吐息を、く、と飲み込む。
そうだ。この関係のせいで、二人の生活は明らかに変化してきてしまっているんだ。前に俺が「もう会わない」と言った時とは状況が違うんだ。
出雲は水泡の手から離れて、外で働いて、イカつい店長とやらと仲良さげで。水泡はそれが気に入らなくて、さっきだって不機嫌だった。
でも俺といる時間が増えたせいで出雲を一人にしているから、俺と浮気しているから、出雲の好きにさせるしかなくて。
水泡にとっては俺が離れたいって言ったらその方が好都合なんだ。出雲を取り戻せるから。
「あ、やだ……やだっ、やだっ……!」
「うん……?」
「はなれたくない、はなれんのやだ、俺から離れないで……っ」
「いいの? 瑞生のこと、傷つけたままで」
「だめだけどっ……! 最低だけどっ……! 無理なんだよ、もうお前と離れるとか、無理だから……やだ、やだ、ごめんなさい、離れないで……!」
ひぐっ、ひぐっ、て水泡の服に目とか鼻こすりながら情けない泣き方をして縋りつく。服べしょべしょにしちまった。流れてすぐの涙は熱いのに、水泡の肩を濡らしてる涙は冷たい。
「いっしょに、いて……ずっといっしょ、いて……みなわ、ごめんなさい……」
「うん」
「また、おはようって、して」
「君、先に起きてることが……多い、けどね」
「ううん、それでもさ、水泡がさ、俺に一番、おはようって言ってる。いっぱい寝れる……」
「そうなの? それは……問題だね。もっと寝ないと」
「寝れねぇもん……っ……」
「じゃあ……一緒に、いようね。たくさん」
「ほんと?」
ぐしゃぐしゃの顔を上げて、水泡を見る。
玲児にはこんなかっこ悪い顔見せられない。こんな全部曝け出すみたいな泣き方もできない。
指先が涙を拭って、ティッシュで鼻も拭いてもらって、目を閉じていたらふふふって笑い声が聞こえてまた水泡を見る。
「さっきのは、嘘」
見上げた顔は微笑んでいて、僅かに頬に赤みがさしていて、温かい手で俺の額を撫でる。
「離さない」
――……水泡と、どうしても離れられないなら。
離れられないなら、俺は玲児と離れるべき?
玲児は俺の生きる道標で、生きる希望で、玲児のためにずっと行動して、道を選んできた。
それまでの俺の生きる道標は、言ってしまえば叔母さんだった。
叔母さんの機嫌をとるために、叔母さんに話を聞いてもらうために、叔母さんに笑いかけてもらうために、どんなに辛くてもできる限り“いい子”で“優秀”でいようと頑張った。
叔母さんから逃げて、玲児とすぐに出会った。
本当は、子供だった俺は本当は、篤志さんや美穂さんに救いを求め、道標になってもらわなくてはいけなかった。
それなのに俺は玲児に救いを求めてしまった。
玲児がいなくなってしまったら、どう生きていけばいいかわからない。
涙が止まり、黙りこくって急に静かになった俺の頬を、水泡の手の甲が滑る。
水泡が俺のこと、導いてくれる?
それとも俺は、導かれなくても生きていける?
水泡は導いてくれる存在とは、違う気がする。俺のことダメにするんだもん。でもダメになるのも必要なんだ。ダメになるのは全てから解放されて、気持ちいい。
「シャワー、浴びておいで。瑞生も入った。さっき、歯ブラシも……買ってきた。赤いの、使って? パッケージのまま、置いてある」
「玲児、どこで寝てんの?」
「出雲と、ベットで」
「は、なんで」
「煙草……臭くて。僕のとこじゃ無理、だって」
「まじかよ、はー……? 出雲勃たねぇから平気か……」
「瑞生は、勃起できるよね?」
「あ? いや、まぁそうだけど」
「君のお尻も入るのに、ね」
尾てい骨のあたりを、するりと撫であげられる。ゾワッとして、スイッチがはいったみたいに、ずっと疼いてたあの感覚が蘇る。
「お尻、洗ってきて」
囁かれただけで、きゅんとする。頬が熱くなって涙が滲む。
「え、ぁ……や、今日はむり……」
拒絶したい声が蕩けてる。期待してる。
「指で。してあげる。本当は、疼いてたまらないでしょ? ずぅ……と、焦らされてるもんね?」
「あっ……でも、無理だろ、さすがに…………ゆび、だけ?」
「そう」
「でも」
「念のため。ね?」
離さないって押し通してほしい。
抱いてと言えないから無理矢理犯してほしい。
これは、道標?
頷くと、キスをもらって褒められる。
期待、恐れ、背徳感、罪悪感。様々な感情に心臓を高鳴らせ、ふらつく足取りで俺はシャワー室へ向かった。
それなのに玲児の緊張感がひしひしと伝わる視線から逃げることもできなくて、見つめ合い、時間が経過するだけふざけた回答は許されなくなる。
「照れ、くさくて」
嘘には本音を交えたほうが真実味が増す。ボロも出にくい。
どこかの嘘つきのそんなテクニックを聞いた時、大きく頷いたのを覚えている。意識せずとも自分も実行しており(当然玲児に対しても)、効果的だとわかっていたからだ。
頭の片隅にこの記憶があったのは確かだ。
けれどこの第一声の理由だけは、玲児に極力嘘をつきたくない、その気持ちからだった。
「覚えてねぇけどなんかきっかけがあって、水泡って呼んだりするようになったんだよな。加賀見ってふつーに呼んでることもあるんだけど。昔からみなちゃんって女子の真似して呼んだりもしてたし。でもお前たちの前じゃちょっと照れくさくて」
でもそれだけでは後が続かなくて、結局ベラベラとあることないこと話すしかなくなる。
玲児は眉を顰め、頷くこともせずにじっと俺の話を聞いている。その目は何かを探るみたいに俺の瞳のもっと奥を覗き込み、時折揺れる。それを制止するために俺は玲児に返事を求めた。
「実際にそうやって違和感あったんだろ?」
「む……そうだな」
少し緊張が薄れた。ほっとして会話を終わらせる方向へもっていく。
「やー恥ずかしいな、無駄に隠してたのも恥ずいし。なんかごめんな。いらない心配かけて」
「そのきっかけ、というのは……?」
「なんだったかな……覚えてない」
「そうか……」
「マジでなんでもないことだと思うよ。思い出したら言うわ」
「む」
「ん」
目を閉じる。もういいだろ、終わりだ。その意思表示。頭痛い。頭の後ろ半分がズキズキする。
目を開けて会話してるのもしんどいのに、こんな。
「なぁ、加賀見はおまえのこと」
「大鳥って呼んでるじゃん。意識してねーからわかんねーよ」
後ろめたいことがあると優しくなると指摘されたばかりの口調は、苛立ちに荒くなる。額に手の甲を当て、閉じた瞼の向こうからでも明るい電灯を隠した。
「水泡というのは、加賀見にそう呼べと」
「は?」
まだ続くのか。勘弁してくれ。
あーもう最悪だ。何も聞かないでくれ。
後ろめたいことしかないんだ。
「あいつはお前に」
「そんなんじゃねーよ、しつっこいな。お前加賀見のこと何だと思ってんの? あいつはさっきだって介抱してくれてただけだし、なんもねーよ。あんなんでも友達だから悪く言われんの気分悪ぃんだけど。俺が酔ってるときになんかしてんじゃねーかって、完全に犯罪者扱いじゃねーか。自分がどんだけ失礼なこと言ってるかわかってんの?」
俺が詰め始めるのと、食器を洗う水音が止むのはほぼ同時だった。出雲が近づいてくる足音を聞きながらも、俺は止まることができない。
聞かれれば聞かれるほど、本音なんかなくなる。
焦って苛立って、何も悪くない玲児に逆上して怒鳴る羽目になる。
自分の手を影にして横目に見た玲児は酷く傷ついた顔をしていた。
納得がいかず何度も追求してしまう唇を噛み締め、苦しそうに表情を歪めて目を細める。
自分のクソさ加減に呆れる。なんで玲児がこんな顔しなきゃいけないんだよ。俺が完全に悪いのに。
でもわかってる、俺がやってるのは“そういうこと”だ。
それどころかこんなのまだ甘い。真実を知ったらこんなものじゃ済まない。
出雲が上から、俺を見下ろしてる。
見なくてもわかる、気配がするし、少し暗くなったから。
何も言うなよ、何も余計なこと言わないでくれ頼む。
頭ガンガンして、心臓バクバクして、体温が上昇して汗が吹き出す。
顔とか脇とかばっかり汗かいて気持ち悪い。
完全に舐めてた、二人のこと。
だから全力で今日という日を止めないで俺はここにいる。
本当に、本当に馬鹿だ。
「喧嘩ですか? 大丈夫ですか?」
しかし聞こえてきたのは、俺たちを気遣う声だった。
いやきっと俺たちではなく、玲児を気遣っている。テンプレートのような優しい声色ではなく、心からの温かさを感じた。
「頭痛いから寝る」
自分に向けられたものではないもしても、その声に安心して俺は玲児に背を向けた。
背もたれに顔を埋める。目の前は真っ暗になって、意識も下の方へ落としてく。もう何も考えたくない。
「玲児くん」
「すまん、騒がしかったな。片付けも任せてしまってすまない」
「俺のほうこそ、ごめんなさい」
「む? なにがだ?」
「いえ。あちらで何か飲みましょう」
二人が遠ざかっていく。それと一緒にぐらぐらの意識も遠ざかっていく。
出雲の“ごめんなさい”の意味を考えようとした。けれどもそれは俺の意識と一緒に、ぽちゃん、と音を立てて池に落ちた。
落ちた意識が形作られて、浮上してくる。
久しぶりにとても深い深い眠りだった。夢も何もない、寝ている間のうすい記憶や意識のようなものが一切ない、その間自分の存在が消えていたかのような、死んでいたかのような眠りだ。
俺はこういう眠りが凄く嫌いだ。
そら恐ろしくてゾッとする。怖い。すごく怖い。
だから常夜灯のみの薄暗い部屋の中に浮かぶ、糸のような煙を辿った。
嗅ぎなれた煙草のにおい。苦いのに甘いバニラの香りがする。
「みな、わ……?」
「ん……? 起きた?」
カーペットの敷かれた床に座り、ソファに寄りかかっていた背が振り返る。すぐに手が伸びてきて、乱れた俺の髪を梳かし、撫でつける。
「おはよう」
とろけるような優しい声。
まだ重たい瞼でゆっくりと瞬きをしながら、恐怖が薄らいでいくのを感じた。
こうやっていつも目覚められたらいいのに。
いつでもこうして目覚めたい。恐ろしい目覚めを独りぽっちで迎えるのにはもううんざりしている。
優しい眠りも、目覚めも知ってる。
それなのに記憶にあるのは独りぽっちの眠りと目覚めだけ。
「気持ち悪く、ない……? 飲み物、もってくる」
「みなわ」
「うん?」
「いま何時……?」
「二時半」
「二人、寝た?」
「うん」
「そっか」
「うん」
「お前はなんでそこにいんの?」
「心配、だったから……」
煙草をくしゃ、とテーブルの上の灰皿に押し付ける。
「いや。それは、自分を良く言い過ぎ……かな。僕が、そばにいたかった」
「みなわ」
「飲み物、もってくるよ?」
立ち上がろうとした水泡の腕を掴んで、引っ張る。どこにも行かないで。
「みなわぁ……」
ぽろぽろぽろぽろと、ダムが決壊したように突然涙がこぼれはじめた。
自業自得で誰も責めることなんてできない。
苦しいのも怒りも全部自分に向けるしかなく、神経すり減って削られてギリギリだった。
ソファの傍らで膝立ちになった水泡に、寝転がったまま抱かれる。肩から上が腕の中にすっぽり収まって、頭をうんと撫でられる。
何重にも防具を着てなんとか耐えていた俺の心は裸に剥かれていって、ますます涙は止まらなくなった。何度もしゃくりあげ、咳き込みながら、水泡にしがみついてわんわん泣いた。
でも俺もこいつも悪いやつで、クズで、共犯者というだけ。
加害者のくせに被害者ヅラして慰めてもらって気持ちよくなってる。
そんな自己嫌悪に襲われて、落ち着いたはずなのにずっと悲しい。
悲しいなんて思っていいのか、俺が。どんな感情だったらもっていいんだ。
「みな、わっ、抱きしめて……ギュッ、てきつく、すっげぇつよく、抱きしめて、ほしぃ……ッ」
わからなくて、苦しくて苦しくて、起き上がって水泡にとにかく強く抱き締めてもらった。胸が苦しいのが締め付けられる苦しさに紛れる。
もう俺、ずっとここにいたい。
玲児の顔見たくない。
そんな逃げた考えが浮かんで、だめだ苦しいのは紛らわせちゃいけないんだって思った。苦しまなきゃいけないんだ。
玲児と一緒にいたいよ。
玲児を愛していたいよ。
「みなわと、離れるしかない……?」
背を撫でる水泡の手が止まる。そしてぽんぽんと軽く叩いた。
「そうやって、聞くの……ずるいね?」
「あっ」
耳たぶに熱い唇があたる。
「僕に、離さないよ…………って、言われたい?」
「あ、みなわっ、息が……やだっ……」
「離れようか。僕と出雲も、見ての通りだ」
くすぐったさに漏れた吐息を、く、と飲み込む。
そうだ。この関係のせいで、二人の生活は明らかに変化してきてしまっているんだ。前に俺が「もう会わない」と言った時とは状況が違うんだ。
出雲は水泡の手から離れて、外で働いて、イカつい店長とやらと仲良さげで。水泡はそれが気に入らなくて、さっきだって不機嫌だった。
でも俺といる時間が増えたせいで出雲を一人にしているから、俺と浮気しているから、出雲の好きにさせるしかなくて。
水泡にとっては俺が離れたいって言ったらその方が好都合なんだ。出雲を取り戻せるから。
「あ、やだ……やだっ、やだっ……!」
「うん……?」
「はなれたくない、はなれんのやだ、俺から離れないで……っ」
「いいの? 瑞生のこと、傷つけたままで」
「だめだけどっ……! 最低だけどっ……! 無理なんだよ、もうお前と離れるとか、無理だから……やだ、やだ、ごめんなさい、離れないで……!」
ひぐっ、ひぐっ、て水泡の服に目とか鼻こすりながら情けない泣き方をして縋りつく。服べしょべしょにしちまった。流れてすぐの涙は熱いのに、水泡の肩を濡らしてる涙は冷たい。
「いっしょに、いて……ずっといっしょ、いて……みなわ、ごめんなさい……」
「うん」
「また、おはようって、して」
「君、先に起きてることが……多い、けどね」
「ううん、それでもさ、水泡がさ、俺に一番、おはようって言ってる。いっぱい寝れる……」
「そうなの? それは……問題だね。もっと寝ないと」
「寝れねぇもん……っ……」
「じゃあ……一緒に、いようね。たくさん」
「ほんと?」
ぐしゃぐしゃの顔を上げて、水泡を見る。
玲児にはこんなかっこ悪い顔見せられない。こんな全部曝け出すみたいな泣き方もできない。
指先が涙を拭って、ティッシュで鼻も拭いてもらって、目を閉じていたらふふふって笑い声が聞こえてまた水泡を見る。
「さっきのは、嘘」
見上げた顔は微笑んでいて、僅かに頬に赤みがさしていて、温かい手で俺の額を撫でる。
「離さない」
――……水泡と、どうしても離れられないなら。
離れられないなら、俺は玲児と離れるべき?
玲児は俺の生きる道標で、生きる希望で、玲児のためにずっと行動して、道を選んできた。
それまでの俺の生きる道標は、言ってしまえば叔母さんだった。
叔母さんの機嫌をとるために、叔母さんに話を聞いてもらうために、叔母さんに笑いかけてもらうために、どんなに辛くてもできる限り“いい子”で“優秀”でいようと頑張った。
叔母さんから逃げて、玲児とすぐに出会った。
本当は、子供だった俺は本当は、篤志さんや美穂さんに救いを求め、道標になってもらわなくてはいけなかった。
それなのに俺は玲児に救いを求めてしまった。
玲児がいなくなってしまったら、どう生きていけばいいかわからない。
涙が止まり、黙りこくって急に静かになった俺の頬を、水泡の手の甲が滑る。
水泡が俺のこと、導いてくれる?
それとも俺は、導かれなくても生きていける?
水泡は導いてくれる存在とは、違う気がする。俺のことダメにするんだもん。でもダメになるのも必要なんだ。ダメになるのは全てから解放されて、気持ちいい。
「シャワー、浴びておいで。瑞生も入った。さっき、歯ブラシも……買ってきた。赤いの、使って? パッケージのまま、置いてある」
「玲児、どこで寝てんの?」
「出雲と、ベットで」
「は、なんで」
「煙草……臭くて。僕のとこじゃ無理、だって」
「まじかよ、はー……? 出雲勃たねぇから平気か……」
「瑞生は、勃起できるよね?」
「あ? いや、まぁそうだけど」
「君のお尻も入るのに、ね」
尾てい骨のあたりを、するりと撫であげられる。ゾワッとして、スイッチがはいったみたいに、ずっと疼いてたあの感覚が蘇る。
「お尻、洗ってきて」
囁かれただけで、きゅんとする。頬が熱くなって涙が滲む。
「え、ぁ……や、今日はむり……」
拒絶したい声が蕩けてる。期待してる。
「指で。してあげる。本当は、疼いてたまらないでしょ? ずぅ……と、焦らされてるもんね?」
「あっ……でも、無理だろ、さすがに…………ゆび、だけ?」
「そう」
「でも」
「念のため。ね?」
離さないって押し通してほしい。
抱いてと言えないから無理矢理犯してほしい。
これは、道標?
頷くと、キスをもらって褒められる。
期待、恐れ、背徳感、罪悪感。様々な感情に心臓を高鳴らせ、ふらつく足取りで俺はシャワー室へ向かった。
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