ブルガリブラックに濡れる〜恋人の元・セフレ(攻)を優しくじっくりメス堕ちさせる話〜

松原 慎

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メス堕ちさせた元タチへの愛のあるセックスの教え方㉓

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「大浴場やべぇー!」
「朝から、元気……」
「お前の方が元気だったろ」
「うん。だから今、元気ない」

 朝早く、運良く誰もいなかった大浴場の遠くから、隼人が泳いで戻ってくる。
 僕のところまできて、歯を見せて笑ってぱちゃぱちゃと足を動かすのを見ていると、自然と口元に笑みが浮かぶ。
 広いとはいえ風呂だ。浅くて膝でもぶつけてしまいそうだが器用に泳いでいる。ぐるっと一周してきては僕の元に戻ってきて遊んでいた隼人だったが、人がぽつぽつと入ってくると僕の隣から離れなくなり、大人しくなった。僕としても隼人の可愛いあれこれをあまり見られたくないのでそれでいい。
 湯船の中でこっそりと手を繋いで今日のことを話し、のぼせる前に風呂を後にする。
 それからはまた朝食バイキングで信じられないぐらい卵料理を食べる隼人に僕は怪訝な顔をして、ヨーグルトとコーヒーしか口にしない僕に隼人は食べ放題なのにもったいないと怒って。
 ホテルをチェックアウトした後は、知らぬ間に行くことが決定していた自然のアスレチックと称した思いっきり身体を動かす森みたいなところにカーナビを設定されていた。
 ついてみれば溢れんばかりの木々、木に張られたロープ、足場、ネットでできた橋。そこではしゃぐ若者に家族たち。どう考えても僕には一生縁が無い場所である。
 愕然とする僕に隼人はしたり顔だ。

「お前ここでいいって言ったからな」
「言った……かな……」
「言ったよ」
「嘘なの……?」
「嘘じゃねぇし」

 運動着のレンタルをして係員にハーネスをつけられ、不安しか感じない。本格的すぎる。ベルトが腹に太ももに当たって不快感が半端ない。腹から飼い紐みたいにロープがぶら下がっているし。これで吊るされて拷問にあうのだろうか。
 なんて思っていたら、本当にハーネスを足場になっている木と木を伝って張られたロープに引っ掛けて吊るされ、森を滑走するという恐ろしい行為を強いられた。
 ジップライン。一生縁がないと思っていた。
 本当にやるのか。一服いいだろうか。

「だめ。ハーネスつけたら喫煙と便所だめって言われたろ」
「ううん……」
「サーッと滑りゃいいんだよ。な? 絶対気持ちいいって」
「そんなわけ……」
「じゃあお先!」
「えぇぇぇ……」

 森の中に張られた100mは超えているであろうロープに引っ掛けたハーネスを掴み、景色とか微塵も感じる余裕がなさそうなスビードで隼人が向こう岸まで滑っていく。ふとアトラクションの説明が記載された看板を見る。時速30km。正気じゃない。
 よくある街路樹くらいの高さなのでそこまで高くはない。高所恐怖症でもない。
 けど、いやだな。なんでわざわざ。わざわざこんな。

「ほらーっ! 早く来いよ! 来たらギューってしてやるから」
「本当……?」
「あぁ?! お前声ちっちぇー! 聞こえねぇから早く来い!」
「あーもう……」

 仕方ない、このまま駄々を捏ねても隼人に面白がられるだけだ。とりあえず滑ろう。
 ハーネスをロープにかけ、少し勢いをつけて滑り始める。勢いが足りずに途中で止まる方が面倒臭い。
 強い風が頬を撫でていく。
 そしてそのまま風を切る音となって、耳に届く。
 ただの緑だと思っていたが、横をめまぐるしく流れていく景色がチラチラと細かい葉の緑と陽の光とが混ざって模様を作り、自然のモザイクアートのようで美しかった。
 普段感じることのない、風に追い越されるような、それとも包まれるような、この感覚も思ったより悪くない。
 なんだ、案外いけるじゃないか。
 こうやって無理矢理に連れて来られなければ気が付かなかった。
 しかし向こう岸にいる隼人に近付いていき、気づく。
 隼人が僕を指さして爆笑していることに。

「なに」

 着地しながら問いかける。またこの子は人を指さして。

「いやっ、だって、おまっ……あんな真顔で滑る?! 怖かったの? 無なの? なんだよあれマジで!」
「うるっさいな……意外と悪くないって、思ってたのに」
「え、マジ?」

 腹を抱えて丸まった背を起こし、笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭きながら、瞳を宝石みたいに輝かせる。
 腹立つのに。腹立つのに、揺れる葉の影を肌に映しながら笑うその顔が可愛くて。
 ああそうだ、キスはできないけれど。

「ギューってしてくれるんじゃ……ないの?」
「あ! おーおー、してやるよ」

 ギューっとされて、背中をポンポン叩かれて、思い出したようにまた隼人が笑い出して。
 真顔で迫ってくるのやべぇ、まじ怖かった、どういう感情、とずっと言ってくるのを聞きながら自分でも想像してみたらおかしくなってきてしまった。気がついたら僕も声を出して笑っていて、それに一瞬隼人が驚いて、顔を見合せながら額をくっつけ笑いあった。
 その後、他の場所を散策している時も、ご飯を食べている時も、帰りのサービスエリアでも、何回も何回も隼人はその話をした。
 あんな真顔で滑ってきたくせに、そのあとあんなに笑うなんてって。あんなに笑ってるの、しかも声出してあんなアハハって笑ってんの初めて見たって。
 毎回本当に嬉しそうに話してくれた。
 家の近くまで送る途中、コンビニでアイスを買いたいと言う隼人と車の中でアイスを食べている今もだ。

「そんなに楽しかった?」
「すっげぇ楽しかった! お前も楽しかっただろ? 意外と好きなんじゃね、体動かすの」
「いや……明日の筋肉痛、こわい」
「普段から身体動かしとけよー、おっさん」

 人が身体動かしてないと決めつけて。君とのセックスだって重労働だと思うが。それに。

「……動かしてる」
「え、そうなの?」

 モナカのアイスをもくもくと頬に詰めながら僕を見る。
 自分で言っといて、この先を言うのは少し躊躇した。またからかわれそうだ。でも別の反応をするかもしれない。

「君のこと、抱っこできなくなると……困るから」
「え…………うわ」

 うわ、の言葉に僕の期待は消える。
 やっぱり言わなきゃよかった。

「ここで、引くの? ひどい」
「いや、ちげぇよ……今のうわ、は、もっとなんか、うわぁぁぁ! みたいな」
「声が、高くなってる……」
「そうそう、そんな感じ……」

 モナカアイスの最後の一欠片を口に放り込んで、うんうんとなにやら頷いている。そしてもくもくと動いていた口元が止まったあと、俯いた。

「もう帰んねぇとな」
「うん」
「恋人終わり?」
「うん」
「もう愛してるはナシ?」
「うん」
「大好きは?」
「言うよ」
「そっか」

 肘置きの上で手を繋ぐ。

「家すぐそこだから、このまま降りて帰るわ」
「うん」
「キスしとく?」
「いや……だめだよ。誰がいるか、わからない」
「またすぐ呼んでくれるよな?」
「うん。呼ぶよ」
「やっぱキスしたい」
「ううん……じゃあ、眼鏡して」
「おう」

 上着のポケットに入れてあった眼鏡を素早く装着している。眼鏡をかける時、毎回前髪が邪魔そうだ。つばの深いキャップもつけてるし、これなら顔は見えにくいだろう。本当はよくないけれど、でも。
 いっそのこと、バレてしまっても。
 そんなことを考えながら、頬に触れ、親指で下唇を撫で、キスをした。
 そして離れる時に、愛してるの言葉も。これで言うのも最後かと思うと名残惜しい。

「んん……みなわ……」
「そんなぽやんとした顔して。だめだよ。おうち、帰るんだから」
「ん……」
「家ついたら、連絡して」
「こんなでっかい男が心配かよ」
「心配だよ」
「へいへい、わかったよ」

 帽子を被り直して、ちょっと照れくさそうにしながら車から降りていく。
 いつも君が纏っている香りを車内に残して。
 いつまで経っても離れられなくなりそうだから、背中を見送ることもせずすぐに車を発進させる。
 それでもこの香りのせいで君のことを考えずにはいられない。
 ああ、ずるいな。本当にずるい。君の笑顔が頭から離れない。
 君も何か僕のことを感じてくれてはいないだろうか。今夜ぐらい、僕のことを忘れないでいてくれないだろうか。









 午後十時頃帰宅すると、家の中は真っ暗だった。
 眠ってしまうにはまだ早い時間だが、廊下の電気をつけて寝室を確認する。やはりベッドに膨らみはない。シーツにシワの一つもない、ホテルかと見間違うほど完璧なベッドがいつも通りあるだけ。
 僕の部屋にも、風呂場にも、キッチンにも、どこにも人の影はない。
 何か書置きがないかとダイニングとリビングのテーブルもそれぞれ確認したが、置いてあるのはリモコンラックに箱ティッシュくらいだ。それもいつも通り。
 そう、いつも通り。綺麗に片付けられた家。埃のつもってる場所なんて探しても見つからない。
 一人暮らしの時だって定期的にハウスクリーニングを頼んでいたので絶望的な状況ではなかったが、業者を頼むタイミングには角で綿埃が踊っていたし、本や雑誌、ゲームソフト、アーケードコントローラー数種類、酒瓶などなどがいつでも床に転がっていたのに。
 僕が一人で暮らしていた頃とは比べ物にならない、モデルルームのように整理され環境の整った住まいだ。
 すべていつも通りだけど、出雲がいない。
 荷物を置いて、ソファーに腰を下ろし、崩れた前髪をかきあげながら煙草に火をつけて。煙を吐き出しながら辺りを見渡した。
 廊下の電気だけつけてリビングの電気をつけわすれたな。テーブルのラックに照明のリモコンもあるが手を伸ばすのも億劫である。
 それよりも考える。出雲がどこに消えたのか。
 旅行の間、連絡を一回もとっていない。様子を聞くくらいすればよかった。金曜の朝はどうだった? 僕はただ、遠出するから土曜の夜まで帰らないと告げて家を出た。仕事だと嘘をつくこともせず、隼人と一緒だと言うこともせず。
 出雲はどんな顔をしていただろうか……だめだ、いくら考えても思い出せない。ただ「いってらっしゃい」と送られた声だけは耳に残ってる。毎日同じだからそれだけはわかる。朝に弱い出雲は眠たそうな声をして、僕を見送ったらまたベッドに潜り込む。その直前の、ふんわりとまだ夢心地な声。
 部屋中に設置されたカメラを確認すればいついなくなったのかわかるはず。しかしついさっき寝室を見た時に、コートのポケットにスマートフォンを入れたままクローゼットに片付けてしまったことに気がついた。
 そうして仕方なく重い腰をあげようとした時、玄関から物音がした。鍵の回る低い金属音。
「水泡さん。帰ってらしたんですね。どうしたんです、電気もつけずに」
 パチンと出雲の指先がリビングの電気のスイッチを、軽い力で押す。こちらに来ようとしたが僕が入口に置いたボストンバッグが道を塞いでいるため「もう」とため息をつく。いつも通り。何も違和感の感じない態度。
 そのことに逆に違和感を抱き、洗面所までボストンバッグを運ぼうとする背中に声をかける。

「どこ……行ってたの?」
「俺がいなくて驚きました?」
「うん……」
「昨日も出かけましたし、今日も昼頃から外に出ていました。やっぱり一回もカメラの確認されなかったんですね。こんなに長い時間家を空けてらしたのに」

 そのとおりだ。
 言われてみて気がつく。
 僕は旅行中、一出雲に連絡をいれていないどころか、一度も家にいる出雲の様子をカメラで見なかった。
 最初から最後まで、ずっとずっと隼人から目を離せなくて。彼に夢中だったから。

「それで、どこに」
「お話は後でしますから。お洗濯物がたくさんあるでしょう? 先に洗濯機回してきますね」
「自分でやる」
「何が入ってても気にしませんよ」
「待って。いずも……」

 僕の話を聞かずに洗面所へ向かう背中を追う。
 この間、瑞生を家に招くために購入したのとは別の洋服だ。いつの間に購入していたのだろう。
 どうして。
 僕が何していたかわかっていて、どうしてその荷物を片付ける気になれるんだ。あの中には隼人が汚したタオル類だって入ってる。触れさせたくないし、触れられたくない。
 しかし開いたままの洗面所の扉の前に立つと、中にいた出雲はドラム式の洗濯機を開けてボストンバッグの横にしゃがんだまま、じっとしていた。洗濯物を入れた様子もない。
 不思議に思い、屈んでその様子をよく見てみる。すると勢いよく顔が上を向いた。

「これ」
「うん?」
「湯の雫……」

 しゃがんだ出雲の膝には入浴剤が置かれていた。旅館で買ったものだ。

「ああ。なかなか売ってないって……昔、言ってたから。昨日見かけて、買った」
「そんなこと……覚えてたんですか。だってそれ、随分前の話ですよ。高校の頃……」
「うん」
「ご旅行中、俺の事まったく思い出さなかったわけじゃないんですね」

 その問いに頷く気にはなれなくて、首を傾げる。君のことを考えていたと偉そうに言えるような時間は過ごしていない。ボストンバッグの中身を見れば出雲にもそれはすぐにわかる。

「自分で……やる。どいて?」
「はい……」
「出雲?」

 はい、と素直に言った割には動こうとしない出雲を見下ろす。つむじがよく見える。渦の巻が少なくて、まっすぐに柔らかい栗色の髪が流れてる。隼人も柔らかい毛質だが、つむじは右巻きで少し癖がある。
 だめだ。目の前にいる出雲を気にかけないといけないのに、すぐに隼人に心が奪われる。あの襟足に流れる後ろ髪を指で梳いて、細い首に触れたい。まだ離れたくなかった。

「あの、先生?」

 呼びかけにハッとして声の方に視線をやる。いつの間にか出雲は僕の目の前に立っていた。

「うん?」
「気がつくのが遅いです。水泡さんって何回か呼んでいたんですよ? でも先生って言ったら気がついた。ふふふ、先生。先生……」

 手元にある入浴剤の、湯の雫とパッケージに書かれた文字を撫でながら、頬を染めて柔らかく笑う。あの頃を思い出すみたいに。
 目の前にいる僕ではない僕に、先生って呼びかけている。

「勝手にお出かけしてごめんなさい。そのことでお話もあって」
「お話?」
「はい。これまで、お互い納得した上で今の生活をしていました。この……存在する単語で表すならば、軟禁とも呼べる生活を」
「うん」
「でも、もう必要ないでしょう。やめたいんです、この生活。俺不安なんです。このまま水泡さんにすべて頼って生きていくのが。だからまずはアルバイトを始めて社会復帰をしようと思いまして、今日は面接に……」
「え……? 社会復帰? 面接? して、きたの?」
「はい。さっそく月曜から出勤です」

 あまりにも急すぎて、そんなふうに思っていたことも、そんな準備をしていたことも知らなくて、言われたことが理解できても感情が追いつかない。
 だってそんな様子少しも見せていなかった。僕が仕事に行っている間だって特におかしなことはなかった、はず。
 しかし思い返して見て気がつく。
 ここ最近の出雲の様子を全く思い出せなかった。
 カメラ越しに出雲を眺めた記憶もない。
 いつもなら仕事の合間に、昼休みや喫煙室でカメラの確認をしながら、部屋の掃除をしたり、ご飯の支度をしたり、一人で楽しんでいる姿を目撃してしまったり、そんな出雲を見て癒されていた。
 けれど、ここ一ヶ月くらいの僕は。
 隼人と会う約束をして、頻繁に会って、メッセージのやり取りもして。隼人が仕事で使ってるSNSのアカウントをチェックしたり、二人でいるときに撮った写真を眺めたり。
 旅行が決まればさらにやり取りは増えたし、メッセージを交わしていない時も旅館のことや観光地を調べたりしていた。
 そんな生活をしている傍らにはいつだって出雲が用意してくれた美味しいご飯があって、整理整頓された空間があって、眠たそうな「いってらっしゃい」の優しい声があったのに。
 僕は出雲を抱いてた。けれど、隼人との約束を守るために誘いを断る日もあった。隼人を抱いた日は出雲を抱けないのだから、会う回数が増えればそういうことが増えるのは当然だ。
 目の前にいる出雲を真正面から見据える。
 いつもの笑顔だ。少し困ったみたいな、八の字の眉毛をした、可愛い笑顔。
 僕の大好きな、かわいいかわいい出雲。
 一番に、大切だった。

「せんせいっ……?!」

 目の表面が熱くなったと感じ、瞬きをした時、瞼が涙の膜を潰し、粒となって弾けた。
 驚きに出雲のいつも笑ってるようなたれ目がまん丸くなる。すぐに彼はポケットからハンカチを取り出して、濡れた頬に優しく当ててくれた。
 涙は一度弾けただけで、それ以上流れることはなかった。
 拭い、拭われながら、互いに涙の理由を聞くことも語ることもしない。
 認めたくない。 
 僕は君にもう恋をしてない、なんて。
 違う、これは恋ではないけれど、愛情は確かにある。君のことだって、愛してる。
 そんな覚悟の決まった顔をして、君はいつからそれに気がついてたの?
 僕がほんの一瞬でも君の様子を見ていれば、泣いてる姿があったの?
 いってらっしゃいの声は思い出せるのに、顔が思い出せない。
 どんな顔をしていたの?

「僕は……君を捨てることはないよ」
「そうですね。そうだと思います」
「君が出て行ってしまっても、困ったことがあったら……いつでも、戻ってきていい」
「出ていくなんて言ってませんよ? 出ていってほしいですか?」
「やだ。ちがう……」
「俺が出ていったらご飯は勝手に出てきませんし、お部屋は汚くなりますけど、貯金ができますね」
「今でも、できてる」
「出ていきませんけどね。行くとこないですし」
「行くとこ、できたら……」
「できますかねぇ」

 ハンカチが離れていって、人差し指が目尻に触れる。これで涙はなくなった。

「外に出れば……すぐ、できてしまうよ。君はとっても、かわいい。君は人に、好かれる」
「それに疲れてしまったんですけどね」

 左耳にかかる髪の毛先に触れる。そのまま指先で耳輪をなぞっていき、ピアスとピアスの間に潜むほくろを親指で撫でた。ひく、と眉が震える。
 このほくろが大好きで触りすぎてしまったから、出雲はどこも敏感だけどここは特に反応する。
 でももう。
 そのまま耳から手を離そうとする。しかし出雲は両手を重ね、逃げそうとした僕の手のひらを左頬に寄せた。そしてそっと目を閉じる。

「でももう……ただ待ってるだけは、できなくなってしまって。もしもの時は自分でどうにかできるように、そんなふうに誤魔化しながら、先生が帰ってくるの待とうかなって……ごめんなさい、先生。約束破ってしまって、ごめんなさい」

 さめざめと語り、謝る出雲を見つめ、息が詰まりそうになりながら首を横に振る。出雲は瞼を下ろしていて首を横に振ったって伝わらないのに。声がどうしても出なくて、呼吸を正す。

「こんなことしたら、先生もっと俺から離れちゃうかもしれないのに」
「どうして……? どうして、僕のこと責めないの?」

 君はなんにも悪くない。謝ることなんて何一つない。前までは怒って、泣いて、抱いてとねだって、強気に仕返しまでしていたのに。どうして。これならひどい言葉を浴びせられたり、泣き喚くのを宥める方がずっとマシだ。

「先生に……」

 そうやって僕のことなんか嫌いになってくれた方が、ずっと。
 けれど出雲の言葉は正反対なものだった。

「先生に、嫌われたくないんです」

 僕の手を握って、笑って、そんなことを言う。
 鼻を真っ赤にして、声を震わせて、眉根を切なそうに寄せて、それでも涙は流さずに、笑顔を作る。
 涙袋の浮かぶ、たれ目がかわいい。でも涙袋が少し赤みを指していて、たまらない気持ちになる。
 心臓がギュッとなって、苦しい。

 ――先生、苦しい感じを表現できますか?

 僕が僕の感情を読めない時、出雲はそう尋ねては、一緒にこれはどの感情だろうと考えてくれた。でも今君に苦しいよなんて訴えられない。当然の報い、いや、こんなんじゃ足りない。

「嫌いになんて、ならないよ」
「いいえ。嫌になります。責めたりしたら、俺が醜く罵ったりなんかしたら、もっと…………他の人が、可愛く見えてしまいます。居心地が悪くなって、離れてしまいます。前と違うの、もう俺がわがまま言ったって、もう、勝てない……」

 言い終わってすぐ、手に持っていた湯の雫を手放して、僕の胸に飛び込んできた出雲を抱き留める。塩の詰まった袋みたいな、簡素な包装の入浴剤がドサッと重い音を立てて落ちる。

「先生のこと最後まで縛るには、いい子で待っていたほうがいいでしょう? 悪あがきです」

 胸の中でくぐもったその声は、涙声で。でも決して嗚咽を漏らさず、しゃくりあげることもせず、出雲は音を立てずに静かに静かに泣いた。
 手放そうなんて、思ってなかった。
 君が離れるなら離れればいいと、君に委ねていた。
 けれどそれでは僕が隼人と離れない限りずっとこの子を苦しめることになる。
 捨てることができないからって、全ての責任を君に押付けて。

「先生、でもね、抱いてほしいの。先生、お願いします。知ってます、先生がお出かけされた日には俺を抱こうとしないの。先生、おねがい、おねがい……たったそれだけでいいから、あの人のこと裏切って」
「君は……嫌じゃないの?」
「嫌じゃないです。先生にいつだって、求められたいです」
「ん……」

 期待されてる。腕の中で震える身体を感じて吐きそうになる。抱いてやればいい。そうすれば自分のことだって誤魔化せる。いつも通り抱いてしまえば全てうやむやになる。
 抱いてやればいい。
 どうせ別の日には抱くんだ、今日抱いてやればいい。

「……できない」

 しかし気がつけば、僕は出雲の肩を掴んで、自分の身体から引き剥がしていた。
 驚きに……いや、絶望に見開いた目を直視できない。顔を逸らして、このまま廊下へ出てしまいたい。けれど、だめだ。顔を見れなくてもいい、逃げないで、ちゃんと向き合わないと。苦しい。痛い。胃がぐるぐるする。それでも。

「あの子にまで不誠実になってしまったら、僕はもう……本当に駄目な男になってしまう」
「せんせい……? なんで、だって俺には」
「約束、だから。破れない」
「約束……?」
「僕は未だに君のこと何にもわかってなかった。君に甘えて、こんなに傷つけて、傷つけているのはわかっていたけど、ここに帰ってきさえすればいいって僕は……」
「いいです! それでいいです! 帰ってきてくだされば、それでいいです。ごめんなさいワガママを言ってしまって、なんで、俺、やだ、ごめんなさい、間違えちゃったんです」

 僕の話を遮って、怯えた目をして謝罪しながら僕の腕から逃げていく手首を掴む。

「出雲っ、待っ……」
「先生、あの、向こうへ行ってください。今日は疲れてしまったので、シャワーを浴びてもう休みます。先生おねがい、一人にして。このお願いくらいは、聞いてください……」

 顔をこちらに向けることなく、俯いて、か細い声で懇願されてしまえば、僕は自分のワガママをこれ以上通すことはできなかった。できるはずもない。
 細くどこか柔らかい手首を離す。すると出雲はそのまま床にへなへなと崩れ落ちていき、ぺたりと座り込んでしまった。そうして「出てってください」と呟く。
 小さな背中。
 この場所でずっと守ってあげたかった背中。
 どうにかしてやりたい。僕がしてあげないといけない。
 しかしここで優しくしてしまうのは自己を正当化するための行為で、出雲のためにはならない。
 僕は。僕はもう、出雲のために隼人と離れようという気がないのだな。
 洗面所を出て、扉を閉めて。出雲のしゃくり上げる声が響いたが、ぐっと拳を握ってリビングへ戻る。
 煙草を吸いながら、自分勝手にもまた少し泣いた。
 出雲が可哀想だからじゃない。いや、それもあるかもしれないけれど。
 とても大事にしていた自分の感情が、既に死んでいたことにやっと気がついて、泣いた。
 出雲はいつも僕に初めての感情を教えてくれる。こんなこと知らずに死ねたはずなのに、僕は本当に馬鹿だった。





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