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闇夜の錦

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 保健室に行ったのか帰宅したのかわからないが、浅人は午後の授業中に教室に戻ってくることはなかった。
 腫れ上がった顔と折れた奥歯を思い出してもされたことを考えればやりすぎだとは思わなかった。本当は和人さんらや学校にも公にして処罰を受けてもらいたかったが、きっと玲児は人に知られたくはないだろう。
 本音では反省しているのかもしれないが、虚栄心が強すぎるあの態度は許せたものではない。あいつの言ったこと全てが思い出すだけで砂利を噛んだような嫌な気分にさせる。玲児のことをいらないなんて、そんなことあるわけがない。あるはずがないんだよ。
 後味の悪さを感じながら久々にアパートに戻り、また連絡が来てないか確認をするが着ている連絡といえば叔母さんからの誘いのみだ。一昨日、昨日と連絡を無視しているため今日だけで三件メッセージがきているが開く気にはなれなかった。
 一人で寝転ぶには広すぎるベッドに制服のまま体を投げ出すが、最近このダブルベッドが落ち着かない。実家の部屋に慣れてきたからというのもあるかもしれないが、清潔にしているはずなのに様々な体液が染み込んでいるような気がして胸焼けのような嫌な感覚がするのだ。
 結局は起き上がって、またスマートフォンを確認する。連絡がきているが気にしてばかりだ。一度こちらから連絡をしてみようか。
 しかしこちらから発信しようと操作し始めた瞬間、電話の着信画面へと切り替わり、慌ててそれに応答しスピーカーに耳をあてた。
「貴人さん、あの、玲児は……」
「もう、誰と間違えてるの。私よ」
 しかし聞こえてきたのは叔母さんの甘ったるい声だった。高い声でもったいぶったようにゆっくりと話す声は、誕生日の日に食べさせられたショートケーキを連想させる。初めて叔母さんにされた時まだ口の中に残っていたあの甘い生クリームの味。
「ずっと連絡つかないけど、どうしたの? お仕事忙しいのかしら。心配してたのよ?」
 気持ち悪くてたまらないのに。
 憎くて、幸せになったことが許せなくて、引き摺り下ろしてやろうと思ったのに、結局引き摺り下ろされているのは自分だ。
 そうやって俺の事なんか大嫌いなくせしてまるで子を心配する親みたいなふりをして話すこの人に、縋りつきたくなる。甘えたくなる。
 この人が俺に教えてくれたことなんかセックスだけなのに。
「叔母さん……会いたい 」
 また眠れないから予定より早いけれど病院に行かないと。睡眠薬を処方してもらわないと。
 その日の夕方、貴人さんから玲児が目覚めたと連絡がきていた。
 俺は叔母さんに抱き締められ覚えのない子守歌を聞きながら眠っていたため、連絡がきたことにすぐには気がつくことができなかった。


 夜に待望の連絡がきていることに気が付いて、すぐ折り返し電話を入れた。呼び出し音を聞きながら、部屋の中をうろうろと牢屋にいれられた動物みたいに歩き回ってしまう。そしてやっと出たかと話し始めれば、良い知らせのはずなのに何故か貴人さんの声は沈んでいた。不安に思ってどんな状態かを聞いても貴人さんは口を濁すだけだった。
「とりあえず身体は問題なさそうだ。寝ているうちに抜けたから心配してた離脱症状も出てねぇ」
「よかった……」
 それを聞いて全身の力が抜けてドサッと崩れ落ちるようにベッドへ腰を下ろした。
 ああ、よかった。本当によかった。
 なんだ、俺、大丈夫じゃないか。ちゃんと玲児の目が覚めて安心している。汚されてしまったなら玲児の目がいっそ覚めなければいいなんて、気が動転した故の戯言だったのだ。
 二重に安心して深く息をついた。目尻に涙まで滲んで、それを手首の裏で拭う。
「まだ入院するんですか?」
「元気な人間置いとくわけねぇだろ。すぐ家に戻る」
「じゃあ会いに行きます」
「いやだめだ」
 きっぱりと断られ、一瞬言葉を失う。しかしすぐにハッとしてその理由を問い詰めた。
「なんでですか。こうして連絡くれてるのに、会わせるつもりなかったんですか」
「何も知らないんじゃさすがに哀れだと思っただけだ。お前には会わせられない」
「ふざけんなよ!」
 自分の弟のしたこと分かってんのかよ偉そうに、と喉まで出かかるが何とか飲み込む。 
 浅人に襲われてからも貴人さんと関わっていた様子からして、玲児は浅人のことと貴人さんのことは分けて考えているのだろう。それを俺が突っ込むべきではない。他から何も連絡がないのを考えたって、こうして状況を知らせてくれるだけ助かっているのだ。
「すみません」
「かまわねぇよ。そりゃ腹立つだろうさ」
 謝れば、ふんと鼻で笑いながら返してくれた。
「でも、玲児には会いに行きます。門前払いくらったって家に行きますし、連絡だって本人にします。学校に出てくれば絶対に会えるし……」
 できればその前に会いたいけれど。
 しかし貴人さんはそれに対して何も言わなかった。沈黙の後、そうか、とだけ呟いて電話を切ったのだ。
 すぐに会えると思った。
 しかし家に行っても対応すらされず、玲児に連絡を入れてみても何も返事はこないし読まれてすらいないようだった。麗奈に聞いても玉貴ちゃんが何も話してくれないと言われ、学校に来ることもなかった。
 玲児が来ないまま、二年生が終わってしまった。
 三年生では成績毎にクラスが分けられてしまうため玲児とは同じクラスになることはないだろう。
 予約を何度かすっぽかして先日やっと病院に行くことができた。俺を見た進藤先生は眉を下げて困ったように笑い、よくなさそうだね、と言った。無事に睡眠薬を変えてもらったが、今回のは少し倦怠感が出る。相談して調整していかないといけない。
 仕事では和人さんはチーフマネージャーという位置付けになり、現場を回るアシスタントマネージャーに別の人をつけてもらった。愛想がなく小柄できっちりとした真面目くんを絵に書いたような人だ。俺の好みでは全くない人をつけるあたり和人さんだなと思った。この間またCMの撮影をしたし、仕事は順調だと言えるだろう。
 時間はしっかり流れているのに、玲児に会えない。
 アパートはまだ引き払っていないが、ほとんどの日を実家で過ごし、学校へ行く時には玲児の家の前を通る。玲児の部屋の電気は点いていないことが多かったが、明るい日もあった。だからきっとそこにいるのだろう。
 こんなに近くにいるのに、と玄関のチャイムを鳴らすこともあったが、誰も出てはくれなかった。
 もう春休みが始まったので、家の前を通る機会も減る。
 学校がないおかげで時間に余裕ができて気持ちが急いできた頃、日中に一人で実家にいると貴人さんから着信があった。天からの啓示を受けるような気持ちでそれに飛びつく。
「暇か?」
「暇です! なんですか? 玲児になんかあったとか? 会っていいんですか?」
「食い付きが凄ぇな」
 受話器越しに苦笑いが聞こえるが、かっこつけてなんかいられない。
 正直会うのが怖い部分もあるが、とにかく会わないとはじまらない。
「お前、自分の家にいるのか? 玲児ん家に近かったな? 今から行けるか」
「行きます!」
 思わず立ち上がりながら返事をすれば、今度は苦笑いではなく普通に笑われた。なんだよ、どっかで見てんのかよと窓の外を確認するがもちろん誰もいない。なんだかバツが悪くなり大人しくもう一度座って確認した。
「玲児に会えるってことですよね?」
「多分な。玲児の父親が出迎えるだろうからちゃんと挨拶しろよ」
「は?! え、玲児の親父さん? なんでいきなり」
 思いもしない返答に間抜けな声が出てしまった。
 てっきり貴人さんがいるのかと思っていいたのに。そうでなくても玉貴ちゃんとか……いきなり親父さんって。殴られに来いとかそういうことなのか?
 先日自分が浅人にしたことを思い出して無意識に左頬をさすった。明日撮影あるんだよな。
「家に呼べって連絡もらってこうして電話してやってんだよ。ほら、秀隆さん待たせるんじゃねぇ、早く行け」
「え、ちょっと貴人さん、もう少し説明……!」
 必死の思いで呼びかけるがとっくに電話は切れていた。もう一度電話をしてみるが通話中で、これはもう玲児の親父さんに俺が行くって伝えられているなと察した。
 それならばもう観念してなるべく待たせないように急いで向かうしかない。
 ラフな格好をしていたので着替えようと思ったが、服の手持ちがあまりなく考えた末にノーカラーのワイシャツにタイトな黒いジーンズに着替え、洗面所で顔を洗った。いつも顔にかかっている前髪もワックスで少し後ろに流す。玲児と出かける時も身だしなみに気をつけていたがいつも以上に入念になるな。
 鏡を確認し、一人頷く。
 殴られるならそれで構わない。顔はやめてくださいとか言いたくねぇな。潔く行こう。とにかく玲児会えるんだ……よな?
 もうこれ以上ないほど緊張して今まで何度も押した瑞生家の玄関のチャイムを鳴らす。待っている間も心臓が口からとび出そうという感覚を嫌という程味わった。玲児と久しぶりに会えるというだけで緊張するというのに。
 物音がして玄関の扉が開く。
 一瞬、玲児が出迎えてくれたのかと思った。
 玲児のこといつもいつも見ていた俺がそう見間違うほど、玲児と同じ顔をしているのだ。
 しかし眉間にシワは寄っておらず、色も白くない。体つきも玲児よりもがっしりとしていて背も高い。よく見れば顔は複製したようによく似ているが他の部分がだいぶ異なっていた。それでも玲児の親父さんというにはあまりに若く、加賀見とそう変わらないのではと思われる雰囲気に驚きが隠せない。
「君が大鳥隼人くんか」
 ああ、声もまさにそのままじゃないか。
 本人ではなくても久しぶりに聞くその声に胸の奥が熱くなり、込み上げてくる感情をごくりと喉を鳴らしながら押し込んだ。
 返事の中々できないでいる俺を不思議そうに首を傾げて上目遣いに見つめてくる姿に、慌てて頭を深々と下げる。腰が九十度に曲がっていたかも。
「はい。貴人さんから連絡頂いて来ました。大鳥隼人です。息子さんとは……」
 顔を上げ自己紹介を始めるが、そこで言い淀んでしまった。普通に友達と言えば良かったのだろうが、事情を知っていたら返って白々しいだろうか。
「とりあえず中へ入るといい」
 親父さんは少し自己紹介の続きを待ってくれていたようだったが、俺を見て中へ招いてくれた。お邪魔します、と会釈をしてついて行くと、リビングのソファに座るよう促された。
「来てもらってすまないが、ついさっき玲児は眠ってしまってな。緑茶は飲めるか」
「あ、はい」
 あまり表情に変化のない人のようだが、静かに微笑んでキッチンに消えていく背中を目で追う。
 これはもしかして思ったよりずっと友好的なのでは。少なくとも殴られる雰囲気ではなかった。それにしても玲児の親父さんめちゃくちゃいい男だな。シンプルな黒いカットソーから伸びる首筋や憂いのある表情がやたらと色っぽい。
 カウンター越しにちらと様子を伺えば、お湯を沸かしながら顎と肩でスマートフォンを挟み、誰かに電話を掛けているようだった。
「北野か? 今うちに誰がいると思う? 大鳥隼人だぞ。ほら、あのサイダーか何かのCMに出ているだろう。芸能人がうちのソファに座っているぞ、凄いだろう」
 聞こえてきた電話の内容にキッチンを三度見くらいしてしまった。え、俺の話してるよな? しかもびっくりするくらいミーハーな内容なんだけども。
「ああ、背が高くて人形みたいな顔をしている。殴ってうちの子はやらんとやってみたかったが、あの顔は殴れんな」
 殴る予定だったのか……。
 聞き耳を立てるのも悪いと思うが、こうも話題にあげられては聞かずにもいられない。
 しかしその後は仕事の話をしているようで俺の話題が出ることはなかった。電話を切ってすぐにお盆に湯呑みを二つ乗せて戻ってきた親父さんに、同僚に自慢したいから一緒に写真を撮ってくれと頼まれ流されるままに写真を撮る。
「む、これでいいな。さて、一息ついたら玲児を起こしに行こう」
「え、いいですよ。もう少し寝かせてあげてからでも……」
「いや、あの子のために呼んだんだ。会わせないとしょうがないだろう」
 むって言っているのに意味もなく感動しながら恐縮するが、親父さんは少し湯のみに口をつけたら二階へ行くぞと立ち上がった。
 いざ玲児に会うとなると、緊張のあまりに冷や汗が頬を伝った。後ろに続いて一段一段階段を上る足が重い。
 玲児の部屋の前まで来てドアノブに手をかけると、そこで一度親父さんは動きを止めた。俺を振り返り見上げ、じっとこの目を見据える。
「あの子が何を言ってもとりあえず話を合わせてやってくれ」
「え? どういうことですか?」
「それが約束できないなら、会わせることはできない」
 同意する以外の反応を求められていないことがわかり、ただ黙って頷いた。すると微笑んで頷き返し、扉を開ける。
 そこには一ヶ月以上ぶりに見る玲児の姿があった。
 ベットに横向きに寝転び、よく眠っている。
「玲児。隼人くんが来てくれたぞ。会いたがっていただろう」
 近ずいて、そっと体を揺する背中を見守る。部屋の中に進んでいくと、何か蹴飛ばしたことに気がつきそれを拾い、確認した。
 白雪姫。
 愛らしい少女が小人に囲まれて眠っている姿が描かれた絵本だった。
「ほら、隼人くん。君もこちらに来てくれ」
「あ、わかりました」
 絵本を手にしたままベッドに近づくと、玲児と目が合った。いつもの力強さのない瞳が俺をとらえ、ぱっと花が開くように、本当に嬉しそうに笑った。
「はやと。はやとなのか」
「玲児……そうだよ、会いに来た」
「抱っこをしてくれ」
 無邪気にお願いごとをするその顔に眉間のシワはなく、起き上がってめいっぱいこちらに両手を伸ばしてくる。親父さんへ目を向ければ、言う通りにしてやってくれと頷くのでそのまま力強く抱きしめた。
 腕の中の玲児は最後に抱きしめた時よりもずっと肉付きがよく抱きごたえがあった。抱きしめていても骨を感じないことに涙が滲む。
 ちゃんと飯食えてるんだ。良かった。本当に良かった。
「玲児……会いたかった、ずっと、会いたかった。すっごい心配したんだからな」
「泣いてるのか?」
 玲児の肩に顔を埋め、涙を堪えていると肩も声も震えた。玲児はいいこいいこと言いながらと俺の頭を撫でる。
「む、白雪姫ではないか」
 玲児を抱きしめるためにベッドの上に置いた絵本を指差すので、鼻を啜りながら玲児の身体から離れてそれを手渡す。
 そわそわと嬉しそうに受け取るその姿はまるっきり小さな子供のようだった。そしてそれを俺に差し出す。
「読んでくれ」
 一瞬戸惑い、身を固くしてしまったが、扉の前でした約束を思い出した。
 絵本を受け取り、笑って頷くと堪えきれなかった涙が何粒か絵本に落ちた。震える声のトーンをなんとか上げて、ごめん汚した、と謝って袖で雫を拭く。玲児は不思議そうに首を傾げながらまた頭を撫でてくれた。
「しらゆきひめ、知っているか?」
 聞かれ、目を擦りながら首を横に振った。聞いたことはあるが話はちゃんとはわからない。
「むぅ……読んでやりたいが、じょうずにできないのだ。どうしよう」
 唇を尖らせて背を丸める姿を見て、大きく深呼吸した。そして玲児の隣に腰かけ絵本のページを開く。
「俺も上手じゃないんだけど、いい?」
「む! 大丈夫だ」
 元気のいい返事に笑みが漏れる。
 こんなに屈託なく笑う玲児の顔を見たのはいつぶりだろうかと考えながら、むかしむかしあるところにと、玲児一緒に物語を紡ぎ始めた。
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