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闇夜の錦
②
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配られた問題用紙に目を通す。もう試験も最終日となる。眠れなかった分で確保した勉強時間のおかげか、今回の試験では全く理解できてないなと思うような問題にはぶち当たっていない(普段はそれなりの数で全く理解してない問題があるわけだ)。
しかし計算しているとあたまの回転が鈍いことを痛感する。わかってはいるのに一問一問に時間をとってしまい、全部解き終わるだろうかと心配になる。
心配になる? 試験の結果なんてどうでもいいくせに。
高校に通わせてもらっている以上、できる限りをしなくてはと思っていたが、もうどうでもよかった。この高校に来た理由だって玲児がいるからだ。
そもそも真面目に高校を出て大学に行ったところで俺はどうなるのだう。仕事だって好きでやってるわけではない。単なる食い扶持だ。生活費はもらっているのだからそれだって本当は必要ない。お世話になっている篤志さん夫婦には申し訳ない。無駄な金や労力を使わせてしまっている。しかも端た物ではない。
玲児が登校しているかは、確認していない。出席番号が遠いので座席が全く視界に入らないのをいいことに目も向けていない。
玲児を諦めた自分に安眠する機会はないだろうと思う。よく今まで生きてきた。これからはどうやって生きていこう。この途方もなく長い時間をどうやって生きていけばいいのだろう。
試験が終わり、活気づいた廊下を歩く。今日からもう部活動が再開されるのだろう、急ぎ足の生徒や集団でじゃれ合う姿が目立つ。こういう日には本当はさっさと帰りたい。浮かれている同級生たちはやたらと「はやとくーん!」なんて言って手を振ってくる。適当に相槌したり手を振り返してやるだけだが、律儀に一人一人に返している自分が笑えた。
保健室の扉を開けて、最近やたらとぶつけている頭に気をつけて潜って中へ入る。保健教諭の加賀見は何かパソコンに打ち込んでいた手を止めてこちらを一瞥するが、俺の顔を見ると無言でそのまま目線を画面に戻した。
「なんだ、出雲いねぇじゃん」
ガランとした保健室を見回しソファに座る。
「あいつ最近どうしてる?」
背中に問いかけるが返事はない。いつもであれば無口なものの何かしらリアクションはしてくる。もう一度、なぁ、と声をかけても返事がないので舌打ちをして立ち上がろうとすると、やっと加賀見はこちらを向いた。
「そんな質問に答えるほど……無駄なエネルギー、僕にはない」
「はぁ? なんだよそれ。どうしてるかくらい教えろよ。ここに来ることあるんだろ?」
「来るね」
「じゃあ教えろよ。なんなら今ここに呼びつけろよ」
苛立ちに語気を強くして訴えるが、こいつは動じない。わかっているそういうのが通じる相手ではない。加賀見は静かな目をしてじっとこちらを見つめているだけだ。
「顔色が……悪い。隈がひどい」
「んなことはわかってるんだよ、くそ」
あーイラつく。わかってる、わかってるに決まってるだろ。寝てねぇんだよ。
和人さんと一緒に過ごした日にやっと三時間眠った。そしてまたうつらうつらとするのを繰り返す夜を過ごしている。普段なら相手を探すが女を見繕う気が全くしない。街へ出てみても虚しいのだ。
「別にいいよ、自分で連絡するから。じゃあな」
今度こそ立ち上がりその場から去ろうとすると、加賀見もデスクから立ち上がった。普段自分と対等な背丈の人間に会うことがあまりないからか威圧感を強く感じる。
「あの子のことは、ほっといてほしい」
「お前に関係ないだろ。今の俺にはあいつが必要なんだよ」
もう何にもない。何にもないから誰かにそばにいてほしいが、浅人は去ってしまった。
出雲なら絶対に今からでも俺を受け入れるのはわかっている。あいつは何をしても俺を許すし、俺に都合の悪いことは聞かないし、しないし、無償の愛をずっとずっと与えてくれるので居心地がいい。わがまま放題に甘やかしてくれるので安心する。
「は。今更」
しかしそんな俺を加賀見は鼻で笑った。いつも飄々としているのでそんな意地の悪い顔をするのかと驚くが、自分が思っていたよりこの男が出雲に本気なのだと悟る。
「ずっとまともに寝れねぇんだよ。出雲がいればまだ眠れるんだ。あいつといた時は寝れてたんだ。だからあいつが必要なんだよ……!」
こんなこと言ってこいつが納得するわけはないが少しでも自分を正当化したかった。加賀見はやはり俺を見る。よく観察している。やめろよ、見るな。俺を見るな。
「君は捨てた……だから、あの子は僕が拾った。勝手すぎる。君に……なんの権利が、ある?」
「お前だって同じだろうが。権利とかそんなんじゃねぇよ、第一出雲がまた俺のところに来るか決めればいい、お前には関係ねぇんだよ」
「そんな判断力、あの子にはない」
むかつく、とぽつりと呟いた加賀見は机に腰をかけ、白衣のポケットから黒く長細い器具と小さな箱を取りだした。箱の中身を器具にセットして電源を入れ、深いため息とともにそれを銜えた。こいつ保健室で電子タバコかよ。
「そんなに、眠れなくて辛いなら……自分でどうにかしたほうがいい。確かに、君の顔色は最悪」
ふっと吐き出す煙はすぐに消えた。続けてまたすぐに吸いながら色違いの同じ器具を取り出していじくってる。
「この学校には、スクールカウンセラーの先生も来てる……心療内科も紹介できる」
「心療内科? 」
ふざけている。そんなものに世話になってどうするんだ。やすやす睡眠薬などくれるわけでもないのだろう。叔母に虐待されてたせいで眠れませんって説明しろと? 叔母とセックスしていたせいで誰かとセックスしないと何故だか落ち着いて眠れませんって?
ふざけるな。ふざけるなよ。
「ふざけんな、そんなもんの世話になるわけねぇだろ。俺の事なんだと思ってるんだよ」
「きみのこと?」
歯を食いしばって睨みつける俺に歩み寄ってきた加賀見に、いきなり頭を掴まれた。何かと抵抗したらすぐに離されたが、掴まれた時の指の力が強くてふざけてやっているわけではないのが伝わった。
「君は……弱い子を見つけ、付け入るのがやたらと上手い。嗅覚がいい。君のために何人、傷ついてる?」
電子タバコを咥えながら、加賀見ははまた鼻を鳴らして笑う。口の端を歪めて、嫌味な笑い方をする。
「君自身は……体と、態度がでかいだけの…………ただの、子供だよ」
僕も大人気ないね、と続けた言葉は耳に上手く入らなかった。
弱い子。出雲? 浅人か? 玲児も?
きっと加賀見の言っていることは正しい。正しいから目眩がした。自分に心酔する相手を無意識下に選んでいる可能性に否定ができない。叔母さんの家から出た時に嗅ぎ分ける方法は理解した。隙のある人間。ない人間。それを実際に利用していたから。汚い奴だ。なんでこんなに汚いのだろう。
最初に玲児に惹かれたのはそんなに醜い感情だったのか。
これ以上なにか言われるのが怖く、もう目の前の男の顔を見るのすら怖く、何も言い返せず踵を返して扉へ歩き出した。ちゃんと真っ直ぐ歩けているか? 脳震盪を起こしたように視界がぐらぐらとする。
ふらりと扉に手を伸ばすと、それよりも先に誰かが扉を開けた。
金色の髪が視界に飛び込む。
突然目の前に現れた浅人に気まずさを覚えるが、向こうは上目にちらりと見ただけで俺を無視して体を避け、中へずんずん進んでいく。
「ちょっと、先生。さすがに保健室でタバコはだめだよ。なにやってんの」
「うん」
「しかもなんで二つ持ってるの?」
「二つないと、続けて吸えない……」
「うわぁ、だめだめじゃん……」
浅人は目を細めて軽蔑の眼差しを加賀見にやると、こちらに視線を向けてまだいるのと言いたげに顔を顰めた。しかし言葉にはせず、またすぐ加賀見に向き直る。
「ねぇ、玲児ここでテストしたんでしょ。様子はどうだったの?」
「ん……? 煙草臭くて集中できん、て怒られた……」
「じゃあ少しは元気ってこと?」
「少しはね」
「そっか」
悪くない返答に、浅人は微笑んでほっとため息をついた。
「先生、玲児に僕が体調のこと聞いたりしたって言わないでよ」
加賀見が頷くのだけ確認し、浅人はすぐにまた扉へ向かって歩いてきた。しかしそこにまだ突っ立っている俺を見て、何、と愛想ない声を出す。
「いや……玲児ここでテスト受けてたのか」
「何言ってんだよ。教室にいなかったでしょ?」
「見てない」
「ふーん。じゃあ別にどうでもいいじゃん。どいて」
冷たくあしらわれるがそのしっかりとした足取りに引かれ、続いて保健室を出た。どちらにせよお互い帰宅部だ、二歩くらいの距離をあけて揃って下駄箱に行き、校門へと向かう。
その途中、振り向きもしないで浅人に声をかけられた。
「ついてこないでよ」
「方向が一緒なんだよ」
わざとらしい大袈裟なため息のあと、肩越しに顔を向けた浅人は俺の顔を一度見て、目を伏せた。何か言いたげに唇がわずかに動くが、また前を向いてしまう。
何か伝えたいことがあるなら聞きたかった。もう終わったことだとは理解しているが煮え切らないことがたくさんある。
しかし名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、呼び止められる。校門を出てすぐだった。
はやとくん。
聞き覚えのある声だった。
忘れるはずのない声だった。
絶対に絶対に振り返りたくないのに、振り返るしかない。
学生服に身を包んだ生徒たちが帰路に着く中、明らかに違和感のある存在がそこにいた。
赤ん坊を抱いた女がいる。
もういい歳だろうに薄いピンク色のコートを着て、笑ってる。笑うと頬がふくらむ。その下にえくぼがある。
なんでお前がそこにいるんだよ。
なんで今更俺の前に現れるんだよ?!
はやとくん。
もう一度呼ばれるが言葉が出ない。あまりの衝撃に目眩も動悸もない。何もない。何も聞こえない。何か話しているか、よくわからない。
赤ん坊を凝視した。こちらを見て笑ってる。
家を出ていくときにこの女がした狂言を思い出して血の気が引いていき、止まっていた全ての音が、情報が、雪崩のように体に流れ込んでくる。痛い、血管が破裂しそうだ。
隼人くんの子供を妊娠している。
嘘だ。
狂言だ。
そんなわけがない。
叔母さんはピルを飲んでいた……いや、そもそも俺の子供だとしたら赤ん坊という年齢ではないはずだ。
明らかに混乱している。冷静になれ、冷静になれ、冷静になれ……
叔母さんは笑って赤ん坊を抱いたまま駆け寄ってくる。
麗奈におばさんが会いたがっていると聞いた時にどの面下げてと思った。
なんで笑ってんだこいつ。
しかし計算しているとあたまの回転が鈍いことを痛感する。わかってはいるのに一問一問に時間をとってしまい、全部解き終わるだろうかと心配になる。
心配になる? 試験の結果なんてどうでもいいくせに。
高校に通わせてもらっている以上、できる限りをしなくてはと思っていたが、もうどうでもよかった。この高校に来た理由だって玲児がいるからだ。
そもそも真面目に高校を出て大学に行ったところで俺はどうなるのだう。仕事だって好きでやってるわけではない。単なる食い扶持だ。生活費はもらっているのだからそれだって本当は必要ない。お世話になっている篤志さん夫婦には申し訳ない。無駄な金や労力を使わせてしまっている。しかも端た物ではない。
玲児が登校しているかは、確認していない。出席番号が遠いので座席が全く視界に入らないのをいいことに目も向けていない。
玲児を諦めた自分に安眠する機会はないだろうと思う。よく今まで生きてきた。これからはどうやって生きていこう。この途方もなく長い時間をどうやって生きていけばいいのだろう。
試験が終わり、活気づいた廊下を歩く。今日からもう部活動が再開されるのだろう、急ぎ足の生徒や集団でじゃれ合う姿が目立つ。こういう日には本当はさっさと帰りたい。浮かれている同級生たちはやたらと「はやとくーん!」なんて言って手を振ってくる。適当に相槌したり手を振り返してやるだけだが、律儀に一人一人に返している自分が笑えた。
保健室の扉を開けて、最近やたらとぶつけている頭に気をつけて潜って中へ入る。保健教諭の加賀見は何かパソコンに打ち込んでいた手を止めてこちらを一瞥するが、俺の顔を見ると無言でそのまま目線を画面に戻した。
「なんだ、出雲いねぇじゃん」
ガランとした保健室を見回しソファに座る。
「あいつ最近どうしてる?」
背中に問いかけるが返事はない。いつもであれば無口なものの何かしらリアクションはしてくる。もう一度、なぁ、と声をかけても返事がないので舌打ちをして立ち上がろうとすると、やっと加賀見はこちらを向いた。
「そんな質問に答えるほど……無駄なエネルギー、僕にはない」
「はぁ? なんだよそれ。どうしてるかくらい教えろよ。ここに来ることあるんだろ?」
「来るね」
「じゃあ教えろよ。なんなら今ここに呼びつけろよ」
苛立ちに語気を強くして訴えるが、こいつは動じない。わかっているそういうのが通じる相手ではない。加賀見は静かな目をしてじっとこちらを見つめているだけだ。
「顔色が……悪い。隈がひどい」
「んなことはわかってるんだよ、くそ」
あーイラつく。わかってる、わかってるに決まってるだろ。寝てねぇんだよ。
和人さんと一緒に過ごした日にやっと三時間眠った。そしてまたうつらうつらとするのを繰り返す夜を過ごしている。普段なら相手を探すが女を見繕う気が全くしない。街へ出てみても虚しいのだ。
「別にいいよ、自分で連絡するから。じゃあな」
今度こそ立ち上がりその場から去ろうとすると、加賀見もデスクから立ち上がった。普段自分と対等な背丈の人間に会うことがあまりないからか威圧感を強く感じる。
「あの子のことは、ほっといてほしい」
「お前に関係ないだろ。今の俺にはあいつが必要なんだよ」
もう何にもない。何にもないから誰かにそばにいてほしいが、浅人は去ってしまった。
出雲なら絶対に今からでも俺を受け入れるのはわかっている。あいつは何をしても俺を許すし、俺に都合の悪いことは聞かないし、しないし、無償の愛をずっとずっと与えてくれるので居心地がいい。わがまま放題に甘やかしてくれるので安心する。
「は。今更」
しかしそんな俺を加賀見は鼻で笑った。いつも飄々としているのでそんな意地の悪い顔をするのかと驚くが、自分が思っていたよりこの男が出雲に本気なのだと悟る。
「ずっとまともに寝れねぇんだよ。出雲がいればまだ眠れるんだ。あいつといた時は寝れてたんだ。だからあいつが必要なんだよ……!」
こんなこと言ってこいつが納得するわけはないが少しでも自分を正当化したかった。加賀見はやはり俺を見る。よく観察している。やめろよ、見るな。俺を見るな。
「君は捨てた……だから、あの子は僕が拾った。勝手すぎる。君に……なんの権利が、ある?」
「お前だって同じだろうが。権利とかそんなんじゃねぇよ、第一出雲がまた俺のところに来るか決めればいい、お前には関係ねぇんだよ」
「そんな判断力、あの子にはない」
むかつく、とぽつりと呟いた加賀見は机に腰をかけ、白衣のポケットから黒く長細い器具と小さな箱を取りだした。箱の中身を器具にセットして電源を入れ、深いため息とともにそれを銜えた。こいつ保健室で電子タバコかよ。
「そんなに、眠れなくて辛いなら……自分でどうにかしたほうがいい。確かに、君の顔色は最悪」
ふっと吐き出す煙はすぐに消えた。続けてまたすぐに吸いながら色違いの同じ器具を取り出していじくってる。
「この学校には、スクールカウンセラーの先生も来てる……心療内科も紹介できる」
「心療内科? 」
ふざけている。そんなものに世話になってどうするんだ。やすやす睡眠薬などくれるわけでもないのだろう。叔母に虐待されてたせいで眠れませんって説明しろと? 叔母とセックスしていたせいで誰かとセックスしないと何故だか落ち着いて眠れませんって?
ふざけるな。ふざけるなよ。
「ふざけんな、そんなもんの世話になるわけねぇだろ。俺の事なんだと思ってるんだよ」
「きみのこと?」
歯を食いしばって睨みつける俺に歩み寄ってきた加賀見に、いきなり頭を掴まれた。何かと抵抗したらすぐに離されたが、掴まれた時の指の力が強くてふざけてやっているわけではないのが伝わった。
「君は……弱い子を見つけ、付け入るのがやたらと上手い。嗅覚がいい。君のために何人、傷ついてる?」
電子タバコを咥えながら、加賀見ははまた鼻を鳴らして笑う。口の端を歪めて、嫌味な笑い方をする。
「君自身は……体と、態度がでかいだけの…………ただの、子供だよ」
僕も大人気ないね、と続けた言葉は耳に上手く入らなかった。
弱い子。出雲? 浅人か? 玲児も?
きっと加賀見の言っていることは正しい。正しいから目眩がした。自分に心酔する相手を無意識下に選んでいる可能性に否定ができない。叔母さんの家から出た時に嗅ぎ分ける方法は理解した。隙のある人間。ない人間。それを実際に利用していたから。汚い奴だ。なんでこんなに汚いのだろう。
最初に玲児に惹かれたのはそんなに醜い感情だったのか。
これ以上なにか言われるのが怖く、もう目の前の男の顔を見るのすら怖く、何も言い返せず踵を返して扉へ歩き出した。ちゃんと真っ直ぐ歩けているか? 脳震盪を起こしたように視界がぐらぐらとする。
ふらりと扉に手を伸ばすと、それよりも先に誰かが扉を開けた。
金色の髪が視界に飛び込む。
突然目の前に現れた浅人に気まずさを覚えるが、向こうは上目にちらりと見ただけで俺を無視して体を避け、中へずんずん進んでいく。
「ちょっと、先生。さすがに保健室でタバコはだめだよ。なにやってんの」
「うん」
「しかもなんで二つ持ってるの?」
「二つないと、続けて吸えない……」
「うわぁ、だめだめじゃん……」
浅人は目を細めて軽蔑の眼差しを加賀見にやると、こちらに視線を向けてまだいるのと言いたげに顔を顰めた。しかし言葉にはせず、またすぐ加賀見に向き直る。
「ねぇ、玲児ここでテストしたんでしょ。様子はどうだったの?」
「ん……? 煙草臭くて集中できん、て怒られた……」
「じゃあ少しは元気ってこと?」
「少しはね」
「そっか」
悪くない返答に、浅人は微笑んでほっとため息をついた。
「先生、玲児に僕が体調のこと聞いたりしたって言わないでよ」
加賀見が頷くのだけ確認し、浅人はすぐにまた扉へ向かって歩いてきた。しかしそこにまだ突っ立っている俺を見て、何、と愛想ない声を出す。
「いや……玲児ここでテスト受けてたのか」
「何言ってんだよ。教室にいなかったでしょ?」
「見てない」
「ふーん。じゃあ別にどうでもいいじゃん。どいて」
冷たくあしらわれるがそのしっかりとした足取りに引かれ、続いて保健室を出た。どちらにせよお互い帰宅部だ、二歩くらいの距離をあけて揃って下駄箱に行き、校門へと向かう。
その途中、振り向きもしないで浅人に声をかけられた。
「ついてこないでよ」
「方向が一緒なんだよ」
わざとらしい大袈裟なため息のあと、肩越しに顔を向けた浅人は俺の顔を一度見て、目を伏せた。何か言いたげに唇がわずかに動くが、また前を向いてしまう。
何か伝えたいことがあるなら聞きたかった。もう終わったことだとは理解しているが煮え切らないことがたくさんある。
しかし名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、呼び止められる。校門を出てすぐだった。
はやとくん。
聞き覚えのある声だった。
忘れるはずのない声だった。
絶対に絶対に振り返りたくないのに、振り返るしかない。
学生服に身を包んだ生徒たちが帰路に着く中、明らかに違和感のある存在がそこにいた。
赤ん坊を抱いた女がいる。
もういい歳だろうに薄いピンク色のコートを着て、笑ってる。笑うと頬がふくらむ。その下にえくぼがある。
なんでお前がそこにいるんだよ。
なんで今更俺の前に現れるんだよ?!
はやとくん。
もう一度呼ばれるが言葉が出ない。あまりの衝撃に目眩も動悸もない。何もない。何も聞こえない。何か話しているか、よくわからない。
赤ん坊を凝視した。こちらを見て笑ってる。
家を出ていくときにこの女がした狂言を思い出して血の気が引いていき、止まっていた全ての音が、情報が、雪崩のように体に流れ込んでくる。痛い、血管が破裂しそうだ。
隼人くんの子供を妊娠している。
嘘だ。
狂言だ。
そんなわけがない。
叔母さんはピルを飲んでいた……いや、そもそも俺の子供だとしたら赤ん坊という年齢ではないはずだ。
明らかに混乱している。冷静になれ、冷静になれ、冷静になれ……
叔母さんは笑って赤ん坊を抱いたまま駆け寄ってくる。
麗奈におばさんが会いたがっていると聞いた時にどの面下げてと思った。
なんで笑ってんだこいつ。
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