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闇夜の錦

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 体力の限界がきてベッドに潜った。まだ二十時だが酷い頭痛と地に足がついていないような感覚に酔って、瞼を閉じる。
 意識が途切れる。覚醒する。
 時計の針を確認すれば、ベッドへ入ってから十五分ほどしか経っていない。
 ここ数日、夜はずっとこの繰り返しだ。諦めて起きて時間を潰しては限界がきてベッドへ。そして覚醒。おかげで試験勉強の時間は取れているが身についているかどうかはわからない。
 目頭も後頭部もズキズキと痛みが走る。どうしたら眠れるのだろう。皆はどうやって眠るのだろう。
 そういえば眠れるかと思って酒を買ってみたのだったと思い出す。よく駅などで酔って寝こけている人を見るし、昔世話になった女の人にも酔っ払いが何人かいた。
 ベッドから体を、そして足を引き摺り出し、ふらふらとキッチンへ向かう。しかし廊下へ出るところで久しぶりに鴨居に頭をぶつけ、もう何もかも嫌んなって冷蔵庫まで辿り着く前にしゃがみ込んだ。
 痛ってぇ。ただでさえ頭痛が酷いのに。
 前に「何故、引越す際に高さを確認しないのだ」と言われたことを思い出す。うるせぇよ。高さが合うとこなんかねぇんだよ。クソ。
 立ち上がらずにそのまま下半身をずるずると引き摺りながら移動して、やっとのことで冷蔵庫の扉を開け缶ビールを手に取った。プルタブを上げて一気に半分ほど流し込む。炭酸が喉にビリビリくる。アルコールよりもそちらの刺激の方が今の自分には辛かった。
 缶ビール片手に廊下に座ってため息を吐く。何のためにここまでしんどい思いをして日々をこなしているのだろう。
 しかしそれを考え始める前にピンポーンと呑気なチャイムが鳴った。それすら頭に響く。特に返事もしないでいたら、聞きなれた声が呼びかけてきた。
「隼人くん、いる? 明日仕事なのに連絡取れないからきたんだけど生きてる?」
 和人さんの声をゆっくり頭に入れながらそういえばそんな連絡きてたな、と思い出す。そして、生きてる、とだけ扉の向こうへ返した。
「なら良かったけど。ちょっと開けろよ? ちゃーんと顔見せて」
 トントントン。ノックがうるさい。
「やだよ、開けねぇ。やなこった」
「はぁー? 和人さんがわざわざ来たんだけど」
 トントントントントン。
 本気で勘弁してほしい。キッチンの作業台に掴まり、重たい体をなんとか立たせて玄関へ向かい、鍵を開けた。するとこちらがドアノブを回すよりも先に外側から扉が開けられる。
 和人さんは人の顔を見るなり、うわ、と言いやがった。
「ひっどい顔! 明日撮影なんだけど!」
「メイクさんがなんとかしてくれるだろ」
「限度ってものがあるだろ。え、ちょっと! 未成年が何飲んでんの?」
 手に持っている缶ビールにすぐ反応されて舌打ちをすると、舌打ちするのやめろとまた怒られる。うざいな。保護者かよ。
「隼人くんは女癖は悪いけどそれ以外は真面目だと思ってたのに。まぁ女癖が酷すぎてプラマイゼロにもならないんだけど。マイナスなんだけど」
「あーもーうるっせぇなぁ」
 また缶を煽るが、下ろした直後に奪われた。取られたものをわざわざ取り返すほどの執着はなく、部屋に戻ろうとしたらまた鴨居に頭をぶつける。マジで最悪だ。後ろで和人さんが笑いこらえてるの聞こえるし。
「ちょっ……酔ってるの? 腫れたら困るから気をつけてよ」
「笑いながら言うなよ。もう少し心配しろよ」
「ごめんごめん」
 まだ笑ってる和人さんを横目で睨み、ベッドに転がる。和人さんはベット横にあるクッションに座ってテーブルに缶ビールを置いた。そしてそこに置かれたままのキーホルダーも何もついてない鍵を手に取る。
「隼人くん、家の鍵そのまま持ち歩いてるの? なくすよ?」
「浅人が置いてったんだよ」
「あぁ。フラれたんだろー?」
 舌打ちすると、こら二回目だよと小突かれた。
「あいつちゃんと帰ってきた?」
「帰ってきた……けど……」
「けどってなんだよ」
 和人さんは黙り込んで手の中の鍵で遊ぶ。そして、隼人くんが死んだら困るからこれもらおう、なんて言って笑う。けれど俺が黙って見つめていると、目を伏せてふっくらと柔らかそうな下唇を噛んだ。
「なんかさー……人が変わっちゃったみたい。話しかけても返事が適当というか、ぶっきらぼうというか。普通の男子高校生みたい」
 眉根を寄せて苦笑いする顔は寂しそうだ。仰向けに寝転んだまま手を伸ばして顎の下をくすぐると、やめろよくすぐったいと笑って振り払われる。
「元気ないね、いつもの笑顔はどうしたのって聞いたら、今までが異常だったんだよって言われてさ。ずっとあんなテンションでいられるわけないじゃん、もう疲れたよって」
 話を聞いていて、出ていった日のことを思い返す。確かに別れるから悲しいとか、裏切られて辛いとか、そんな単純な話ではなく、世の中に見捨てられたような冷めた目をしていた。少し前まで縋りついてきた癖にいきなり出て行くし、なんだったんだろうか。
 和人さんは俺から没収したビールを飲み干して、見るからに肩を落とす。この人でも落ち込むんだな。
「和人さん」
「なに」
「一緒に寝て」
「ばっかじゃないの」
 信じられない、とさっき二回もぶつけた額を叩かれる。
「なんもしねぇから」
「誰が言っても信じられない言葉だけど隼人くんの右を出る者はいないよ、それ」
「そこまで言うか? 俺そんなに信用ねーのかよ。へこむ。泣きそう」
 あんまりな言葉に悲しくなってきて愚痴ると、金色の眉毛を顰めて怪訝な顔をして凝視してくる。
「なんだよ。そんな顔すんなよ。和人さんのケーチ。顔が可愛いからってなんでも許されるわけじゃねぇんだからな。俺はただ寂しいなーって思って……和人さんの顔可愛いな」
「隼人くん、酔ってるでしょ?」
「んあー?」
 酔ってる? なんじゃそら。俺はいつも通りですよ。ちっとも眠くなんねぇし。酒も何も効かねぇよ。なんなんだよちくしょう。
「ごめんな、和人さん」
「なんだよ酔っ払い」
「浅人のこと」
「別に……浅人の見る目がなかったんだよ」
「ひでぇ」
「まぁ何があったかは詳しく知らないし」
 和人さんがこちらに向き直り、ベッドに肘をついてもたれかかる。男のものとは思えないほど柔らかく細い指がまだ少し痛む額を撫でて、赤くなってると笑った。羽根みたいに派手なまつ毛が瞬きをする度に音を立てそうだ。
「俺さ……昔から浅人によく言ってたんだよね。浅人が笑ってれば俺は幸せだよって。うちの家も色々あってさ? それでも浅人だけはいつも明るいんだ。空気読めないトンチンカンなこと言ったりさ。でもあれ、空元気だったのかな?」
 いつもの軽い口調ではあるが静かに語ると、俺の額に手を乗せたままベッドに顔を伏せてしまった。
 そのまま暫く動かないので、髪の毛の束を天井に向けてピーンと引っ張ったりして弄っていたら、やめろと手を振り払い顔を上げた。
「和人さん泣いちゃったかと思った」
「和人さんが泣くわけないだろ」  
  ふんと鼻を鳴らして得意気にしたかと思えば、自嘲気味に口角を上げて笑う。そして、泣くといえば、と話し始めた。
「玲児くん入院したらしいじゃないか。心配で心配でそれこそ泣いてんのかと思って見に来たんだよ」
「は? 知らねぇよ。なにそれ? なんで?」
 寝耳に水な情報を食らい、驚きのあまり飛び起きて和人さんに詰め寄った。確かにずっと学校に来ていない。来週から試験が始まるというのに気にはなっていた。けれどまさか入院した、だなんて。
 玉貴ちゃんの声が響く。
 お兄ちゃんが死んじゃったらどうしよう。
 しかし和人さんは俺の反応に目をぱちくりさせており、その様子はそこまでことの次第が大きくはないことを知らせていた。
「知らなかったのか。てっきり知ってると思ってたよ」
「知らねぇよ、なんだよ。玲児どうしたんだよ。体調は? いつまで入院すんだよ?」
 あんなに痩せ細った身体を乱暴に扱った後悔、一瞬とはいえ窒息させてしまった恐怖が蘇る。まさか後から何か不調が出たのか? 首の骨は大丈夫だっただろうか。
 玲児の首を締めた時の感触がまだ両手に残っている。薄い皮の下に眠る喉仏の感触が親指に残っている。
 考えただけで手が震えだすが、握り拳を作って誤魔化した。
 和人さんはそんな俺を知ってか知らずか、あまり抑揚のない声でゆっくり淡々と説明をしてくれた。
「高熱だしてさらに過呼吸まで起こすもんだから病院行ったんだって。そしたら体重も体力もかなり落ちてるからって点滴打ったらしくて。まぁだから病気じゃなくて療養だね。明日には退院して来週試験あるから受けるってさ」
「じゃあそんなに悪くないのか」
「とりあえずは、たぶんね」
 良くはない、良くはないけれどとりあえずは安心して肩が下がるほどに深いため息をついた。そしてまたそのまま仰向けに寝転ぶ。
「でも……入院してんだろ。俺、入院なんかしたことねぇよ。やっぱ悪いんだよな」
「そりゃあね」
「そうだよな……」
 顔が見たい。心配で心配でたまらない。
 また飯食ってねぇのかな。リゾット食べてたのに。今病院でどうしているのだろう。ゆっくり寝て休んでいるだろうか。
 玲児。俺のせいだよな。
 今すぐにでも病院に飛んでってやりたいけれど、自分にはそんな資格がないことはよくわかっている。玲児が迎えてくれたとしてそこに甘えてはいけないのはわかっている。
 きっと俺がそばにいなければ直に良くなる。
 足を怪我した時だってそうだった。玲児は俺が居なくても立ち上がれる。
 俺はずっとずっと地べたを這いずってるだけだ。道連れにしちゃだめなんだ。
 何もしない、関わらない。それが俺が玲児にできる唯一のこと。
「ん……」
 目を瞑ってじっとしていると落ち込んでいると思ったのか和人さんがまた優しく優しく額を撫でてくれた。気持ちがいい。ひんやりしている。
 心地が良くて指の動きに神経を集中させていると、急激にずしんと身体が重くなる感覚に襲われる。やっときたこの感覚。これをずっと待っていた。
「なぁ、俺が寝るまでそうしてて」
「えー? どうしたのさ」
「寝つきが悪いんだよ……でも今寝れそう。和人さんがお姉さんだったら結婚して毎日撫でてほしいくらい」
「隼人くんから結婚ってワードが出るわけ?」
 ベッドに投げ出した手を広げて閉じてを繰り返していたら、和人さんはその手を握ってくれた。至れり尽くせり。今日はこの後何時間眠れるだろうか。
「でも隼人くんは結婚とかしちゃいけないタイプだよねぇ。絶対相手を不幸にするもん」
 悪気はないのだろうし、いつもお互いが交わしている軽口なのはわかっているが、自分でも嫌というほど思っていることで反応ができなかった。事実そうだと結果が出ている。本当にな、と時間をかけて返して笑ったけど、上手くできなかったのは自分でもわかった。和人さんは目を丸くして握ってくれた手にキュッと力を入れる。
「ちょっと……傷つくなよ、和人さんが嫌な奴になっちゃうだろ。もう汐らしくて調子狂うな。隼人くんはお酒飲んじゃダメだ」
「別にそんなんじゃねぇし」
「それとも平気な顔して実は傷ついてたの? もう……」
「違うって……」
 笑いながらも意識が遠くなっていく。やっと寝れる。ずっと眠っていられればいいのに。眠れない夜に疲れてしまった。もう、もう起きたくない。



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