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影日向の告白
⑥
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身体が重たい。膝が痛い、腰が痛い。アパートの二階へ上がるだけの階段がいつもより長く感じる。
階段を上がりきり、通路をゆっくり歩いて一番奥の部屋の前で止まる。
二○三号室。
表札に名前はない。
部屋番号を指先で撫でる。
僕がこの部屋に入るのは今日で最後だ。
もらった合鍵を鍵穴に差して、回す。カチャリと手のひらに響く感触が名残惜しい。
覚悟を決めてきたというのに、ドアを開けると話し声が聞こえてきて、すぐに誰か来ていることがわかった。玄関には僕のスニーカーより小さなローファーが二組。廊下の向こうからは女の子のすすり泣く声が聞こえた。
「ただいま」
声をかけて部屋へ入れば腕を組んで苦い顔をした隼人と、テーブルを挟んだ向かいに緑を基調とした制服を着た女子高生が二人座っていた。隼人は目が合うなり舌打ちをし、それに気が付いた一人が顔を上げる。
「浅人さん!」
白い肌に真っ黒な長い髪。お兄さんに似ず愛嬌のある大きな瞳は涙で濡れ、僕の顔を見るなり立ち上がって駆け寄ってくる。腕にしがみつき、取り乱した様子で訴えかけた。
「浅人さん! もうこの人にお兄ちゃんに何もしないでって、もう傷つけないでって、言ってください……っ」
溢れ出る涙を拭い、泣きすぎて咳き込みながら兄を心配する様はあまりに痛々しい。玲児と一緒に小さな頃からよく知っている彼女、玉貴ちゃんは笑顔の印象しかない。あまり笑わない玲児にいつも笑顔で着いて回る、そんな子だ。
「同じ高校だったなんて知らなかった……なんで? なんでそんなにお兄ちゃんに執着するの? 元気になっていたのに、どうして」
「玉貴ちゃん、浅人びっくりしてるから……ね、玉貴ちゃん」
麗奈ちゃんが声をかけると、玉貴ちゃんは下唇が切れそうなほど強く噛み、その場にへたりこんだ。俯き、何度も何度も零れる涙を手でごしごしと乱暴に擦る。
「お兄ちゃん……またご飯食べられなくて……あんなに、あんなに痩せて……お兄ちゃんが死んじゃったらどうしよう……」
背中をさすられる彼女を見下ろしながら、言葉を発せないでいた。共犯者の、いやもしかしたら主犯かもしれない、そんな僕に助けを求めた玉貴ちゃんを見ていると、こじれにこじれた気持ちが余計にぐしゃぐしゃに丸められていく。
笑顔を見せて、大丈夫だよ、なんて前なら軽口を叩いていたのだろうか。そんな気休めの耳障りのいい言葉を、なにも考えずに言っていただろうか。馬鹿みたいだ。
玲児は死ぬのだろうか。
薄い皮から浮くあばら骨を思い出すと大袈裟な話でもないように思えた。
散々剥がして塗りつぶしたあの行為が最後のトドメとなり得るだろうか。
泣き声だけが響く重たい沈黙を破ったのは隼人だった。
「もう関わらねぇよ。玉貴ちゃんが来る前からそのつもりだった。どうしても不安だって言うなら高校辞めたっていい」
いつもの気性の荒さが嘘みたいにその表情も声も底の知れない静けさをもって語る。玉貴ちゃんはそんな隼人をじっと見つめ、ただ首を横に振ってそのまま押し黙ってしまった。
「玉貴ちゃん」
声をかけても、反応はない。
「僕、学校の後に玲児のお見舞いに行ったんだ。すごく熱が高くて苦しそうだったからもう帰った方がいいよ」
どの口が言うんだか。
なんだ、知ってたって笑えるじゃないか。
玉貴ちゃんは鼻をすすり、声を発さないまま僕と……それから隼人にも、綺麗にお辞儀をして玄関に向かう。こんなに泣いている彼女もきっと帰宅すれば笑顔になるんだろうな。
玉貴ちゃんの後に続く麗奈ちゃんが視界に入り、あ、とあることを思い出して引き止める。僕よりも少し背の高い彼女に見下ろされ、なんだか惨めな気持ちになったが、どうしても聞きたかったことを訊ねた。
「ねぇ、どうして僕の名前をピッタリだなんて言ったの」
「なにそれ? なに、急に……」
「だって、浅い人だよ? 変だよ。変じゃないか。表面だけとでも思った? 薄っぺらいやつだって?」
突然のことに麗奈ちゃんはあからさまに戸惑い、眉をしかめて何度も羽根みたいに長いまつ毛で瞬きをして見せた。こんな急に絡まれたらこの反応は当たり前だし、そうだよ、覚えてないよね。馬鹿なことをしたと、ゴメンなんでもないと誤魔化す。
「旅行にね、行ったの」
しかし麗奈ちゃんは少しの間をおいて、語り出した。
「家族でね、行ったの。隼人は来れなかったけど。とっても久しぶりで、昔行った海に行ったの。綺麗な海って、砂浜近くから深くなっていくとどんどん濃い青色になるでしょう。私はね、浅瀬の水色のような翠色のような、あの色が好き。浅人の瞳の色みたいね」
彼女ははにかんで笑い、私の好きな色、と付け加えた。
母さんがそんなこと思ってつけたわけはない。僕の名前の由来とは絶対に違う。漢字の意味など平仮名も怪しかった母さんに分かるはずがないのだ、由来なんてない。
麗奈ちゃんから語られた浅人という名前の話に、兄弟たちの瞳の色を思い出した。僕と同じ青い瞳を持っている兄弟たちを思い出して、後付けの理由でもいいかと思った。
僕は麗奈ちゃんにありがとうと、笑顔で伝えた。
もう笑いたくないと思っていたけれど、きちんと笑うことはできた。
二人は帰り、僕と隼人だけが残された部屋。隼人に座ればと声をかけられるが、僕は首を横に振り立ったままテーブルに合鍵を置いた。
「は?」
眉根を寄せて僕を見上げる彼を無視し、ベットの脇に置かれた自分の荷物を入れていたリュックを手に取る。通学用リュックと二つ持って帰るのは嫌だが仕方ない。ずっしりと重たいが僕がここにいたのはほんの数日だった。たった数日だけ隼人に求められた僕には身の丈に合わない重さだ。
「お前なに? 帰んの?」
「帰る」
「なんで?」
「別れるから」
淡々と告げる。感情的にならないように気をつけたが、それでもこんなに冷静に言葉が出るなんて自分でも驚きだった。これほどまでにすんなり言えるものなのかと思いながら、隼人の顔を見る。
しかしその顔を見たら決意が揺らいだ。
親に見放された子供のように、戸惑い、食い入り、縋る。そんな目で見ないで。食いしばる白い歯に後ろ髪をひかれる。
「なんで? さっき聞いただろ? 玲児とはもう会わない、関わらない。もうなんも起こらねぇよ」
「玲児は隼人と一緒にいたいって」
玲児と聞いた瞬間、苦悶の表情からすっと力が抜ける。
「玲児が言ってたのか?」
何も起こらないと言いながらもしっかり食い付いてくるじゃないかと笑ってしまった。
ばっかじゃないの、付き合いきれない。
もう駄目だよ無理だよ。好きにやってよ。
お前の大好きな可愛い可愛い玲児は僕に抱かれてたくさん喘いで射精してたけどね。
ははっと乾いた笑いを浮かべた僕にバツの悪い顔をして、玲児のことはもういいと零す。少しも良くない癖に。
「行くなよ。もう俺もどこにも行かねぇから、ここにいろよ……」
手を握られ、引き寄せられるが、僕は動かない。そして首を横に振る。
「浅人……」
振り絞るような声で、苦しそうに呼ばないでほしい。
「今、一人になりたくない」
ああ、結局は自分のためなのだ。
この一言で僕の決意はより強固なものへとなった。その辛そうな顔も声も僕のために作られたものではない。
呆れ果てた。ため息が漏れ、本当に今までの時間は何だったんだろうと虚しくなる。虚しくなって、腹が立って、もうどうでもよくなった。
自分のことでいっぱいで玲児のことすらまともに見れていない隼人と、ボロボロになっても何よりも隼人を選ぶという玲児。僕なんてどこにも存在しないのだ。
力いっぱい握った拳を開き、ふぅーと長く息を吐き出す。
「隼人は結局そうだよね。いっつもいっつも、自分のことしか考えてない。相手の気持ちなんかどうでもいい、相手のことなんかちっとも見てない。みんな僕のことなんかちっとも見てない」
でもそれは、いつも平気なふりをしてた僕のせい。
相手が笑っていれば、その内面を、その裏で何を思っているのかなんてことを、わざわざ見ようとする人なんていない。僕だってそうかもしれない。人の心の中や本質は見えていないし、僕自身のことだって見えていない。玲児のことだって知らないことだらけだった。何もわからない、もう何にもわからないんだよ。
しかし見えないものを暴いたところで、暴いたものが思い通りになるわけでもない。相手がよく見えたからなんだというの。何が変わるの。本当によく見たの。
熱で朦朧とする玲児を抱いたのは、なんにも僕のものにはならなくて腹が立ったから。どうせ僕の元に何も残らないならば復讐してやりたかった、傷跡を残してやりたかった。
それなのに愛おしかった。
ずっと近くで見ていた物静かで清らな彼の、いつもクールだけど少し天然な僕の幼なじみの、あまりに可愛らしい痴態が愛おしかった。
でも抱いて思い通りにしたところで僕のものではない。
隼人に抱かれていても彼が僕のものにはならないのと同じ。
もっともっと、奥深くまで潜ればよかった。時間はたくさんあったというのに。水面の安全な場所を泳いでた僕にはもうなにもわからない。
何が本質?
何がまやかし?
全部まやかし?
全部本当?
初めて人を好きになって手に入れたくて仕方なくて、初めてたくさん感情をぶつけた隼人。しかしお互いが自分勝手すぎて結局は何にも変わらなかった。僕のことなど全く考えてない、お前の都合よく突き放してすがりついて、表面的な甘さで縛り付けてそれだけだ。何も産まれないんだよ。でも僕だって大して変わらない、自分勝手さでは鏡を見ているようだ。
玲児は僕に何も言ってくれなかった。悲しいくらい何も言ってくれなかった。でも玲児は僕の笑顔に応えてくれるし、僕のことを思って悩んでくれた。気持ちのいい距離でいれば良かったし、いたかった。でもやっぱりもっと知ればよかった、知れる機会はたくさんあったんだ。話を聞いて寄り添ってあげればよかったんだ。
それでも僕は。
わかっているのに僕は。
振り向かない隼人に、僕の知らない顔をする玲児に、そんな顔をして隼人を選ぶ玲児に苛立った、暴いてやりたくなってしまった、汚いところを見たくなった、けれど玲児は綺麗だった。
欲しかったな。君のことが。
絶望する。
欲しい結果なんてない。
僕の行動は全て間違っていた。
全て、間違っていた。
「僕はもう降りる」
取り返しがつかない。
隼人の手を振り払い、その場から離れる。なんの気配も感じないことに悲しくなるのを誤魔化して笑う。また僕は笑う。ほらね、お前は追ってもこない。
玄関の扉を開けて、外へ出る。
やはり足音も声も聞こえない。
早々に見限って歩き出す。
もう涙も笑いも起きない。
僕は自分が笑いかけた全てに好かれたかった。
愛されたかったから笑っていた。
僕だって愛されたかっただけなのに。
全て、間違っていた。
end.
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