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閑話・番外昔話②

長谷川貴人は間違える

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「俺から逃げるんだ」
 部屋を分けて以来、足を踏み入れなかった“元”二人の部屋へ入って来たなり和人はそう告げた。
 扉に背を預けて腕を組み、立ったままパソコンデスクについていた俺を睨み下ろす。調度ディスプレイには先程まで眺めていた住宅情報サイトが映し出されている。
「外部受験をしたのは知ってただろう」
「知ってたよ?」
「だったら……」
「でも一人暮らしするなんて聞いてない」
「そもそも会話もしてないからな」
 椅子を回転させて和人に背を向け、再び住宅情報を調べ始めた。しかし背後から近づいてきた手によっていきなりデスクトップの主電源を落とされてしまった。なんてことしやがる。和人は椅子を回して俺の身体を自分へと向けた。肘掛けに両手をついて迫ってくる。
「こっち見ろよ」
「なぜ。和人と話すことはない」
「だから出ていくんだ」
「関係ない」
「俺から逃げるんだ」
 初めよりも語気を強めて言い放ち、顎を掴んで無理に顔を上げさせられた。
 久しぶりにまともに見た顔は、ずっと一緒にいた頃よりも妖艶さが増して益々美しくなっていた。眉を顰めた流し目も、小さく結ばれた赤い唇もこちらが恥ずかしくなるほど色っぽい。
 あどけなさの残るガラス細工のように繊細な少年の美しさは消え、儚さと強さを併せもった遊女のような雰囲気が漂う。
 和人を見ているだけで身体中が反応して辛い。
 今すぐにでも逃げ出したかった。
 和人の言う通りなのだ。
 俺は和人から逃げたい。
 学校での和人の噂は絶えない。和人とどんなプレイをしたか、行為中どんな言葉を交わしたか、そんなことを競う会話が嫌でも耳に入ってくる。勿論全員がそんなことをしていたわけではないのだろうが、虐めていた奴ほど和人にのめり込んでいる様子だった。聞きたくない筈なのに聞き耳を立てては妄想した。俺の知らない和人の姿を。
 家にいれば時折ふらりと父親が帰ってきて和人を抱いていた。父親が帰ってくる日はまず百パーセント和人の部屋へ行くのでいつ二人が交わっているか把握してしまうのだ。
 何度目かの夜に、今からでも父親の凶行を止められるかもしれないと部屋の前まで行った。しかし中から聞こえたのは父親の愛撫に悦ぶ声だった。父さんと呼びながらも、時折恋人のように父親を名前で呼び、甘えた猫のような可愛らしい嬌声を上げていた。
 もう守る必要など何もない。和人は受け入れている。
 勇気を出したのが馬鹿みたいだった。
 俺だけ未だにあの夜に縛り付けられている。
 その夜は前まで和人が使っていたベットに潜り、狂ったように自慰行為に及んだ。問題の夜に聞いたすすり泣く声と悦びの声が頭の中に響き渡り全てを吐き出してしまわないとおかしくなりそうだった。
 それからというものの、父親がいる日の夜中に和人の部屋へ行き、二人の行為する声や音を聞くのが習慣化していった。もしかしたら今日は嫌がっているかもしれないと言い訳をしながらも、それらは自慰の材料になるだけだ。
 このままこんな生活をしていたら自分がどうにかなってしまいそうで恐ろしかった。
 生まれてからずっと和人のことばかり考えていた俺の頭は今も変わらずに和人のことばかり考えている。
 もう隣にはいないのに。
「貴人、いま勃ってるでしょ」
 じっと静かな怒りを纏っていた顔は、ニヤと嫌な笑いを浮かべた。そして俺の下半身に手を伸ばす。
「やめろ……」
「やーだ。嫌なら抵抗しなよ」
 もう少しで触れてきそうな手を払うが、それをすり抜けて華奢な手はズボンの上からそこをさすった。
「触ってほしいくせに……あ、大きい……」
「和人、やめろ。お前が誰と何をしてるかなんて知らないが、兄弟でなんて……」
「知ってるだろ。俺なんて父親と寝てるくらいの貞操観念しかないから」
 俺の膝を割って足の間に座り、上目遣いにこちらを見つめてくる。
 自分がどれだけ綺麗な顔をしているのかわかっているのだろうか。少し顔に赤みをさしながら、股に目をやる伏せた瞼は長い睫毛で頬に影を作る。夢中でその姿を見ていれば不意に目線を合わせて微笑んで。
 もう限界なんだよ。
「貴人も本当は俺のこと犯したいんだろ」
 俺のことなどお見通しとでも言うように、悪魔のように囁く。
「俺のこと守るなんて崇高なこと言っちゃってさ」
 性器を撫でる手はだんだんと確実に形を捉え、握るようにしながら上下に摩ってくる。う、と小さく呻き声を漏らすと、新しいオモチャを見つけた子供のようにキラキラと目を輝かせた。
「中二の時、俺が初めて一人でして貴人に見つかったよね。あの時すごく恥ずかしかったけど、何が恥ずかしいって貴人の俺を見る目がギラついててさ。ドキドキしちゃったよ」
 話しながらも手際よくズボンの前は開かれ白い手が下着の中へと入っていく。冷たい手が熱い性器に直接触れ、ビクリと身体が震えた。
 和人は俺が反応を見せると本当に楽しそうだ。
「俺はあの時一緒に見た動画で抜いてたけどさ。貴人は俺で抜いてたよね。こんな風に……」
「あっ……」
 取り出された性器はすでに完全に勃起しており、ガチガチに張って脈打つグロテスクなものを、小さく毛など一つもない綺麗な手が上下に扱いていく。血色のいい唇は興奮しているのか微かに熱い息を漏らした。
 和人の手が俺に触れている。その横では性器と俺の顔を交互に見つめる綺麗な青い瞳がある。
 その絵面だけで絶頂してしまいそうだった。
 そんなことにはなりたくはないと何かに集中しようとすれば、柔らかそうな唇にばかり目がいってしまう。
「いつも俺のことおかずにしてるよね」
「違う……」
「ムッツリスケベだよね」
「う……や、やめろ」
「ねぇ、口元ばっかり見てる。舐めて欲しいんだ」
「やめろ!!」
 俺はこの時、初めて和人を本気で怒鳴りつけた。
 ビクッと肩を震わせて手の動きを止め俯く姿を見て、しまったと思った。
 喧嘩したことがなかったわけではない。
 けれどいつも騒ぐのは和人の方で俺は無言になるばかりだった。無言でいれば、いつもの調子でずっと文句を垂れていてもだんだんと威勢がなくなっていき最終的には謝ってきた。喧嘩の内容といえばいつも和人のワガママばかりだった。甘えてこられると全てやってあげたくなるが、それを我慢して注意すれば怒ってしまう、本当に世話の焼けるやつだった。
 しかし何があっても怒鳴ることも手を上げることもなかった。壊れ物を扱うようにしか触れたことはない。
 和人はゆっくりゆっくり瞼を動かし、上目遣いに俺を見た。その青い瞳に輝きは消えており、脅えるように揺れている。
「俺が舐めたいって言ったら、舐めても……いい?」
「何を言って……」
「見て」
 小さな声で言うと、和人はズボンを腰まで下ろして自分の性器も露出させた。先端が濡れて光るそこは興奮してしっかり立ち上がっていた。
「俺も勃ってるよ。貴人に興奮してる……」
「やめろ、しまえ……」
「なんでだよ。俺のこと見ろよ。陰では俺のことばっかり見てるくせに。本当はお前だって俺のこと犯したい癖に」
 早口に捲し立てる声はほんの少しだけ震えていた。
 興奮していたからかどうかはよくわからない。
 俺は和人から顔を背けていた。真っ黒なディスプレイを見つめる。
「見て」
 切ない声と共に、くちゅ、と水音が聞こえた。和人へ目をやると、小さな頭で俺の太もも寄りかかり、目線をこちらにを送りながら自分を扱いていた。
 はぁはぁと息は荒くなり、瞳にはうっすらと涙が浮かぶ。
「あ……あっ……触って、いいよ……なんでもしてあげる……」
「やめろ!!」
 叫び、目を瞑って耳を塞いだ。
 しかし和人の声は聞こえてくる。それが今、目の前の和人の声なのか、俺が盗み聞いていた声なのか、わからない。
 いつもやかましくお喋りな癖して喘ぐ声は控えめで、押し殺しながらも恥ずかしそうに気持ち良さそうに漏れ出ていく声。
 たつみさん、と耳の奥で響く。
 たつみさん、たつみさん。
 父親を呼ぶ声が。
 実際には“たかと”と呼ばれていたかもしれない。
 けれども何度も何度も二人の行為を耳にしていたせいか、“たつみさん”と父の名を呼ぶ声が耳に染み付いていた。
 和人に触れたくないわけがない。今までいくら和人を抱く妄想をしたかわからない。
 まずはキスをして、そのまま綺麗な身体を全身舐めまわしてやりたい。可愛らしい性器を弄んで泣くほどイカせてやりたい。細い腰を掴んで乱暴に、壊れてしまいそうなほど何度も突き上げてやりたい。
 しかしそれは欲望であり、理性ではそんなことはしたくない。
 俺は綺麗な和人をずっと箱にしまっておきたい。
 和人をボロボロに消費していくあいつらとは違う。大事に大事に仕舞っておきたかった。汚れたりはせず、美しいままひたすらその身を削がれていく和人によくもあんなことができるものだ。
 自分にはできるわけがない。
 目を開け、耳を塞ぐ手を下ろすと、くちゅくちゅとまた聞こえてくる。
「ん……ん、たかと……」
 泣きそうな顔で名前を呼ばれ、理性は崩壊寸前だった。押し倒してしまえたらどんなに良いだろう。もう守る必要などないのだから押し倒して、めちゃくちゃに……思わず手が出そうになるが、それをぐっと堪えた。痛いほど拳を握り……堪えた。
 和人になるべく目を向けないよう立ち上がった。視界の端で動きを止め、湿った唇を半開きにしてこちらを見上げてくる姿が見える。目は合わせずに乱れた髪をそっととかし、顔にかかる毛を耳にかけてやった。そうして和人に背を向けて扉へと向かう。
「逃げるの?」
 ピンと張った糸のような声がぶつけられる。
「ずるいよね、貴人は。そうやって自分だけお高くとまってお綺麗なまま?」
「そんなんじゃない」
「じゃあなに? 俺なんか相手にできないんだ? ずっと見てるくせに、触るのは汚いから嫌なんだ?」
「そんなんじゃないと言ってるだろう!」
 ドアノブを握りながら、再び怒鳴りつけてしまった。自分に小さく舌打ちをして、一つ深呼吸をする。
「和人は汚くなんかない。お前より綺麗なものなんか見たことない」
「どうだっていいよ。なんにせよ貴人は俺を置いて逃げるんだ」
「もう決まったことだ」
「あっそう、じゃあどこにでも行けよ」
 和人は立ち上がり肩を思い切りぶつけ、俺の身体をはねのけた。そうして少し開いていた扉の隙間からすり抜けて行ってしまった。
 和人を追いかけることもせず彼が出ていった扉を閉めようとしたら、ドタドタと騒がしく廊下を踏み鳴らす小さな足音が聞こえてきた。何かと顔を出すと、綿でできた柔らかなボールが飛んできた。片手でそれを受け止めると、自分の腰くらいの高さしかない小さな弟が大きくクリクリとした目で精一杯こちらを睨みつけていた。
「またかずちゃんをいじめたな!」
 たどたどしい口調ではあるがハッキリとした怒りを感じるその声の主は四男の直人だった。
 廊下へ出てボールを差し出してやると、駆け寄ってきて奪うように両手で掴み取る。
「たかちゃんはどうしてかずちゃんをいじめるの」
「なんでだろうな」
「かずちゃんはたかちゃんがだいすきなんだよ」
「和人はお前のことも大好きだよ」
「そうだよ! あたりまえー!」
 腰に手を当て小さな胸を張る姿に思わず笑みが漏れ、頭を撫でてやろうとするとムッとした顔で避けられた。和人に懐きすぎて可愛いけど可愛くない弟だ。
「直人は和人と一緒にいてやれ」
 小さな弟にそう託すと、白目に全く濁りのない綺麗な双眸でじっと見つめられた後、べーっと舌を出して太鼓のリズムのような音を立てながら走り去ってしまった。
 それを見送って部屋へ戻り、扉を閉めた。
 俺にとってこの日は二度目の後悔の日だ。
 なぜこの時……和人を受け入れ、連れ出してやることができなかったのだろう。何故小さな弟に和人を託そうとしたのだろう。
 ずっと一緒にいた、何をするのも同じで、全てを共に経験してきた双子の弟がどんどん知らない人間になっていくのを受け入れられず、その姿を見ることも苦しい。自分にはもうここから出ていく以外の選択肢がなかった。
 俺の選択肢はいつだって間違っている。



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