忘れっぽい彼女

あまね

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後編

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そんな忘れっぽい彼女だが、その朝も

「おはよう」

と挨拶してきたことにはさすがに驚いた。

本当に、忘れっぽいにもほどがある。

昨晩はあれだけ泣いて、怒って、取り乱し、すがって、叫んで、ふたたび泣いて。身も心も傷だらけで悲鳴のような声で叫び続けていた彼女なのに、朝日のなかで冷蔵庫からヨーグルトを取り出す彼女はまるでいつも通りだ。

泣き過ぎて充血した眼球と腫れ上がった目元だけが、昨夜の彼女の狂乱が、夢でも、俺の勘違いでもなかったことを示していた。

「ヨーグルト、ブルーベリーしか残ってないや。私もブルーベリー食べていい?」
「あ、ああ、もちろん」

戸惑う俺の前にある机の上にブルーベリーヨーグルトを置き、いつも通り彼女は横に腰掛ける。

「なあ、俺……」
「久しぶり! に食べると」
「えっ?」
「ブルーベリーも悪くないね。おいしい」
「それは……よかった」

話の出鼻をくじかれ、俺はしかたなく彼女がヨーグルトを口に運ぶ姿を見守る。一口。また一口。外出用の化粧を施す前の薄い色をした唇に、プラスチックのスプーンが出入りする。

「あーおいしかった! ごちそうさま!」

彼女が立ち上がり、空になったヨーグルトのケースを片手にキッチンへと向かった。俺のヨーグルトは手付かずのまま。もはや、食べられるはずもない。

「なあ」
「ゴミ袋の交換、今日は私がやっておくね」
「なあ、それより」
「ほら、ヨーグルト食べちゃってよ。早くしないと会社に遅刻しちゃうよ」

俺に背を向けたまま、明るい声でそう話す彼女に、近づいた。

「それより、俺……」
「イヤ」
「えっ?」
「いやな話しようとしてるでしょ、また」
「……また、って」
「いやだ。やめて」
「お前」
「あのことなら、なにもなかったの。あなたは帰ってきたんだからそれでいい。私はなにも知らなかったことにするから、ねえ」

ごみ袋を持ったまま、彼女はうなだれ、右手で目元を何度もこすっている。

「……そういうわけにはいかないだろ」
「だって……いやだよ……」
「俺は、もう、行かなきゃ」
「やだ! やだやだやだあっ!!」

顔を真っ赤にした彼女が、俺に向かって抱きついてきた。

けれど、彼女の体は俺を素通りする。

数日前、俺は死んだのだ。

突っ込んできた暴走車に轢かれ、即死した。

「いかないで! いかないでよ! ねえ、ここにいて、ずっといて! あなたはずっとここにいたの! あんな事故なんかなかったの! 本当はなかったんだよ!!」

膝を抱えた彼女が絶叫する。本当にそうだったらどんなに良かっただろう。けれど、それは起こってしまったのだ。
彼女をなぐさめてやりたいと手を伸ばすのに、俺の手もまた彼女を素通りする。俺はすでに、彼女が住まう世界の存在ではないのだ。

「帰ってきてくれたと思ったのに……!」
「ごめん……」

忘れてなんかいなかったのだ、彼女は。

今日だけじゃない。あの時も。あの時も。あの時も、きっと、ずっと。

色々な怒りを、悲しみを、暗い夜のすべてを朝日に溶かし、新しい朝を俺に与えてくれていたのだ、いつも。

彼女のことが好きだ。彼女でよかった。俺は心からそう思った。彼女が好きだ。大好きだった。

だから、ねえ、どうか俺なんか忘れて幸せになってよ。俺が死んだ悲しさなんかすぐに忘れ去ってよ。永遠に続く幸せのなかで笑っていてよ。

「ああ、そうだ……」

視界が霞んでいく。死んで、幽霊となってあちこちさまよいながらもどうにか彼女のもとへ帰ってきた俺だが、この世にいられるのもそろそろ限界のようだ。

「これ、言い忘れてたんだけど……」

彼女が、涙でくしゃくしゃになった顔をあげる。期待するような顔をさせている。失敗したかもしれない。本当に言い忘れていたことを思い出しただけで、消える間際だからといってそんな気のきいたことを言える性格じゃないんだ。

「あの……おはよう」

俺の言葉に彼女は驚いた顔をして、それから、両方の目から大粒の涙をボロボロこぼし、俺の大好きなあの笑顔になった。

彼女の口が動いている。多分なにか言っている。それなのに俺ときたら、もう彼女の言葉が聞こえない。きっと「やっぱり気がきかない」とか言っているんだろう。本当にごめんよ。

ついにはそんな彼女の姿すら見えなくなってきて、俺はまもなく消滅するんだろう。

ごめん。死んでごめん。ずっと君と一緒にいたかった。意地を張らなければよかった。君といるほんの少しの時間も無駄にしなければよかった。たくさん与えてくれた君なのに、俺からはもう何も返せない。だから、どうか朝よ、すべての朝よ、暗い夜を洗い流し新しい朝を彼女に与えて。すべての「おはよう」を君に伝えて。
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