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1巻

1-2

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「あの、自分で歩けます」
「大丈夫だよ、このまま僕に任せて」

 やんわりだけども明確に拒絶されてしまうと、何も言えなくなる。
 途中誰ともすれ違うことなく、エレベーターに到着した。表示される階数表記に、これまで地下にいたことを知る。どうりで部屋にも廊下にも窓がないはずだ。
 外はもう暗かった。ここに来た時にも見上げた暗いビルを、男の人の肩越しに確認する。この建物の地下で人身売買が行われているのだと事前に説明されていたとしても、信じなかっただろう。
 男の人は外に出ても下ろしてくれる気配がない。ただ、抱き上げる腕に乱暴さは感じなかった。買った相手に対して不思議だけど、壊れ物を運んでいるようだ。抵抗するべきか、大人しくしておくべきなのか。どうすればいいのか悩んでいたら、黒塗りのリムジンがすーっと目の前に滑り込んできて停まった。
 男の人が当然のようにドアを開くと、中に乗せられる。車はまずいのではないかと思いながらも、どうすることもできない。
 車の中は、天井が高くて広い空間になっていた。椅子も車のシートというよりソファのようで、車に対して横向きに備え付けられている。対面にはグラスの載ったローテーブル。その脇には小さな冷蔵庫のようなものまであった。これを一口に「車」とくくったらいけない気がするほど、いままで想像もしたことのない別世界だ。

「リムジンはそんなに珍しいかな?」
「ええと……あの、はい」

 頷くと、あとから乗り込み隣に座った男の人がくすくすと笑った。顔の造作がとても整っているからか、動きの一つ一つが全部さまになっている。

「名前は?」
「え?」
「君の名前、教えてよ」
「……美緒みおです。西村にしむら美緒」
「可愛い名前だね。じゃあ美緒、何か飲みたいものはある? ワインでもビールでも欲しければ出せるよ」
「……大丈夫です。それより、どこに向かっているんですか?」

 問いかけると、彼はローテーブルの上に重ねられていた雑誌を手に取った。

「さすが、ルークはいい仕事するなぁ」

 そう言いながら、表紙を見せられる。そして、大きく写っている人物の背景の建物を指でさし示された。

「ここに写っている、僕のホテルだよ」

 連れてこられたのは、旅行のパンフレットでも見た、見上げるほど大きなホテルだった。ネオンの輝く建物は宿泊施設だけではなく、商業施設も付いているらしい。カジノはもちろん、敷地内には散歩できそうな広い中庭やプールもある。
 中に入ると、テレビでも観たことがないほど豪華な部屋に案内された。中央にリビングに置くような三人掛けのソファや猫足のローテーブルがある。それだけでも驚くのに、ベッドルームは別らしい。壁は一面がガラス張りの窓になっているけれど、ラスベガスの中心部に建っているのにほとんどネオンが見えないのは、この部屋が最上階だからなんだろう。
 ホテルの一室だとはとても思えない。一人暮らししている私の家よりも広いし、キッチンまで備え付けられている。
 男の人に手を引かれ、部屋にあるソファに座るよううながされた。ふかふかなそれに、お尻が沈む。
 そうして、隣に腰を下ろした彼に車から持ってきた雑誌を渡された。見れば、ローテーブルにも異なる雑誌が何冊も重ねられている。

「英語は読めるよね? これ、全部僕だから」
「え……ええと、はい」

 私は、言われるまま受け取った雑誌に目を落とした。
 表紙には確かに、いまソファの隣にぴったりと身体をくっつけるようにして座っている男の人が写っている。モデルさんか俳優さんかなと思ったけれど、この雑誌は真面目な経済誌だ。

『若くして事業を成功させたラスベガスのホテル王、ウィリアム・ローランド』
「そう、それが僕」

 雑誌の一文を読み上げると、日本語で肯定される。
 他の雑誌の表紙もすべてこの男の人で、ぱらぱらと目を通した写真付きの記事の内容はどれも大差なかった。
 目の前の男の人は、キラキラした金髪や透ける蒼い瞳、彫りの深い顔立ちのどれをとってもキレイだ。それだけでなく、すらっとした立ち姿も、いまみたいに座っている姿も、動作のすべてが洗練されていて格好いい。モデルだと言われても違和感がない。いやそこらへんのモデルよりよほど見栄えがするし、華がある。同じ空間で隣に座っていても、どこか別世界にいるような感じ。
 雑誌の表紙を飾っているのも、記事のインタビュー写真よりもスナップ写真が多いのも、納得だ。
 これだけ格好よくて、しかも肩書きもすごいなら、かなり有名なんだろう。
 記事の中には語学が堪能なことも書かれていた。ヨーロッパ各国だけではなく、日本、中国、タイなどのアジア諸国でも通訳が必要ないらしい。
 なるほど。彼が日本語をしゃべれることに驚いた時の反応の理由が分かった。初対面の相手でも顔やステータスが知られているのが当然の人だから、意外に思われたんだ。

「申し訳ありません。私、貴方のことを全然知らなくて……」
「改めて名乗ったほうがよさそうだね。僕はウィリアム・ローランド。ここは僕が建てたホテルで、ニューヨークをはじめいくつかの国や都市にも所有してる。いまちょうど、日本にも二棟目を建設中だよ」
「あの、ローランドさん」
「ウィル」
「え?」
「僕のことはウィルと呼んで、美緒」
「えっと、あの」

 男の人を名前や愛称でなんて呼んだことがない。しかもローランドさんは私を「買った」相手なのに。そう考えると、急にその事実が重くのしかかってくる。

「それは……『命令』、ですか?」
「ん?」

 横を見上げながら問いかけると、ローランドさんがきょとんとまばたきをした。表情は自然だけど、その分何を考えているのかよく分からない。
 ローランドさんが柔らかく笑う。

「僕は美緒に『命令』なんかしないよ。ただ『お願い』をしているだけ。美緒に『ウィル』と呼ばれたいなあって」

 この人は何が目的で、私みたいなただの一般人を一億円もの大金を出して買ったのだろう。この人にとって、一億円ははした金なのかもしれないけれど、意味もなく人を売買なんてしないはずだ。
 私は、ごくんと生唾を呑み込んだ。

「あ……貴方は、なんで私を買ったんですか?」

 もしかしたら想像もしないような恐ろしい返事をされるのかもしれない。けれど聞かずにはいられず、恐怖を抑えつけて彼を真っすぐに見つめた。
 ローランドさんはもう一度まばたきをして、道行く女性を全員誘惑してしまいそうな笑顔で微笑んだ。

「そんなの決まっているじゃないか。美緒と結婚するためだよ」

 一瞬何を言われたのか分からなかった。
 呆然と見上げると、ローランドさんの大きな手で頬を撫でられる。

「美緒と結婚するためだよ」

 形のいい唇がもう一度同じことを言った。私の空耳でも聞き間違いでもないらしい。

「僕も聞きたいのだけど、美緒はどうしてあんな場所にいたの?」
「わ、私は、だまされて」
「そうか。まあそれ以外にはないよね」

 ローランドさんが笑顔を消して、真剣な表情で私の顔を覗きこんできた。澄んだ蒼い瞳に真っすぐ見つめられ、一瞬心臓が跳ねる。

「あそこに集まるのはね、お金でなんでも解決できると思っていて、実際にそうしてしまえるだけの力のある奴らばかりだ」
「……っ」
「美緒のように、可愛くてか弱い女性を好きなだけなぶってゴミみたいに捨てるような奴らなんだよ」

 想像していたことが現実だと教えられて背中が冷えた。貴方も同じですか、なんて聞きたくても聞けない。肯定されたくない。
 ローランドさんが私の頬から手を離すと、突然ぎゅっと抱き寄せられた。見かけよりもがっしりした胸元に顔が埋まる。男の人にこんなふうに接触するなんて初めてだ。ふわりとさわやかでどこか甘い香りに包まれ、眩暈めまいがした。

「ねえ美緒。……いますぐに君のすべてを僕のものにしてもいい?」
「え?」

 ローランドさんの顔を見ようとする前に抱き上げられた。車に乗る前の横抱きと違って、縦にかかえるような体勢だ。
 背の高いローランドさんをさらに上から見下ろしてしまった。

「あそこにいた奴らのようなひどいことはしないから大丈夫だよ」

 ローランドさんが何を言っているのか、頭が理解しようとするのを拒否する。けれど急ぎ足で移動して連れて行かれた先に、大人が三人でも余裕で寝られるくらい大きいベッドがあるのを見て、喉がひゅっと鳴った。
 嫌な予感ほどよく当たる。
 ローランドさんにベッドの真ん中にそっと下ろされて、肩を押された。優しそうな顔だけど力は強くて逆らえず、簡単にベッドに沈められる。

「ローランドさ、ん……」

 強張こわばった私の顔を見て、ローランドさんの澄んだ瞳が揺れた気がした。だけどそれは一瞬のことで、頬をそっと大きな手で包まれ、端整な顔がゆっくりと近寄ってくる。
 振られた彼とは一回デートをしただけ。抱きしめたり、手をつないだりすることもなかった。もちろんキスも。
 ――いやっ! 
 ローランドさんが唇を重ねようとしているのが分かって目をぎゅっとつぶると、頬に柔らかい感触と、ちゅっという小さな音がした。恐る恐る目を開けると、ローランドさんが困ったように笑いながら私を見つめている。
 男らしい指先が私の唇に触れた。

「ローラン――」
「ウィル。ウィルって呼んでよ、美緒」
「そんな……わけには」

 やっぱり男の人を、しかも初対面のよく知らない人を名前で呼ぶなんて無理だ。

「僕たちは結婚するんだよ? そんな他人行儀に呼ばないでほしいな」
「……っ!」
「ねえ美緒、ウィルって呼んで?」

 それは確かにお願いの形だったけれど、命令に近かった。彼の中では私との結婚はもう決めたことらしい。
 そのために私を「買った」のだ。買われた私に逆らう権利なんてない。

「うぃ……ウィル、さん?」
「他人行儀に呼ばないでと言っただろう? ウィルだよ、ウィル。ほら美緒、ちゃんと呼んで?」
「……ウィ、ル?」

 求められるままに震える声で繰り返すと、ローランドさん――ウィルがにっこりと嬉しそうに微笑んだ。うん、と目を細めて頷いてくれる顔から目が離せなくなる。

「美緒、もっと呼んで」
「ウィル……さん?」
「どうして戻ってしまうの? ウィルだよ、ウィル」
「うぃ……ウィル」
「うん、そうだよ。もう一回」
「……ウィル?」
「もう一回呼んで」
「ウィル」
「嬉しいよ、美緒。もっと、もっと呼んで」
「ウィル? ウィル……ウィ、……っひぁ!」

 言われたことを繰り返すみたいに名前を呼んでいたら、ウィルに耳元へキスをされた。ぞくりと背中に何かが響いて変な声が出る。
 ウィルの楽しそうに笑う低い声が、耳から頭の中に直接響いた。

「美緒は声も可愛いね。そんな可愛い悲鳴を聞いたらたくさんかせたくなってしまうよ」
「え……ひゃ、あぁっ!」

 ぴちゃ、と水音がしたと思ったら、耳たぶを食べられた。

「や……っ、そこ、んっ!」
「ここ、好きかい?」
「や! ……っ、や、好きじゃ……ふぁっ」

 跳ねそうになる身体を、ウィルの胸板で押さえつけられた。
 耳の形をなぞるように熱い舌が舐めてくる。水音が直接頭の中に入ってきて、なんだかよく分からない初めての感覚が身体の奥で生まれそうな予感がした。
 いままで経験のないことに対する怖さが湧き上がって、やめてほしくて目の前の肩を押し返そうとする。

「大丈夫だよ、怖いことはしないから。僕に全部任せてくれればいい」

 ウィルが耳元で話しながら、私の手首をつかんで肩から離す。そして、指先にちゅっと音を立ててキスをした。

「美緒は指先まで可愛いね」

 結果的に耳から離れてくれたことにほっとしながら彼を見上げた。
 視線が合うと、ウィルの瞳がゆるりと細くなる。けれど私の服を見て、困ったように微笑まれた。

「この服は美緒のものじゃないよね?」
「あ……は、はい」

 身体のラインがそのまま出てしまう薄くて白いワンピースは、あのオークションがはじまる前に着替えさせられたものだ。私の私物は洋服も含めてすべて取り上げられてしまっていて、何一つ持っていない。
 頷くと、ウィルの眉間にしわが寄った。顔が整っている人の怒っている表情は迫力がある。明らかに機嫌の悪いオーラをまとったウィルに威圧されて、びくっと肩が揺れた。
 すると、はっとしたウィルが空気を変えるように微笑む。

「美緒に怒ったわけじゃないよ。……でもごめん、この服は脱がさせてほしい。美緒が他の人に渡されたものを着ているのは不快なんだ」
「え……? きゃうっ」

 突然ワンピースの裾をめくられて、頭から引き抜かれた。それが無造作に床に投げ捨てられると、私の身体を隠すのは下着だけになる。

「いやっ!」

 買われた立場だとかそんなことは頭から飛んで、胸を両手で隠して背中を向けるように身体を丸くした。こんな突然、男の人に身体を見られるなんて。
 耳まで熱くなって目に涙がにじんだ。

「恥ずかしがらないで、美緒。僕も脱ぐから素肌で触れ合おう?」

 後ろでスーツを脱いでいるような音が聞こえたかと思ったら、背中にぴったりと温かい素肌が触れた。
 そして、身体を包まれるように覆いかぶさられる。

「こっちを向いて」
「む、む、無理、ですっ」

 自分が服を着ていないだけでも恥ずかしくて頭が沸騰しそうなのに、振り向いたら裸のウィルもいるなんて。より一層背中を丸めたら、肩のあたりでちゅっと音がして柔らかい感触が触れた。
 何をされたのかは分かったけれど反応できないでいたら、ちゅっ、ちゅっ……と背中のあちこちで同じ音が聞こえてくる。
 薄そうに見えた彼の唇は、肌で感じるととても柔らかくて、どこかくすぐったくて、なんだかドキドキする。

「ね、美緒。こっちを向いてよ」

 背中へのキスの合間にまた言われたけれど、近くにあった枕に顔を押し付けながら必死に首を振った。耳まで熱すぎて無理だ。こんな顔、誰にも見せられない。

「どうして? 恥ずかしい?」

 ウィルの言葉に今度は何度も頷く。すると、くすくすと楽しそうな笑い声が聞こえた。

「美緒は可愛いな。そんなふうに反応されたら、もっといじめたくなっちゃうよ」

 ウィルの大きな手が私の背中に触れて、ぷつんとブラジャーのホックを外された。
 流れるような動作で、下着までもが下ろされて足から引き抜かれる。

「やっ! だめっ!」
「美緒の全部、僕に見せてね」

 背中に何度も音を立ててキスをされる。時々肌を舐められて、その感触にぞくんと身体が震えた。
 手で胸を隠しながら必死に背中を丸めるけど、洋服をすべて脱がされてしまったせいでそれ以上身動きができない。

「こっちを向いて? この肩も丸くて可愛いけれど、顔を見せてよ」

 ウィルがそう言って、背中にまたちゅっと音を立ててキスをした。
 私を買ったのはやっぱりこういう目的だったのだと、浮かんだ涙を飲み込むように固く目をつぶる。

「仕方ないな。電気を暗くすれば少しは平気?」

 ウィルの動きに合わせてベッドが揺れ、ピッピッと音がした。まぶたの向こうが暗くなり顔を上げると、さっきまで煌々こうこうとついていたライトが消えている。
 あとは、ベッド下のぼんやりしたフットライトだけになっていた。

「やっと顔を上げてくれた」
「え」

 聞こえた声が近かった気がして横を向くと、すぐそこにウィルの顔がある。
 ベッドヘッドのパネルを操作して電気を消したんだと気が付くのと、頬にまた音を立ててキスをされたのはほぼ同時。
 目の前の端整な顔に緊張して、反射的にぎゅっと目を閉じる。

「ごめんね、美緒」
「え?」

 何を謝られたのか分からなくてさっきと同じ言葉を返すと、ころりと身体をひっくり返された。
 慌ててつぶったばっかりの目を開くと、下着一枚しか身につけていないウィルが私の上にいて、真っすぐ目が合ってしまう。

「あ……嫌ぁっ!」

 ワンテンポ遅れて、自分の状態を思い出す。
 下着すら身につけておらず、素肌をさらしているということを。
 せめてもの抵抗でまたうつぶせになろうとしたけれど、肩を押さえられて動けなくなった。強い力ではないのに、起き上がることすらできない。

「……ぁ」

 喉の奥で悲鳴が凍った。
 自分がこれから何をされるのかが、これ以上ないほどに現実として襲ってきて、目の前が暗くなる。
「買われる」というのは、こういうことなんだ――

「美緒、美緒っ」
「っ!」

 名前を呼ばれて、ふっと目の前に焦点が合った。私を見下ろしているウィルの顔が見える。
 一瞬恐ろしい怪物のように思えたのに、私を真っすぐに見つめる視線に剣呑けんのんさはどこにもない。

「大丈夫だよ。いきなりで怖がらないでなんていうのは無理かもしれないけれど、絶対にひどいことはしないから」
「……ウィリアムさ、ん」
「ウィルだよ。ウィルって呼んで、美緒」

 優しくて甘さも含まれているような声音に、一瞬前の恐怖がふっと薄まる。素肌の肩に触れている大きい手が怖いと思っていたけれど、いまやっとその温かさに気が付いた。
 薄く涙の膜が張っているのか、ぼんやりとした視界の向こうのウィルを見上げた。

「……ウィル?」
「ねえ、僕の胸に手を当ててみて」
「え……ぁ、はい」

 片手で両胸を隠しながら、そっと反対の手を伸ばした。ウィルの素肌に触れた一瞬、電気が走ったみたいに感じて思わず離してしまう。
 だけど、手首を大きな手につかまれて、そっと手のひらをウィルの胸に当てさせられた。
 ――どく、どく、どく、どく。
 手のひらに鼓動が伝わってくる。

「……すごく、速いです」
「うん。緊張しているからね」
「ウィルが? どうしてですか?」

 女性の扱いに慣れていそうで、緊張とは無縁に見えるけれど。人を買ってこういうことをするのは初めてではないんじゃないの? 

「美緒がこんな無防備な格好で僕の目の前にいるんだよ? 緊張するなというほうが難しい」

 その無防備な格好にしたのは、この人自身なのに。
 恨みがましい気持ちもあるけれど、それと同時に手のひらに感じる温かさと音がどこか心地いい。

「私と同じくらいの速さ……」
「ねえ、僕も美緒の心臓の音を確認していい?」
「……はい」

 接触することに対する抵抗感を抑えて頷いた。
 大丈夫、胸の音を確認するだけ。そう自分に言い聞かせて、ぐっと身体に力を入れる。

「ん……っ」
「確かに、すごくドキドキしているね」
「……はい」

 ウィルは、胸と胸の谷間に手を差し入れるようにして肌に触れた。ウィルの手のひらが熱い。
 男の人の手をこんなふうに素肌で感じたことなんてなくて、ますます緊張して鼓動が速くなる。

「美緒は僕が怖い?」
「……」

 本当のことを伝えていいのか分からなくて一瞬悩んだけれど、嘘をつくこともできず小さく頷いた。困ったようでどこか傷ついたように小さく微笑まれ、なぜか私の胸がズキンと痛む。
 いたたまれないような気持ちになっていると、シーツと背中の間に腕を入れて身体を起こされた。

「あの……?」
「少し落ち着くまでこうしていようか」

 膝の上に横向きに乗せられて、広い胸に包まれるように抱きしめられる。
 お互いの素肌の間に隙間がなくなる。

「これなら美緒の身体も見えないし、恥ずかしさもマシだと思うんだけど、どうかな?」

 どうと聞かれても困る。
 確かにここまで近づいたらあんなとこやこんなとこを見られる心配はないかもしれないけれど、服を着ていないことに変わりはないから、マシも何もない。
 恥ずかしいものは恥ずかしくて、身体がぎゅっと強張こわばっているのが自分でも分かる。
 どうしよう。どうすればやめてもらえるんだろう。そもそも私に拒否する権利なんてないんだろうけれど、それでも思ってしまう。このまま何事もなく朝を迎えたいと。
 ぐっとまた身体に力を入れると、何かの音が聞こえた。
 ――どく、どく、どく、どく。
 私の心臓と同じですごく速い、ウィルの胸の音。
 ふっと肩の力が抜ける。緊張しているのは自分だけではないという、妙な安心感に包まれる。
 もっとよく聞きたくて、耳を胸に押し当てるようにもぞりと動いた。
 ウィルが少しだけ腕の力をゆるめたので、私はちょうどいい位置を見つけてまた胸に耳を付ける。

「美緒」

 ふわりと柔らかく名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
 思ったよりもずっと近くにウィルの瞳があって、真っすぐに視線が絡む。ドクンとまた心臓が大きく鳴る。
 蒼い瞳が揺れたと思ったら、頬にちゅっと音を立ててキスをされた。続けて、鼻の頭、反対の頬、前髪をそっと上げられてひたいにも。くすぐったさに状況も忘れて思わず笑ってしまう。

「少しは落ち着いた?」

 こつんとひたい同士をくっつけながら問いかけられる。
 落ち着いたの、かな。相変わらず指先は震えているし、逃げ出したい気持ちでいっぱいだけれど、さっきまでの目の前が真っ暗になるような恐怖はなくなった気がする。
 小さく頷くと、ウィルが安心したように目を細めた。鼻の頭をすりすりとこすりつけられる。

「これから僕は色んなところにキスをするけれど、怖がらないで。美緒が平気になるまで、キス以上のことはしないようにするから」
「……っ。は、い」

 これ以上「嫌だ」とは言えなかった。
 そっとベッドに寝かされ、つま先が冷える。


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