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しおりを挟む「この猫、飼いたいんだけど」
私を抱いたまま達哉君が言うと、お母さんは目を見開いた。
「ちゃんと世話できるの? お母さんも昔猫を飼ってたけど、生き物の命を預かるっていうのは大変なことなのよ」
「分かってるよ。実を言うともっと昔から飼いたいと思ってたんだ。ちゃんと世話する」
「でも……」
お母さんは躊躇っている様子ではあったが、心底嫌がっているようには見えなかった。
私が、お願い、という気持ちを込めてニャーと鳴くと、
「ま、まあ……、どうしてもっていうなら飼ってもいいけど」
と了承してくれた。
「名前はもう決めたの?」
「いや。でもそうだな……、ミヤ、とか」
私はハッとして達哉君の顔を見上げた。
「気に入ったか? ミヤ」
達哉君は笑顔で私の頭を撫でてくれた。
「猫だからミャーってわけ? 安直ねえ」
「でもこいつ、呼ばれてちゃんとこっち見たよ」
「前にもどこかでそう呼ばれてたのかしら」
お母さんはやや呆れた風に言ったが、結局そのまま私の名前は「ミヤ」に決まった。
後で分かったことだが、このお母さんはかなりの猫好きだった。
この後餌をくれたり、色々な猫グッズを用意してくれたりと、なんだかんだ構ってくれることになる。
ちなみに夜遅く帰ってきたお父さんは、特に興味なさそうだったが、家に傷を付けたり粗相をしたりしないように躾けろと言っていた。
人に見えるところでトイレをするのはかなり恥ずかしいので、なるべく誰も見ていないときにすませるよう気を付けている。
朝練も授業もテストもない、気ままで楽な生活は、私をどんどん駄目にするような気がして、最初のうちは抵抗があった。
だが、毎日達哉君が撫でてくれる、この幸せを、捨てることなどできるはずもない。
「おまえ、あんまり猫らしくないなあ」
家では常に達哉君の後をついて回る私に、ある日達哉君がそう言ったので、私は少し慌てた。
私は動物を飼ったことなどない上、どちらかといえば犬派だし、今まで猫を間近に見る機会などなかった。
飼ったことがある生き物といえば、お祭りですくった金魚くらいだし、それも三日くらいで全部死んでしまった。
だから、どういう行動をとれば「猫らしい」のかなど分からない。
――こんなことなら、猫動画でももっと観ておけば良かった……。
だが、
「この甘えん坊め」
などと言いながらも、指にじゃれつく私を見て、彼は嬉しそうに頬を緩めていた。
彼の撫で方は凄く気持ちが良くて、触れられている喜びとあいまって私を有頂天にさせた。
ある意味、事故に遭う前の望みが叶ったのだ。
こんな時間がいつまでも続けばいいと、思った。
しかし、幸せな時というのはいつまでも続かないものらしい。
家に帰ってきた達哉君の態度や匂いが、いつもと違うように感じる日があった。
私を撫でてくれるときも、なんだか上の空で、別のことを考えている様子だった。
何の根拠もないが、女だ、と直感した。
きっと、好きな人でもできたに違いない。
それとも、もう付き合い始めたのだろうか。
いつかはこんな日が来ると、覚悟はしていたつもりだった。
それでも、私の前で彼が別の女の子のことを考えていると思うと切ない。
せめてその子がいい子であればいいな、と思った。
「たまには家族で旅行にでも行くか」
達哉君のお父さんがそう言い出したのは、年末の休みが近づいているある日のことだった。
「あら、いいわねえ」
お母さんは嬉しそうに賛成したが、達哉君は、
「俺は部活あるし、行かないよ。二人で楽しんできて」
と言った。
「……そうだな。それもいいか」
お父さんは意外とあっさり頷き、お母さんも、
「ミヤの世話を頼んだわよ」
と、うきうきした様子で言った。
仲の良い夫婦なのだ。
久し振りの夫婦水入らずの旅が嬉しいのだろう、その後、二人は旅の目的地や日程について、楽しそうに相談していた。
そして、旅行当日。
達哉君は、両親を見送った後で、スマホでどこかに連絡を取っていた。
それからそわそわと身支度を始め、どことなく浮かれた様子で出かけていった。
明らかに、部活へ行く格好ではなかった。
デートかな、と考えるとつらくて、私は無駄に家の中を走り回って気晴らしをした。
やがて、彼が家に帰ってきた。
ただし彼は、一人の女の子を連れていた。
私の知らない子だった。クラスメイトだろうか。
とりあえず、ほんの短期間だけマネージャーをしていたあの後輩ではなかったことに、私はホッとした。
達哉君と彼女は仲が良さそうだった。
二人で並んでソファに座り、達哉君が出したお茶を飲みながら、私の知らない人の話をしたり、私にはよく分からないタイミングで二人同時に笑ったり……、二人だけで通じ合っていて、私はとても居心地が悪かった。
この二人がどんな風に出会って、どうして親しくなったのか。そこには私の知らない何かしらの物語がきっとあって、なのに私は、その物語の一部に関わることすらできなかった。
それが悲しい。
私がいなくなっても、関係なく世界は回っていくんだと、見せつけられている気分だった。
話が途切れたとき、どこか緊張感のある沈黙が漂い、達哉君が彼女の肩にそっと手を掛けた。
彼女は潤んだ瞳で彼を見つめている。
嫌だ。見たくない。
でも、それでも私は、達哉君のそばにいたい。
だから、だから我慢しなきゃ……。
だが、二人の距離がさらに近づき、唇と唇が触れそうになった瞬間、
――やっぱり耐えられない!
私は無意識に飛び出していた。
――達哉君に触らないで!
彼女の顔を押し返そうとした私の爪は、彼女の頬に当たり、そこにくっきりと傷を作った。
やや遅れて、傷口から血が滴る。
私は動揺した。
――違うの、ごめん、そこまでするつもりじゃ……。
言い訳したかったが、伝わるわけもない。
次の瞬間、私は達哉君に引っぱたかれていた。
信じられなかった。
彼はあんなに、私を可愛がってくれたのに……。
呆然とする私を引っ掴み、達哉君は窓を開けて、私をベランダへぽいっと放り投げた。
「そこで反省してろ!」
彼の目には強い怒りがあった。
それは、いつ本物の憎しみに変わるのか分からないのだ……。
私は怖くなった。
これ以上ここにいたら、きっとこの先も、同じようなことが起こるだろう。
そのせいでもし彼に、本格的に憎まれるようなことにでもなってしまったら、と考えると、たまらなかった。
……だから私は、ベランダから飛び降りて、逃げ出すことにした。
彼は私がいなくなったら、少しは寂しいと思ってくれるだろうか。
たまには私のことを思い出してくれるだろうか。
――もう二度と、帰らない。
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