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第二章 失われた故郷
2-9 イエラ
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そうして急な階段を下りていった先に、その部屋はあった。
石の壁で囲まれた狭い部屋。
地下なので当然、窓は無い。
上の部屋よりもひんやりとした空気が満ちていた。
ジブレの手の灯りが、部屋の中央の寝台に横たえられた女性の姿を照らし出す。
それを見た瞬間、モニムは愕然と目を見開き、両手で口を覆って女性を見つめた。
「不思議だろう? そろそろ三百年も経つはずなのに、全然腐る様子がないんだ」
灯りを天井の金具に取り付けながらジブレは言った。
声が硬い壁に跳ね返り、反響する。
「あ…あ、あ……。お…か……」
モニムは震えていた。
口を押さえた指の間から洩れ出た声も、ひどく揺れている。
ウエインが心配して声をかけるより早く、モニムは寝台に駆け寄っていた。
「お母様! お母様!! 返事をして! おかあさま……!」
モニムは必死の形相で「母」の体を揺する。
「やはり、そうだったのか……」
ジブレが神妙な顔で呟いた。そして、呆然としているウエインに説明した。
「彼女はイエラ・ミザーニマ・イリキュラス。三百年ほど前、あの『穴』で焼かれた死体の中で、彼女だけが唯一原形を留めていた。僕の先祖は、彼女の遺体が見つかって更に痛めつけられるのを防ぐため、密かにここへ隠したそうだ。ここは、元々は酒や食料なんかを備蓄しておくための倉庫だったらしいけど、それ以来、実験室として使われている」
「実験…室?」
「いや、彼女に対して何か悪いことをしようというのではなく……。まあ、最初は、ヒトの遺体を美しく保つ方法なんかを調べていたみたいだけど、でも結局、何もしなくても彼女はこの姿をずっと保っていたそうだ。モニムさんがまだ生きていたことといい、ミザーニマには何かそんな力があるのかな?」
「……エル」
ふいに、モニムが虚ろな表情で呟いた。
それは大きな声ではなかったが、奇妙によく響いて、ウエインとジブレは揃ってモニムを見た。
「お母様を助けて。あなたならできるんでしょう? ねえ、聞こえてるわよね? エル!……お願いだから……」
強くなったり弱くなったりする声は、そのままモニムの心の不安定さを表しているようだった。
奇妙に感情の抜け落ちたモニムの顔の中で、目だけが爛々と光を放ち、横たわる女性の上に注がれている。
モニムが一心に見つめる先で……、横たわった女性がおもむろに目を開けた。
閉じられていた瞼の下から、モニムと同じ藍色の瞳が現れる。
「……!!」
三人が息を詰めて見つめる前で、女性はごく当然のように上半身を起こし、寝台の脇に膝をついたモニムの顔を見下ろした。
目元のあたりが特に、モニムとよく似ている。
年は四十前後くらいに見えた。
女性の唇が動き、声を発する。
「……モニム」
「お母様!!」
モニムの顔は輝いたが、女性は切なげな表情でゆっくりと首を振った。
「違う。ワタシは、イエラではない」
その言葉で、ウエインは今、目の前で何が起こっているのかを理解した。
これはエルフューレがモニムの体を「借りて」いた時と同じ現象なのだろう。
だが、モニムには分からない。裏切られたような表情で、母を――いや、動き出した母の遺体を、見つめる。
「ワタシは、エルフューレだ。すまない。ワタシは間に合わなかった。イエラを、助けられなかった」
「エル……!? え、何? どういうこと?」
モニムは混乱した表情で、母の姿を見つめた。
「あの日……、オマエが、デュナーミナへ戻った日。オマエが急に気絶してしまったから、ワタシは慌てた。その時はまだオマエの身体は森に隠れていたが、何かの拍子に見つかってしまうかもしれない。なんとかそこから逃がそうとして、ワタシはオマエの身体を自由に動かせることに気付いた。オマエの身体で歩いて泉まで戻ったが、イエラのことも心配だった。だから、初めて自分の意志で、動こうとした。イエラのところへ行こうと――イエラを、助けなければと、思って。半分はオマエのところに残り、半分で村へ行った。そんな風に、意識を一つに保ったまま身体を分けられると知ったのも、その時だった」
ウエインは、話の内容に耳を傾けながらも、違和感を覚えていた。
イエラの身体を借りたエルフューレの話し方は、ウエインが知るものとよく似ているが、口調にたどたどしさがなく、やけになめらかだったのだ。
(……もしかして)
エルフューレの口調がたどたどしいのは、まだ人間の言語を上手く操れないからだと思っていたのだが、もしかしたら違うのかもしれない、とウエインは疑い始めた。
言語そのものが操れないのではなく、モニムの身体をうまく扱い切れていないのかも。
それはおそらく、モニムの身体に、エルフューレとは異なる意識、つまりモニムの意識があるからだと推測できる。
そして、だとすれば、イエラの身体にはやはりもう、イエラ自身の意識はないのだろう……。
「だが、遅かった。村へ着いたとき、大勢の人が穴に投げ込まれ、転がされていて、穴の中のあちこちから、火が上がっていた。その中に、イエラもいた」
「…………」
絶句しているモニムを哀しげに見下ろし、エルフューレは一つ溜息をついた。
そんな動作もごく自然で、ウエインから見れば、普通の生きた人間と少しも変わるところがない。
「イリケ族は、死体を焼かない。イリケ族の力は、大地と水から与えられたもの。だから死んだ後は土に還る。そうして子孫に力を引き継いでいく。――そういう思想が、ある」
エルフューレは、今度はウエインの方を向いてそう説明した。
「だからイリケ族は死体を焼かれることを恐れる。イエラも、大きな炎は嫌いだった。それでワタシは、イエラの死体に近づいて、その中に入った。イエラの死体が燃えないように、守らなくてはと、思って。――でも、ワタシが守れたのはイエラの身体だけ。そこにはもう、イエラの意識が、なかった」
「そう、か……」
「だから、イエラは死んだんだ。ワタシはずっと、それを知っていた。……すまない」
最後はモニムに対して頭を下げる。
それが、イエラを守れなかったことに対する謝罪なのか、あるいはそのことを伝えられなかったことに対する謝罪なのか、ウエインには分からなかった。
だが、それはどちらでもいいことかもしれなかった。
「……うそ……」
呟いたきり、モニムは俯いて座り込んだまま動かない。
ウエインには、モニムを慰める言葉が見つからなかった。
(俺も、父さんを失っている……。だから気持ちは分かるって言うか? でも俺の場合、母さんは元気だし、妹だっている。それに引きかえモニムには、両親も友達も、誰もいないんだ。いるのはエルと……、俺だけ。いや、俺、ちゃんと数に入ってるのかな……?)
ウエインがぐるぐる考えている間、誰も何も喋らない時間が数分続いた。
石の壁で囲まれた狭い部屋。
地下なので当然、窓は無い。
上の部屋よりもひんやりとした空気が満ちていた。
ジブレの手の灯りが、部屋の中央の寝台に横たえられた女性の姿を照らし出す。
それを見た瞬間、モニムは愕然と目を見開き、両手で口を覆って女性を見つめた。
「不思議だろう? そろそろ三百年も経つはずなのに、全然腐る様子がないんだ」
灯りを天井の金具に取り付けながらジブレは言った。
声が硬い壁に跳ね返り、反響する。
「あ…あ、あ……。お…か……」
モニムは震えていた。
口を押さえた指の間から洩れ出た声も、ひどく揺れている。
ウエインが心配して声をかけるより早く、モニムは寝台に駆け寄っていた。
「お母様! お母様!! 返事をして! おかあさま……!」
モニムは必死の形相で「母」の体を揺する。
「やはり、そうだったのか……」
ジブレが神妙な顔で呟いた。そして、呆然としているウエインに説明した。
「彼女はイエラ・ミザーニマ・イリキュラス。三百年ほど前、あの『穴』で焼かれた死体の中で、彼女だけが唯一原形を留めていた。僕の先祖は、彼女の遺体が見つかって更に痛めつけられるのを防ぐため、密かにここへ隠したそうだ。ここは、元々は酒や食料なんかを備蓄しておくための倉庫だったらしいけど、それ以来、実験室として使われている」
「実験…室?」
「いや、彼女に対して何か悪いことをしようというのではなく……。まあ、最初は、ヒトの遺体を美しく保つ方法なんかを調べていたみたいだけど、でも結局、何もしなくても彼女はこの姿をずっと保っていたそうだ。モニムさんがまだ生きていたことといい、ミザーニマには何かそんな力があるのかな?」
「……エル」
ふいに、モニムが虚ろな表情で呟いた。
それは大きな声ではなかったが、奇妙によく響いて、ウエインとジブレは揃ってモニムを見た。
「お母様を助けて。あなたならできるんでしょう? ねえ、聞こえてるわよね? エル!……お願いだから……」
強くなったり弱くなったりする声は、そのままモニムの心の不安定さを表しているようだった。
奇妙に感情の抜け落ちたモニムの顔の中で、目だけが爛々と光を放ち、横たわる女性の上に注がれている。
モニムが一心に見つめる先で……、横たわった女性がおもむろに目を開けた。
閉じられていた瞼の下から、モニムと同じ藍色の瞳が現れる。
「……!!」
三人が息を詰めて見つめる前で、女性はごく当然のように上半身を起こし、寝台の脇に膝をついたモニムの顔を見下ろした。
目元のあたりが特に、モニムとよく似ている。
年は四十前後くらいに見えた。
女性の唇が動き、声を発する。
「……モニム」
「お母様!!」
モニムの顔は輝いたが、女性は切なげな表情でゆっくりと首を振った。
「違う。ワタシは、イエラではない」
その言葉で、ウエインは今、目の前で何が起こっているのかを理解した。
これはエルフューレがモニムの体を「借りて」いた時と同じ現象なのだろう。
だが、モニムには分からない。裏切られたような表情で、母を――いや、動き出した母の遺体を、見つめる。
「ワタシは、エルフューレだ。すまない。ワタシは間に合わなかった。イエラを、助けられなかった」
「エル……!? え、何? どういうこと?」
モニムは混乱した表情で、母の姿を見つめた。
「あの日……、オマエが、デュナーミナへ戻った日。オマエが急に気絶してしまったから、ワタシは慌てた。その時はまだオマエの身体は森に隠れていたが、何かの拍子に見つかってしまうかもしれない。なんとかそこから逃がそうとして、ワタシはオマエの身体を自由に動かせることに気付いた。オマエの身体で歩いて泉まで戻ったが、イエラのことも心配だった。だから、初めて自分の意志で、動こうとした。イエラのところへ行こうと――イエラを、助けなければと、思って。半分はオマエのところに残り、半分で村へ行った。そんな風に、意識を一つに保ったまま身体を分けられると知ったのも、その時だった」
ウエインは、話の内容に耳を傾けながらも、違和感を覚えていた。
イエラの身体を借りたエルフューレの話し方は、ウエインが知るものとよく似ているが、口調にたどたどしさがなく、やけになめらかだったのだ。
(……もしかして)
エルフューレの口調がたどたどしいのは、まだ人間の言語を上手く操れないからだと思っていたのだが、もしかしたら違うのかもしれない、とウエインは疑い始めた。
言語そのものが操れないのではなく、モニムの身体をうまく扱い切れていないのかも。
それはおそらく、モニムの身体に、エルフューレとは異なる意識、つまりモニムの意識があるからだと推測できる。
そして、だとすれば、イエラの身体にはやはりもう、イエラ自身の意識はないのだろう……。
「だが、遅かった。村へ着いたとき、大勢の人が穴に投げ込まれ、転がされていて、穴の中のあちこちから、火が上がっていた。その中に、イエラもいた」
「…………」
絶句しているモニムを哀しげに見下ろし、エルフューレは一つ溜息をついた。
そんな動作もごく自然で、ウエインから見れば、普通の生きた人間と少しも変わるところがない。
「イリケ族は、死体を焼かない。イリケ族の力は、大地と水から与えられたもの。だから死んだ後は土に還る。そうして子孫に力を引き継いでいく。――そういう思想が、ある」
エルフューレは、今度はウエインの方を向いてそう説明した。
「だからイリケ族は死体を焼かれることを恐れる。イエラも、大きな炎は嫌いだった。それでワタシは、イエラの死体に近づいて、その中に入った。イエラの死体が燃えないように、守らなくてはと、思って。――でも、ワタシが守れたのはイエラの身体だけ。そこにはもう、イエラの意識が、なかった」
「そう、か……」
「だから、イエラは死んだんだ。ワタシはずっと、それを知っていた。……すまない」
最後はモニムに対して頭を下げる。
それが、イエラを守れなかったことに対する謝罪なのか、あるいはそのことを伝えられなかったことに対する謝罪なのか、ウエインには分からなかった。
だが、それはどちらでもいいことかもしれなかった。
「……うそ……」
呟いたきり、モニムは俯いて座り込んだまま動かない。
ウエインには、モニムを慰める言葉が見つからなかった。
(俺も、父さんを失っている……。だから気持ちは分かるって言うか? でも俺の場合、母さんは元気だし、妹だっている。それに引きかえモニムには、両親も友達も、誰もいないんだ。いるのはエルと……、俺だけ。いや、俺、ちゃんと数に入ってるのかな……?)
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