水の魔物

たかまちゆう

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第二章 失われた故郷

2-1 瀕死

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(――痛い。体中が痛い。一体あとどのくらい歩けばいいの?)
 少女は裸足の足を引きずりながら歩いていた。本人は急いでいるつもりだったが、その歩みは遅い。
(目がかすむ。もう、ダメなのかしら……)
 少女の服は全身血まみれだった。勢いこそ弱いが、腹部の傷口からは今もじわじわと血が溢れ出ている。
 体力はもう限界まできていた。後は気力で歩くしかない。
(立ち止まってはダメ。もう少しよ、きっと。もう少し。もう少し……)
 心の中で呪文のように、少女はそう繰り返した。
(もう少しで、泉に……。あっ!)
 木の根に躓き、少女は転んだ。その瞬間、痛みに晒され続けて感覚が鈍くなっていた全身を、また鋭い痛みが駆け巡る。
「う…うう……」
 堪らず、少女は呻いた。
 必死で集中し、体内の血液が少しでも外へ流れ出ないように意識する。
(苦しい……。いっそこのまま死んでしまった方が楽なのかもしれない……。でも)
 痛みが少しおさまったところで、少女は立ち上がった。再び足を引きずって歩き出す。
(でも……、行かなくちゃ。泉まで……。お母様が……言った…とおりに)
 やがて、
(――あ)
 貧血状態でめまいを感じ始めた少女の視界に、不意に光が飛び込んできた。
 木々の隙間から、水面に反射して届く光。
(水面……水? ――泉!)
 それはまさに希望の光だった。
 少女は、最後の力を振り絞ってそこまで歩いた。
(助かる……。これで助かるかもしれない、わたし)
 泉のほとりに辿り着き、少女は水に手を伸ばした。だが。
(――……え?)
 バランスを崩し、少女は泉に向かって倒れこんだ。上半身が水に浸かる。と思った途端、強い力で水の中に引き込まれた。
 そう深いようにも見えなかったのに、どこまでも引っ張っていかれるような気がする。
 叫び声を上げようと開いた口から、水が入り込んできた。
(く、苦しい……)
 ――苦シイカ? 楽ニナリタイカ?
 もがく少女に、語りかけてくる「声」があった。
 それが誰の――いや、「何」の声なのか考える余裕もなく、少女はただ必死に、
「助けて……!」
 と言おうとした。しかしその行為は、肺に残っていた空気を泡に変えただけだった。
(死にたくない……!)
 少女の声は音声となることは無かったが、それでも相手には伝わっていた。
 ――生キタイカ?
(うん)
 ――ワタシハ、エルフューレ・ウォルシピリオール。オマエハ?
(モニム。モニム・ミザーニマ・イリキュラス。……じゃあ、あなたがお母様の言っていた「エル」なのね?)
 ――ソウダ。オマエハ、イエラノ娘ダナ?
(そうよ。お願い。助けて……!)
 少女――モニムが懇願すると、相手は少し考えるように間を置いた。
 ――……イイダロウ。助ケテヤル。
(本当?)
 ――ソノ代ワリ、オマエノ身体、半分モラウ。
(うん……。いいよ……)
 モニムは何も考えられなくなり、そこで意識が途切れた。

     *

 意識の覚醒は、いつも緩やかに訪れる。
 カードの表と裏が入れ替わるように、ある瞬間はっきりと目覚めるのではなく、頭にかかったもやが徐々に薄れていくように――あるいは、靄のように頼りなく拡散していた「わたし」という意識をかき集めるように――元の自分に戻っていく。
 モニムの身体は今、ほとんどの部分が睡眠を必要とはしていない。
 しかし脳を休める必要はあるので、眠るという行為はしていた。
 最近では、泉へ来た当初より夢から覚めるまでにかかる時間が長くなっているのを、モニムは自覚している。
 そろそろ「限界」が近いのだろうか、とそんなことを考え――、
 ふと気付くと、目の前に少年の顔があった。
「……え…?」
 一瞬、頭が真っ白になる。反射的に後ろへ飛び退った。
「あ…の、ごめんなさい」
 とりあえず、謝ってみる。
 自分の意識がない間、エルフューレが自分の身体を使って何かをしているらしいと、モニムは気付いていた。
 だが何をしているのかまでは知らない。
 今どうしてこういう状況になっているのか、ウエインに訊いてみたい気もしたが、どのような訊き方をしたら良いのか分からなかった。
 出会ったばかりのこの少年の目に、エルフューレに乗っ取られた自分はどう映ったのだろう?
「ねえ、モニム。モニムには、ここを離れて行ってみたい場所はある?」
 不意に、ウエインがそんなことを言った。
「行ってみたい、場所?」
 反射的に故郷のことを思い出して、モニムは次に来る精神的な衝撃に対して身構えた。
 ここへ来て以来、モニムはこの場所を離れるのが怖くて仕方なかったのだ。
 ここを離れてどこか違う場所へ行きたいと考える度に、身がすくんだ。
 だからいつの間にか、ヒトが空を飛べないのが当たり前であるように、自分もこの場所を離れられないのだと思い込んでいた。
 しかし、今は何故か「怖い」という気持ちは起こらなかった。
 むしろ、何故この場所を離れるのがそんなに怖かったのか、不思議な気さえする。
(きっと、エルのせいなのね……)
 モニムはそう考えた。
 泉を離れようとするのを、身体が拒否していた。
 身がすくむのは怖いからだと思っていたが、違ったのかもしれない。

 ……ある日突然、住んでいた村で殺し合いが始まった。
 家へ乗り込んできた男達に襲われ、モニムも殺されかけたのだから、もちろんモニム自身も、戻るのが怖いという気持ちは持っていた。
 だが一方で、あの後、母は、そして他の皆はどうなったのか、ずっと気になっていたのだ。
 知りたくて、でも知りたくなくて、考え始めると身体が動かなくなって……、不安に押しつぶされそうだったから、そのことはあまり考えないようにしていた。
 しかし、あれから随分長い時が経った。
 今となっては、ただ、帰りたかった。
 だから、モニムは言った。
「わたし、帰りたい……」
 本当はあの日からずっと、そう思っていた。
「帰る? どこへ?」
 ウエインが訊いてくる。
 どこへ? そんなのは決まっている。だから、モニムはもう迷わずに答えた。
「家に……、デュナーミナ村へ……」

     *
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