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後日談
ミカ、東の島へ行く④
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窓から差し込む光が、翳ってきた。もうじき日没だ。
まだユーグは帰ってこない。そわそわと窓辺から外を覗く私を見て、ラスが苦笑を浮かべた。
「ミカの方がユーグの保護者みたい。あいつはサリム人なんだよ? ミカ。ここはユーグのテリトリーだ」
ユーグの事情を知らないラスからみれば、今回の旅は久しぶりの里帰り、くらいの感覚なんだろう。
だけど、真実は違う。ここは彼が二度と訪れたくなかった忌むべき場所だ。
「……ねえ、さっき言ってたよね。喫茶店で待ってる時、ユーグのこと知ってるっぽい女の人が話しかけてきたって」
「ああ。あんまりジロジロ見たら悪いかな、と思って意識そらしてたし、ユーグがすぐその人連れて外に出たから事情は分からないけど、わけありって感じだった」
「その女の人は、なんて?」
「『どうしてここに』って驚いてた。それから『酷い、あの子はずっと待ってるのに』って」
――いや、私の番はもういる。二度と会えないだけで、ちゃんといるんだ
かつてユーグが言った台詞がありありと脳裏に蘇ってくる。
『あの子』というのは、ユーグの番なんじゃないだろうか。待ってる、ってそういうことじゃないの?
ピースを失くしたままのパズルを組み立てているようなもどかしさが湧いてくる。
「……ミカ、今、何考えてる?」
気づけば、すぐ傍にラスが立っていた。
私の肩を抱き寄せ、顔を覗き込んでくる。
ラスを不安にさせていることが分かり、私は両手を握りしめた。
「私がどうしてこんなにユーグを心配するのか、分からないよね。ごめん。……私のことなら全部話せる。でもユーグが抱えてる過去について、彼がいないところで勝手に話すことは出来ないんだ。本当にごめんね」
「いや、ミカが正しいよ。勝手に俺が寂しがってるだけだ」
ラスは小さく微笑み、私の頭にこてんと自分の頭を寄せる。
「ミカとユーグの間には、オレの立ち入れない場所がある。それがすごく寂しい」
「ラス……」
「だからって、無理に聞き出すつもりはないんだ。ただ、俺の本音を知って欲しいだけ」
確かに私とユーグの間には、ラスと築いているものとはまた別の絆がある。
幸福だとは言えない環境で育った、ついてない者同士だということもあるし、西の島での異邦人同士でもあるのだ。
ユーグは、私を本当の妹同然に思ってくれている。家族に恵まれなかった彼は、似たような孤独を抱えた私を見つけ、同情と共感を寄せた。そしてそれは私も同じ。
優しい両親の愛をいっぱいに受けて育ってきた太陽みたいなラスと、私達の本質はおそらく違う。
だけど、私が愛しているのはラスだけだ。そんな彼に、ずっと淋しい思いをさせてしまったことが辛い。
「ごめん、甘えて。ミカを泣かせたいわけじゃないし、この話はもう終わり」
ラスは明るい声で言い、私のつむじに軽いキスを落とした。
「ちょっとユーグ探してくる。ミカは大人しくここで待ってて。いい?」
誰より大切な温もりが離れていく。
私は慌ててラスの袖を掴んだ。
「私も一緒に行きたい!」
「だめ。男同士の話だから」
ラスはにっこり笑うと、そのまま部屋を出て行ってしまった。
急にガランとした部屋で、私は深い溜息をつく。
男同士の話って、なんだろう。
私はラスとユーグを待つつもりでいたのだが、ジャンプで疲れ切った身体は私の意思をやすやすと裏切った。気がつけばベッドの上で、しかも朝日が昇っている。
夕食を食べ損ねたせいで、お腹がぐう、と鳴った。
「おはよ、ミカ」
甘く優しい低音がすぐ隣から聞こえる。
よかった……。ちゃんと帰ってきてくれた。声の方を向き、ぎゅ、と抱き着く。
ラスは引き締まった腕で私を軽く抱き返し、額にキスを落とした。甘いリップ音に、頬が染まるのが分かる。
「おはよう、ラス。……ごめん、寝ちゃった」
起きて待ってようと思ってたのに。そう続けた私の髪を、ラスは優しい手つきで何度も撫でる。大きな手の温もりに、私は安堵の息を吐いた。
「結構遅くなったから、寝ててくれてよかったよ。それより、ゴメンな。夕飯ぬかせて。朝はいっぱい食べような」
低く鳴ったお腹の音を、ばっちり聞かれていたらしい。
別の意味で頬が熱くなる。
だけど、恥ずかしがっている場合じゃない。
「うん。……それで、ユーグは?」
「一緒に戻って来てるよ。話も聞いた」
ラスの声のトーンが、微妙に下がる。
ユーグが全部話したのだと分かってホッとした。辛い過去を打ち明けなければならなかったユーグには悪いが、これでこれ以上ラスを寂しがらせずに済む。
「昨日ユーグが会ったのは、昔住んでた町のやつだったらしい。ユーグには、東の島にレイラって名前の幼馴染がいたんだ。トチ狂った爺さんに殺されそうになるまで、ユーグはその子と付き合ってた。『大きくなったら、結婚しよう』とか何とか約束してたんだろうな。ユーグが突然消えた後も、彼女はずっと独身を通してる。ユーグを待ってるんだとさ」
そんなことじゃないかと思ってた。
ユーグの瞳は、いつも私を通して遠い誰かを見ていた。
ユーグが本当に守りたかったのは、その子だ。守れなかった幼馴染の代わりに、異世界から落ちてきた哀れな私を助けたんだ。
レイラさんは西の島で、ずっとユーグの帰りを待っていたのに。
ユーグは彼女の知らないところで、緩やかな自殺を選んだ。きっとそれは、彼女のいない人生に絶望したから。
飄々とした態度の下に、どれほどの痛みと孤独を抱えてきたんだろう。
あの魔法を使うに至ったユーグの心情を思うと、どうしようもなく泣けてきた。ぼろぼろと大粒の涙が溢れてくる。
「もう一発、殴っとくんだったかな。ミカがそんなに泣くんなら」
ラスが静かな声で言う。
「……え?」
「ユーグは、彼女に会わずに戻るそうだよ。レイラにあわせる顔がない。自分は出来損ないだから、だって」
出来損ない、という言葉に胸を抉られる。
ユーグは出来損ないなんかじゃない。自分勝手なところはあるけど、優しくて頼もしい私の大切な家族だ。
「はあ!? 馬鹿じゃないの!? 思いっきりグーでいってくれた?」
ラスはもちろん、と頷いた。
「もう治癒魔法かけただろうけど、腫れ上がってたよ、左頬。……俺達の家族が侮辱されたんだぜ? 誰が相手でも、見逃すはずないだろ」
ラスも私と同じ気持ちでいてくれたことが、たまらなく嬉しい。
彼の優しい口調に我慢できなくなり、私は泣きじゃくりながら叫んだ。
「兄がバカ過ぎて、つらい!」
ラスは「だよな」と微笑んだ。
私達の部屋にやってきて、一緒に朝食の席に着いたユーグの頬には、薄い紫の痣が出来ていた。
魔法で治さなかったことに、また胸が痛む。
いつでも自分を罰したがってるユーグらしい行動だ。
「お兄ちゃん」
もぐもぐと無言でパンを咀嚼していたユーグの口が、ピタリと止まる。
私は静かに問いかけた。
「本当に、いいんだね? 彼女に会わないまま帰っても」
ユーグはしかめっ面になり、恨めしそうにラスを見遣った。
「……ラスの嘘つき。ミカには言わないって約束したくせに」
「してないよ。考えとくって言っただけ」
「なにそれ。いつからそんなズルい手を使う子になったの」
ぶつぶつと零すユーグは、明らかにその話題を避けている。
私は手を伸ばし、ユーグの手を握った。
「勇気出したら、何かが変わるかもしれないんだよ? それに結果がどうであれ、きちんと向き合えば彼女は解放される。帰らない人を待ち続けるのがどれほど辛いか、ユーグにも分かるよね?」
ユーグはやんわり私の手を外し、俯いた。
口の端に浮かんだ微かな笑みは、いびつに歪んでいる。
「正論だね。……だけど、もし彼女にまで嫌悪されたら、私はこれ以上生きていくことが出来ない。私のせいで両親が死に、祖父には殺されかけた。――もうこれ以上は、無理なんだよ、ミカ」
ユーグの声は震えていた。
彼は自嘲の笑みを浮かべたまま、私を見つめる。
「もちろん、解放はするよ。昨日会ったリンに、伝言を頼んで置いた。私はとうの昔に死んだ。だから、これ以上待つなって、そう言った」
一瞬、彼が何を言ったか分からなかった。
数拍後、ようやく内容を呑み込んだ私の頭は、煮えくり返りそうなほど熱くなる。
ユーグが実の祖父に殺されかけたのは、16の時だ。
レイラさんは、10年以上ユーグを待っている計算になる。
ずっと独りで、いつか帰ってくるんじゃないかと希望を抱いて。
そんな彼女を更なる絶望に突き落とす決断を下したユーグが、信じられない。
「自分が何言ったか、分かってんの……。ねえ? それがどれほど残酷なことか、本当に分かって言ったの!?」
椅子を蹴倒して立ち上がり、ユーグの胸倉をつかむ。
ラスも慌てて立ち上がり、私を止めた。
「ミカ、落ち着け!」
「離して! その伝言を聞いたレイラさんの気持ちは? ねえ、どうでもいいの!? そんなに自分が可愛い!?」
激しい糾弾を受けても、ユーグはきつく唇を引き結んだままだ。
私はまっすぐにユーグを見据え、最終通告を口にした。
「レイラさんに会って、ユーグが生きてること、伝えてくる」
ユーグの顔色が変わる。
彼は私の手を振りほどき、キッと睨み返してきた。
「絶対に許さない。ミカにそんな権利はない!」
「ユーグにだって、私の時を止める権利はなかった」
地を這うような声で言い返す。
ユーグは信じられないといわんばかりに、目を見開いた。
「……ここでそれを持ち出すの?」
「なんだってやるよ。ユーグは私の恩人だけど、ユーグのやり方は許せない。なんでも勝手に自分で決めて、本人の意思は見て見ぬふりで……そういうとこ、大嫌い!」
「ミカ、言い過ぎ」
ラスが困ったように注意してくる。
自分でも言い過ぎだと思うけど、昂った感情をコントロールできない。
ユーグを大切に想う人を、他ならぬユーグ自身が切り捨てる。そんなの、絶対に許せない。
ユーグだって彼女に焦がれて続けている癖に。レイラさんを誰より大切に想ってる癖に!
「大嫌いだけど、大好きだよ! ……お願い、ユーグ。勇気を出して。怖いの、分かるよ。もし、レイラさんがユーグのこと拒否しても、私達はずっとユーグの傍にいる。お願いだから、幸せになれるかもしれないチャンスを、自分から捨てないで」
泣きながら、懸命に訴える。
ユーグの強張った表情が徐々にほどけていき、やがていつもの穏やかな顔に戻った。
「ミカは強いね。私と同じだと昔言ったこと、撤回するよ。ミカは私とは違う。自分の運命を受け入れて、それでも前を向いて頑張ったもんね」
「ユーグ……」
「リンの伝言を聞けば、きっとレイラはこの港町に来る。何でも自分で確かめないと気の済まない子なんだ。帰りの渡り日まで逃げ回るつもりだったけど、私もミカを見倣おうかな」
ふっきれたような明るい声と表情に、先ほどとは違う涙が湧いてくる。
「ごめん、酷いこと言って、ごめん」
しゃくりあげながら謝る私を見て、ユーグは「親身になってくれてありがとう」と微笑んだ。
まだユーグは帰ってこない。そわそわと窓辺から外を覗く私を見て、ラスが苦笑を浮かべた。
「ミカの方がユーグの保護者みたい。あいつはサリム人なんだよ? ミカ。ここはユーグのテリトリーだ」
ユーグの事情を知らないラスからみれば、今回の旅は久しぶりの里帰り、くらいの感覚なんだろう。
だけど、真実は違う。ここは彼が二度と訪れたくなかった忌むべき場所だ。
「……ねえ、さっき言ってたよね。喫茶店で待ってる時、ユーグのこと知ってるっぽい女の人が話しかけてきたって」
「ああ。あんまりジロジロ見たら悪いかな、と思って意識そらしてたし、ユーグがすぐその人連れて外に出たから事情は分からないけど、わけありって感じだった」
「その女の人は、なんて?」
「『どうしてここに』って驚いてた。それから『酷い、あの子はずっと待ってるのに』って」
――いや、私の番はもういる。二度と会えないだけで、ちゃんといるんだ
かつてユーグが言った台詞がありありと脳裏に蘇ってくる。
『あの子』というのは、ユーグの番なんじゃないだろうか。待ってる、ってそういうことじゃないの?
ピースを失くしたままのパズルを組み立てているようなもどかしさが湧いてくる。
「……ミカ、今、何考えてる?」
気づけば、すぐ傍にラスが立っていた。
私の肩を抱き寄せ、顔を覗き込んでくる。
ラスを不安にさせていることが分かり、私は両手を握りしめた。
「私がどうしてこんなにユーグを心配するのか、分からないよね。ごめん。……私のことなら全部話せる。でもユーグが抱えてる過去について、彼がいないところで勝手に話すことは出来ないんだ。本当にごめんね」
「いや、ミカが正しいよ。勝手に俺が寂しがってるだけだ」
ラスは小さく微笑み、私の頭にこてんと自分の頭を寄せる。
「ミカとユーグの間には、オレの立ち入れない場所がある。それがすごく寂しい」
「ラス……」
「だからって、無理に聞き出すつもりはないんだ。ただ、俺の本音を知って欲しいだけ」
確かに私とユーグの間には、ラスと築いているものとはまた別の絆がある。
幸福だとは言えない環境で育った、ついてない者同士だということもあるし、西の島での異邦人同士でもあるのだ。
ユーグは、私を本当の妹同然に思ってくれている。家族に恵まれなかった彼は、似たような孤独を抱えた私を見つけ、同情と共感を寄せた。そしてそれは私も同じ。
優しい両親の愛をいっぱいに受けて育ってきた太陽みたいなラスと、私達の本質はおそらく違う。
だけど、私が愛しているのはラスだけだ。そんな彼に、ずっと淋しい思いをさせてしまったことが辛い。
「ごめん、甘えて。ミカを泣かせたいわけじゃないし、この話はもう終わり」
ラスは明るい声で言い、私のつむじに軽いキスを落とした。
「ちょっとユーグ探してくる。ミカは大人しくここで待ってて。いい?」
誰より大切な温もりが離れていく。
私は慌ててラスの袖を掴んだ。
「私も一緒に行きたい!」
「だめ。男同士の話だから」
ラスはにっこり笑うと、そのまま部屋を出て行ってしまった。
急にガランとした部屋で、私は深い溜息をつく。
男同士の話って、なんだろう。
私はラスとユーグを待つつもりでいたのだが、ジャンプで疲れ切った身体は私の意思をやすやすと裏切った。気がつけばベッドの上で、しかも朝日が昇っている。
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「おはよ、ミカ」
甘く優しい低音がすぐ隣から聞こえる。
よかった……。ちゃんと帰ってきてくれた。声の方を向き、ぎゅ、と抱き着く。
ラスは引き締まった腕で私を軽く抱き返し、額にキスを落とした。甘いリップ音に、頬が染まるのが分かる。
「おはよう、ラス。……ごめん、寝ちゃった」
起きて待ってようと思ってたのに。そう続けた私の髪を、ラスは優しい手つきで何度も撫でる。大きな手の温もりに、私は安堵の息を吐いた。
「結構遅くなったから、寝ててくれてよかったよ。それより、ゴメンな。夕飯ぬかせて。朝はいっぱい食べような」
低く鳴ったお腹の音を、ばっちり聞かれていたらしい。
別の意味で頬が熱くなる。
だけど、恥ずかしがっている場合じゃない。
「うん。……それで、ユーグは?」
「一緒に戻って来てるよ。話も聞いた」
ラスの声のトーンが、微妙に下がる。
ユーグが全部話したのだと分かってホッとした。辛い過去を打ち明けなければならなかったユーグには悪いが、これでこれ以上ラスを寂しがらせずに済む。
「昨日ユーグが会ったのは、昔住んでた町のやつだったらしい。ユーグには、東の島にレイラって名前の幼馴染がいたんだ。トチ狂った爺さんに殺されそうになるまで、ユーグはその子と付き合ってた。『大きくなったら、結婚しよう』とか何とか約束してたんだろうな。ユーグが突然消えた後も、彼女はずっと独身を通してる。ユーグを待ってるんだとさ」
そんなことじゃないかと思ってた。
ユーグの瞳は、いつも私を通して遠い誰かを見ていた。
ユーグが本当に守りたかったのは、その子だ。守れなかった幼馴染の代わりに、異世界から落ちてきた哀れな私を助けたんだ。
レイラさんは西の島で、ずっとユーグの帰りを待っていたのに。
ユーグは彼女の知らないところで、緩やかな自殺を選んだ。きっとそれは、彼女のいない人生に絶望したから。
飄々とした態度の下に、どれほどの痛みと孤独を抱えてきたんだろう。
あの魔法を使うに至ったユーグの心情を思うと、どうしようもなく泣けてきた。ぼろぼろと大粒の涙が溢れてくる。
「もう一発、殴っとくんだったかな。ミカがそんなに泣くんなら」
ラスが静かな声で言う。
「……え?」
「ユーグは、彼女に会わずに戻るそうだよ。レイラにあわせる顔がない。自分は出来損ないだから、だって」
出来損ない、という言葉に胸を抉られる。
ユーグは出来損ないなんかじゃない。自分勝手なところはあるけど、優しくて頼もしい私の大切な家族だ。
「はあ!? 馬鹿じゃないの!? 思いっきりグーでいってくれた?」
ラスはもちろん、と頷いた。
「もう治癒魔法かけただろうけど、腫れ上がってたよ、左頬。……俺達の家族が侮辱されたんだぜ? 誰が相手でも、見逃すはずないだろ」
ラスも私と同じ気持ちでいてくれたことが、たまらなく嬉しい。
彼の優しい口調に我慢できなくなり、私は泣きじゃくりながら叫んだ。
「兄がバカ過ぎて、つらい!」
ラスは「だよな」と微笑んだ。
私達の部屋にやってきて、一緒に朝食の席に着いたユーグの頬には、薄い紫の痣が出来ていた。
魔法で治さなかったことに、また胸が痛む。
いつでも自分を罰したがってるユーグらしい行動だ。
「お兄ちゃん」
もぐもぐと無言でパンを咀嚼していたユーグの口が、ピタリと止まる。
私は静かに問いかけた。
「本当に、いいんだね? 彼女に会わないまま帰っても」
ユーグはしかめっ面になり、恨めしそうにラスを見遣った。
「……ラスの嘘つき。ミカには言わないって約束したくせに」
「してないよ。考えとくって言っただけ」
「なにそれ。いつからそんなズルい手を使う子になったの」
ぶつぶつと零すユーグは、明らかにその話題を避けている。
私は手を伸ばし、ユーグの手を握った。
「勇気出したら、何かが変わるかもしれないんだよ? それに結果がどうであれ、きちんと向き合えば彼女は解放される。帰らない人を待ち続けるのがどれほど辛いか、ユーグにも分かるよね?」
ユーグはやんわり私の手を外し、俯いた。
口の端に浮かんだ微かな笑みは、いびつに歪んでいる。
「正論だね。……だけど、もし彼女にまで嫌悪されたら、私はこれ以上生きていくことが出来ない。私のせいで両親が死に、祖父には殺されかけた。――もうこれ以上は、無理なんだよ、ミカ」
ユーグの声は震えていた。
彼は自嘲の笑みを浮かべたまま、私を見つめる。
「もちろん、解放はするよ。昨日会ったリンに、伝言を頼んで置いた。私はとうの昔に死んだ。だから、これ以上待つなって、そう言った」
一瞬、彼が何を言ったか分からなかった。
数拍後、ようやく内容を呑み込んだ私の頭は、煮えくり返りそうなほど熱くなる。
ユーグが実の祖父に殺されかけたのは、16の時だ。
レイラさんは、10年以上ユーグを待っている計算になる。
ずっと独りで、いつか帰ってくるんじゃないかと希望を抱いて。
そんな彼女を更なる絶望に突き落とす決断を下したユーグが、信じられない。
「自分が何言ったか、分かってんの……。ねえ? それがどれほど残酷なことか、本当に分かって言ったの!?」
椅子を蹴倒して立ち上がり、ユーグの胸倉をつかむ。
ラスも慌てて立ち上がり、私を止めた。
「ミカ、落ち着け!」
「離して! その伝言を聞いたレイラさんの気持ちは? ねえ、どうでもいいの!? そんなに自分が可愛い!?」
激しい糾弾を受けても、ユーグはきつく唇を引き結んだままだ。
私はまっすぐにユーグを見据え、最終通告を口にした。
「レイラさんに会って、ユーグが生きてること、伝えてくる」
ユーグの顔色が変わる。
彼は私の手を振りほどき、キッと睨み返してきた。
「絶対に許さない。ミカにそんな権利はない!」
「ユーグにだって、私の時を止める権利はなかった」
地を這うような声で言い返す。
ユーグは信じられないといわんばかりに、目を見開いた。
「……ここでそれを持ち出すの?」
「なんだってやるよ。ユーグは私の恩人だけど、ユーグのやり方は許せない。なんでも勝手に自分で決めて、本人の意思は見て見ぬふりで……そういうとこ、大嫌い!」
「ミカ、言い過ぎ」
ラスが困ったように注意してくる。
自分でも言い過ぎだと思うけど、昂った感情をコントロールできない。
ユーグを大切に想う人を、他ならぬユーグ自身が切り捨てる。そんなの、絶対に許せない。
ユーグだって彼女に焦がれて続けている癖に。レイラさんを誰より大切に想ってる癖に!
「大嫌いだけど、大好きだよ! ……お願い、ユーグ。勇気を出して。怖いの、分かるよ。もし、レイラさんがユーグのこと拒否しても、私達はずっとユーグの傍にいる。お願いだから、幸せになれるかもしれないチャンスを、自分から捨てないで」
泣きながら、懸命に訴える。
ユーグの強張った表情が徐々にほどけていき、やがていつもの穏やかな顔に戻った。
「ミカは強いね。私と同じだと昔言ったこと、撤回するよ。ミカは私とは違う。自分の運命を受け入れて、それでも前を向いて頑張ったもんね」
「ユーグ……」
「リンの伝言を聞けば、きっとレイラはこの港町に来る。何でも自分で確かめないと気の済まない子なんだ。帰りの渡り日まで逃げ回るつもりだったけど、私もミカを見倣おうかな」
ふっきれたような明るい声と表情に、先ほどとは違う涙が湧いてくる。
「ごめん、酷いこと言って、ごめん」
しゃくりあげながら謝る私を見て、ユーグは「親身になってくれてありがとう」と微笑んだ。
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