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二章:初めての雨
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ダンさんとベネッサさんが出て行った後、家はとてもガランとして見えた。
なんだか無性に寂しくなり、ラスの後をついて回る。
「ん? 俺と遊びたいのか?」
台所で解体用のナイフを手入れし始めたラスが、首を傾げる。
「遊ばなくていいから、傍にいていい?」
「いいよ。俺もその方が安心する」
顔を見合わせて同時に笑う。
ラスと過ごす時間は、本当に楽で心地よかった。
二人で作ったナンと蒸し肉の昼食を取った後、居間のソファーでゆったり寛ぐ。
ラスは、なめし革の様子を見てくると言い残して外へ出て行った。
雨に入る前に獣の皮を剥いで洗っていたのは知っている。今は乾燥の段階らしい。こまめに油脂を塗り込んで、干からびるを防ぐのだと言っていた。
獣の皮を下処理する為に作られた納屋は、独特の匂いに満ちている。
私は一度しか覗いたことがないのだが、匂いがどうの言ってないで手伝いに行こうかな。
腰をあげかけたタイミングで、玄関をノックする音が聞こえた。
ダンさん達でもユーグでも、ラスでもないはずだ。
急に心細くなり、息を詰める。
「おーい、いるんだろ? 入るぞー」
聞き覚えのある声がしたと思ったら、居間の扉ががちゃりと開く。
姿を見せたのは、やはりチェインだった。
走って自室へ逃げこもうとしたが、あっという間に距離を詰めてきたチェインに腕を取られてしまう。
「待て、って。顔見ただけで逃げんなよ。流石に傷つくだろ」
彼は私の肩を抱いて引き寄せると、無理やりソファーに腰を下ろさせた。
ぴたりとくっつけられた太腿に、ぞわりと鳥肌が立つ。
鍛えていることがすぐに分かる硬い感触だった。
鋼のような長身は威圧的で、気を緩めれば容易く蹂躙されそうだ。
だが、彼には出来ないことを私はすでに知っていた。
ユーグさんの魔法に感謝しなければ。
タリムの民の魂に刻まれしは『自由』。
何人であろうと自由を踏みにじることは許されない。
古い伝承の一節にある通り、タリム人はお互いの自由を何より尊重する。
無理強いして何かをさせようとする者は、翼を折られてもおかしくないと考えられているのだ。
「離れて」
気力を奮い立たせ、短く命じる。
チェインは聞えよがしな溜息を吐き、私から手を離した。拳一個分の距離を開け、座り直す。
「これでいいか?」
「まだ近い。もっと離れて」
「なんだよ、こまけえな。ちゃんと離れたぞ」
「もっと、離れて」
強めの口調で繰り返す。
目を逸らしたら負けだと思い、目に力を込めて睨みつけた。
チェインも負けずにじっとこちらを見つめ返してくる。
まるで猛獣を相手にしているような気分になった。
「はぁ~……んじゃ、これは?」
チェインは立ち上がり、居間の扉の前に立った。
玄関までの道は塞がれた格好だが、裏口には逃げられる。
きちんと言うことを聞いてくれたことにも安堵し、私は頷いた。
「我らが女神様は、男に随分手厳しいな。それとも俺にだけか?」
扉に軽く背中を預け、チェインが腕組みして尋ねてくる。
こんな状況でなければ、思わず見惚れてしまっただろう。それくらい様になっている。
「失礼な人は、嫌いです」
「俺も嫌いだ。気が合うな」
チェインはにこ、と笑った。
……駄目だ。全く話が通じない。
「何か用事があって来たんですよね。なんですか?」
こうなったら、さっさと話を終わらせよう。
私が切り出すと、チェインは眉を上げた。
「雨の16日だぜ? そんなの、誘いにきたに決まってるだろ」
「は?」
「番のお試し。まあ、一回寝てみて気に入らなかったら、大人しく断られてやるよ」
チェインは形の良い唇をペロリと舐め、熱っぽい眼差しで私を捉えた。
――……は!?
この人、今堂々と「私を抱きに来た」って言わなかった? いや、発情期に入ってすぐに押しかけてきたんだから、そういうことだろうけど、理解が認識に追いつかない。
私が処女じゃなければ、あしらい方が分かったかもしれないが、生憎そっちの経験値はゼロだ。
正直、その場で倒れ込みたくなる。
私は震える膝に力を込め、首を振った。
「ごめんなさい、無理です。私の常識では、出会ったばかりの人と寝たりしません」
「そうなのか?」
チェインは目を丸くした。
精悍な顔立ちが途端に幼くなる。
冗談じゃなく驚いている様子の彼を見て、少し気持ちが落ち着いた。
「え? じゃあ、どうやって相性確かめんの?」
チェインが不思議そうに尋ねてくる。
「それは……話したり、遊びにいったり、とか、そういうことをして仲良くなって、自然と、です」
私も知らないよ。教えて欲しいのはこっちだよ! と内心逆切れしながら、しどろもどろに説明する。
「はぁ? そんなんで相性が分かんの? 友達になる方法を聞いてんじゃねえぞ」
「最初は友達からなんです!」
ここは間違っていないはず。
力説した私を見て、チェインは眉を顰めた。
「嘘はついてねえみたいだけど、なんかいまいち信用できねぇな」
野生の勘、恐るべし。どうやら恋愛経験のなさを見抜かれているようだ。
「信用できない相手を結婚相手に選ぶことも、私の常識ではありえません。お引き取り下さい」
玄関の方角を指差し、びしりと言い放つ。
チェインは悔し気に私を睨んだが、このままでは埒が明かないと諦めたのか、壁にもたれていた背を起こした。
反射的に一歩下がってしまう。
「分かったよ。俺を怖がってるんじゃ、どうしようもねえ。そんじゃ、お友達とやらから始めようぜ。それでいいんだろ?」
本当に分かったのだろうか。
疑り深い眼差しで見つめた私に、チェインは両手をあげてみせた。
「ほんとに何もしねえって。また晴れの日に出直す……って、うるせーのが来る前に退散するか」
チェインは耳をそばだてると、あっさり踵を返して出て行く。
彼と入れ替わるように、裏口からラスが飛び込んできた。
「今、チェインが来てた!?」
手にはグローブを嵌めたままだし、裏口の扉は開けっ放しだ。
この様子だと、作業も途中で放り出して駆けつけてきたんだろう。
納屋から家まではすぐだが、それでも濡れないわけではない。細かな水滴が柔らかな髪についている。
私はラスに近づき、掴んで伸ばした袖口で水滴を払った。
「匂いがきつくて、気づくの遅れた。ごめんな、ミカ。大丈夫か?」
ラスが心配そうに問いかけてくる。
私は親指を立て、ぐっと突き出して見せた。
「来てたけど、追い払ったよ。大丈夫」
「そっか、よかった」
ラスの張り詰めた表情がふわりと緩む。
彼は私の真似をして、親指を立て、こちらに突き出した。
「これなに? 男を追い払った時のポーズ?」
「違うよ、達成したぞ! のポーズ!」
「へえ、じゃあ俺もこれから何か上手く出来たら使おっと」
ラスはそう言うと、嬉しそうに笑った。
彼のなにもかもが可愛くて、胸が痛いくらいだ。
この気持ちを「愛おしさ」を呼ぶのだと、私はまだ知らなかった。
チェインはといえば、その後は一度も顔を見せなかった。
彼が発情期をどうやり過ごしたのか少し気になったけど、私がお相手を務められない以上考えても仕方ないことだ。
代わりにといっては何だけど、何人かの若者が私に会いにやってきた。
SNSなんてものはない世界なのに、彼らはどこで情報を手に入れるんだろう。
『ダンのところにタリム様似のただびと女性いるよ』
投稿された発言にいいねボタンを押すタリム人を想像して、どっと疲れた。
雨がずっと降り続いている状態も、私の憂鬱に拍車をかけている。
寝る時も起きてからも、とにかくずっと、絹のような柔らかな雨がガラス窓を伝い、かすかな雨音を耳に運んでくるのだ。
ラスがいてくれなかったら、おかしくなってしまったかもしれない。彼の無邪気な優しさに、幾度癒されたか分からない。ラスは私のお日様だった。
ようやく雨が終わる。
ブレスの珠を指折り数えて待っていたので、その日は早くに目が覚めてしまった。
ベッドから跳ね起き、真っ先に窓辺に向かう。
薄紅の遠慮がちな日光が、ゆるやかにガラスを包み始めていた。
ようやく外の空気が吸える!
急いでパジャマ代わりに来ていた長袖Tシャツと半ズボンを脱いで、ベッドの上に放り投げる。
タンスの中から今日はオレンジ色のワンピースを選んだ。
まだ薄暗い居間を抜けて、そっと玄関から外に出ようとしたところで。
「どこ行くんだよ」
背後からかけられたラスの静かな声に私はびくりと飛び上がった。
なんだか無性に寂しくなり、ラスの後をついて回る。
「ん? 俺と遊びたいのか?」
台所で解体用のナイフを手入れし始めたラスが、首を傾げる。
「遊ばなくていいから、傍にいていい?」
「いいよ。俺もその方が安心する」
顔を見合わせて同時に笑う。
ラスと過ごす時間は、本当に楽で心地よかった。
二人で作ったナンと蒸し肉の昼食を取った後、居間のソファーでゆったり寛ぐ。
ラスは、なめし革の様子を見てくると言い残して外へ出て行った。
雨に入る前に獣の皮を剥いで洗っていたのは知っている。今は乾燥の段階らしい。こまめに油脂を塗り込んで、干からびるを防ぐのだと言っていた。
獣の皮を下処理する為に作られた納屋は、独特の匂いに満ちている。
私は一度しか覗いたことがないのだが、匂いがどうの言ってないで手伝いに行こうかな。
腰をあげかけたタイミングで、玄関をノックする音が聞こえた。
ダンさん達でもユーグでも、ラスでもないはずだ。
急に心細くなり、息を詰める。
「おーい、いるんだろ? 入るぞー」
聞き覚えのある声がしたと思ったら、居間の扉ががちゃりと開く。
姿を見せたのは、やはりチェインだった。
走って自室へ逃げこもうとしたが、あっという間に距離を詰めてきたチェインに腕を取られてしまう。
「待て、って。顔見ただけで逃げんなよ。流石に傷つくだろ」
彼は私の肩を抱いて引き寄せると、無理やりソファーに腰を下ろさせた。
ぴたりとくっつけられた太腿に、ぞわりと鳥肌が立つ。
鍛えていることがすぐに分かる硬い感触だった。
鋼のような長身は威圧的で、気を緩めれば容易く蹂躙されそうだ。
だが、彼には出来ないことを私はすでに知っていた。
ユーグさんの魔法に感謝しなければ。
タリムの民の魂に刻まれしは『自由』。
何人であろうと自由を踏みにじることは許されない。
古い伝承の一節にある通り、タリム人はお互いの自由を何より尊重する。
無理強いして何かをさせようとする者は、翼を折られてもおかしくないと考えられているのだ。
「離れて」
気力を奮い立たせ、短く命じる。
チェインは聞えよがしな溜息を吐き、私から手を離した。拳一個分の距離を開け、座り直す。
「これでいいか?」
「まだ近い。もっと離れて」
「なんだよ、こまけえな。ちゃんと離れたぞ」
「もっと、離れて」
強めの口調で繰り返す。
目を逸らしたら負けだと思い、目に力を込めて睨みつけた。
チェインも負けずにじっとこちらを見つめ返してくる。
まるで猛獣を相手にしているような気分になった。
「はぁ~……んじゃ、これは?」
チェインは立ち上がり、居間の扉の前に立った。
玄関までの道は塞がれた格好だが、裏口には逃げられる。
きちんと言うことを聞いてくれたことにも安堵し、私は頷いた。
「我らが女神様は、男に随分手厳しいな。それとも俺にだけか?」
扉に軽く背中を預け、チェインが腕組みして尋ねてくる。
こんな状況でなければ、思わず見惚れてしまっただろう。それくらい様になっている。
「失礼な人は、嫌いです」
「俺も嫌いだ。気が合うな」
チェインはにこ、と笑った。
……駄目だ。全く話が通じない。
「何か用事があって来たんですよね。なんですか?」
こうなったら、さっさと話を終わらせよう。
私が切り出すと、チェインは眉を上げた。
「雨の16日だぜ? そんなの、誘いにきたに決まってるだろ」
「は?」
「番のお試し。まあ、一回寝てみて気に入らなかったら、大人しく断られてやるよ」
チェインは形の良い唇をペロリと舐め、熱っぽい眼差しで私を捉えた。
――……は!?
この人、今堂々と「私を抱きに来た」って言わなかった? いや、発情期に入ってすぐに押しかけてきたんだから、そういうことだろうけど、理解が認識に追いつかない。
私が処女じゃなければ、あしらい方が分かったかもしれないが、生憎そっちの経験値はゼロだ。
正直、その場で倒れ込みたくなる。
私は震える膝に力を込め、首を振った。
「ごめんなさい、無理です。私の常識では、出会ったばかりの人と寝たりしません」
「そうなのか?」
チェインは目を丸くした。
精悍な顔立ちが途端に幼くなる。
冗談じゃなく驚いている様子の彼を見て、少し気持ちが落ち着いた。
「え? じゃあ、どうやって相性確かめんの?」
チェインが不思議そうに尋ねてくる。
「それは……話したり、遊びにいったり、とか、そういうことをして仲良くなって、自然と、です」
私も知らないよ。教えて欲しいのはこっちだよ! と内心逆切れしながら、しどろもどろに説明する。
「はぁ? そんなんで相性が分かんの? 友達になる方法を聞いてんじゃねえぞ」
「最初は友達からなんです!」
ここは間違っていないはず。
力説した私を見て、チェインは眉を顰めた。
「嘘はついてねえみたいだけど、なんかいまいち信用できねぇな」
野生の勘、恐るべし。どうやら恋愛経験のなさを見抜かれているようだ。
「信用できない相手を結婚相手に選ぶことも、私の常識ではありえません。お引き取り下さい」
玄関の方角を指差し、びしりと言い放つ。
チェインは悔し気に私を睨んだが、このままでは埒が明かないと諦めたのか、壁にもたれていた背を起こした。
反射的に一歩下がってしまう。
「分かったよ。俺を怖がってるんじゃ、どうしようもねえ。そんじゃ、お友達とやらから始めようぜ。それでいいんだろ?」
本当に分かったのだろうか。
疑り深い眼差しで見つめた私に、チェインは両手をあげてみせた。
「ほんとに何もしねえって。また晴れの日に出直す……って、うるせーのが来る前に退散するか」
チェインは耳をそばだてると、あっさり踵を返して出て行く。
彼と入れ替わるように、裏口からラスが飛び込んできた。
「今、チェインが来てた!?」
手にはグローブを嵌めたままだし、裏口の扉は開けっ放しだ。
この様子だと、作業も途中で放り出して駆けつけてきたんだろう。
納屋から家まではすぐだが、それでも濡れないわけではない。細かな水滴が柔らかな髪についている。
私はラスに近づき、掴んで伸ばした袖口で水滴を払った。
「匂いがきつくて、気づくの遅れた。ごめんな、ミカ。大丈夫か?」
ラスが心配そうに問いかけてくる。
私は親指を立て、ぐっと突き出して見せた。
「来てたけど、追い払ったよ。大丈夫」
「そっか、よかった」
ラスの張り詰めた表情がふわりと緩む。
彼は私の真似をして、親指を立て、こちらに突き出した。
「これなに? 男を追い払った時のポーズ?」
「違うよ、達成したぞ! のポーズ!」
「へえ、じゃあ俺もこれから何か上手く出来たら使おっと」
ラスはそう言うと、嬉しそうに笑った。
彼のなにもかもが可愛くて、胸が痛いくらいだ。
この気持ちを「愛おしさ」を呼ぶのだと、私はまだ知らなかった。
チェインはといえば、その後は一度も顔を見せなかった。
彼が発情期をどうやり過ごしたのか少し気になったけど、私がお相手を務められない以上考えても仕方ないことだ。
代わりにといっては何だけど、何人かの若者が私に会いにやってきた。
SNSなんてものはない世界なのに、彼らはどこで情報を手に入れるんだろう。
『ダンのところにタリム様似のただびと女性いるよ』
投稿された発言にいいねボタンを押すタリム人を想像して、どっと疲れた。
雨がずっと降り続いている状態も、私の憂鬱に拍車をかけている。
寝る時も起きてからも、とにかくずっと、絹のような柔らかな雨がガラス窓を伝い、かすかな雨音を耳に運んでくるのだ。
ラスがいてくれなかったら、おかしくなってしまったかもしれない。彼の無邪気な優しさに、幾度癒されたか分からない。ラスは私のお日様だった。
ようやく雨が終わる。
ブレスの珠を指折り数えて待っていたので、その日は早くに目が覚めてしまった。
ベッドから跳ね起き、真っ先に窓辺に向かう。
薄紅の遠慮がちな日光が、ゆるやかにガラスを包み始めていた。
ようやく外の空気が吸える!
急いでパジャマ代わりに来ていた長袖Tシャツと半ズボンを脱いで、ベッドの上に放り投げる。
タンスの中から今日はオレンジ色のワンピースを選んだ。
まだ薄暗い居間を抜けて、そっと玄関から外に出ようとしたところで。
「どこ行くんだよ」
背後からかけられたラスの静かな声に私はびくりと飛び上がった。
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