こい唄

あさの

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波風

3.

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声をなくして立ち尽くす昭仁の耳に、犬の鳴き声が割り込んだ。程なく、小さな白い犬が昭仁と一子のもとへ走ってきた。駆けてくる雪を見て、この場所が朔良の離れに近いことを思い出した。

「君が噂の雪ちゃんかな?」

行儀良く座り、二人を見上げる雪に、一子が側にしゃがんで話しかけた。その彼女には、先ほどまでの厳しさは見当たらなかった。

雪が現れて少し経ってから、朔良もやって来た。
彼が来る頃には、一子から成された問いはうやむやになっていた。

昭仁はそれに安堵している自身がいることを自覚していた。と、同時に、彼女の言葉が心に引っ掛かったままなのも自覚していた。

朔良は始め、一子がいることに驚いていた。昭仁が来ることは予想していたようだったが、彼女がいることは予想していなかったらしい。

しかし、一子がどのように屋敷にやって来たのか、朔良はその顛末を全て聞く前に理解した。
彼は、半眼になって呆れたように一子を見た。

「一子…、兄さんは一子の突飛な行動には慣れてないんだから」

「はーい、ごめんなさい」

「その言い方は絶対またするでしょう…。来るなら、僕の離れからにしてください」

「はい!」

一子が笑って頷いた。

その足で、朔良の離れへ向かう。
しかし、先を行く彼が手をかけたのは、離れの裏戸だった。閂の外れている戸を押し開く。その先には、昭仁にも見慣れた朔良の私室が見えた。なぜ玄関から入らないのだろうかと不思議に思いつつも、昭仁も朔良に続く。

雪は勝手知ったる様子で、戸が開いた途端に隙間をすり抜けて中に入って行った。
朔良に案内され、昭仁と一子も私室へ入る。

「――うわぁ…、懐かしいですねぇ…。朔良さんの部屋です」

入った途端、感慨深げに一子が呟いた。

「そんなに感動するものでもないでしょう」

「いえ、こういうものは視覚や嗅覚が訴えてくるもんなんです。朔良さんのお部屋は、いつも朔良さんのお着物に焚きしめられてるお香の匂いがするんですよ。あんまり伺う回数はなかったですけど、わたし、覚えてます」

一子がどこかの権威ある教授のように講釈垂れる。茶目っ気を込めて、片目をつむって見せた。

朔良は無言で自身の着物の袖の匂いを嗅ぎ、首を傾げた。

「桜の香の匂いがしますね、確かに。普段部屋にいる朔良にはわかりづらいかもな」

昭仁が、後半は朔良に向けて言う。

「あ、朔良さん。襟首に屑が…」

朔良が首を傾けたからだろう。曝された襟首に付いていたらしい埃に気付いた一子が、それを取ろうと手を差し延べた。

―――それは一瞬のことだったと思う。

朔良の首筋に触れる一瞬、朔良が一子の手を避けた、ように昭仁には見えた。しかし、それは同じく一瞬の内に隠され、彼はその仕種をまるでなかったかのように彼女の手を受け入れた。

「…はい、取れましたよ」

一子が笑う。その瞳が、昭仁にはひび割れているように見えた。

「うん…、ありがとう」

それに礼を返す朔良の瞳も。
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