十五光年先の、

西乃狐

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 尋深との邂逅の翌朝。目を覚ましたのは自宅リビングのフローリングの床の上だった。

 頭が痛い。
 スーツは脱いでいた。きっと正しくは、脱がされていたのだろう。自覚はないけれど。
 ネクタイもしていない。ワイシャツは首元のボタンが三つほど外されていた。
 頭以外にもあちこちが痛い。せめてソファで寝るんだった。

「あっ、パパ、起きた」

 目をやると、妻と娘がダイニングのテーブルで食事をしている。

「大丈夫なの?」

 心なしか妻が口を尖らせているように見えたけれど、気のせいだと思うことにした。

「大丈夫……。悪いけど、水をくれないかな」

「随分と楽しいお酒だったのね」

 やはり妻の言葉には気付かざるを得ないほどに尖ったとげがある。
 この棘は跳ね返そうとしてはいけない。少々ちくりちくりと痛い思いをしても、甘んじて受け入れなければいけない。たとえこちらにやましいことが何も無いとしても。それが経験則だ。昨夜の酒のように、説明すればするほど誤解を招きそうな場合は特に——。

「朝御飯か?」

「何言ってるの。もうお昼御飯よ。あなたのせいで掃除機もかけられなかったんだから。本当に大丈夫?」

「あぁ、ごめんごめん。大丈夫だよ」

 大丈夫——?
 尋深からも最後にそう言われたような憶えがあった。
 そうだ。タクシーを拾ったのだ。
 一人乗り込んだ彼女を見送る時、発車間際に彼女が窓を開いた。

——二次会は寝ちゃってたあの頃と成長が無いんじゃないの。駄目よ、ここで寝ちゃ。大丈夫?

 彼女の方は全然平気な様子だった。実は学生時代からアルコールの処理能力も含めて身体能力面では敵わなかった。勝てたのはテニスだけだ。
 本当に成長が無いと心の中で苦笑した。

 いや。そうではない。
 そうじゃない。
 何かもっと思い出すべきことが——。

 アルコールで消去されかかっていた記憶を手繰り寄せる。
 時間がもう少し巻き戻った。

 タクシーが拾えそうな広い通りまで並んで歩いた。歩きながら一度肩が触れ合ったので、お互いに半歩ずつ離れて距離を取ったりしながら。

——わたしたち、変わったのよ。

 酔いのせいだろう。彼女の真意を汲み取ろうともしなかった。

——いや。君はあの頃のままだ。

 頭に浮かんだことがそのまま言葉になった。
 思い出しただけで赤面してしまう。素面ではとても口に出来ない。

——もう。酔っ払いが。

 酔っている分、正直と言えば正直な感想ではあっただろう。けれど、正直であることがいつも正しいとは限らない。

——学生時代のあなたは、わたしのことを君だなんて呼ばなかったでしょ。

——それはお互い様じゃないか。俺だってあなただなんて呼ばれた憶えは無い。

——わたしたち、織姫と彦星じゃないのよ。

 突然何を言い出すのかと思った。

——当たり前だ。やつらは毎年会えるのに、俺たちは十五年も会えなかったじゃないか。

——そういうことじゃないわ。今のわたしを見てって言ってるの。最後に会ってから十五年の時間が過ぎた。わたしたち、アラフォーよ。肌の張りもなくなってきた。小皺も増えた。そろそろ白髪だって……。

 そんなことは分かっていた。言われるまでもない。最初からありのままの彼女を見ていた。昼間会った時も、夏雪のカウンタでは物凄く至近距離で。
 けれど、彼女はそんな思いを容赦なく打ち砕いた。

——あなたは今日昼間会った時から、ずっと十五光年先を見ているような目だった。ずっとそう。あなたとわたしの距離が十五光年あれば、あなたには十五年前のわたしが見える。それは素敵な、魅力的な話かもしれないけれど、現実はそうじゃない。わたしはあなたのすぐそばにいた。今もそう。だから、もうそんな天体望遠鏡を覗くような目で見ないで。

 そんな目でなど見ていない——。
 そう言い切れない自分がいた。

——あなたはわたしに振られた、そう思っているでしょう?

 思っているも何も、事実振られたのだ。
 そう反論するよりも、彼女の言葉の方が早かった。

——わたしの思いは違う。わたしがあなたに振られたの。あの後、あなたがわたしの別れましょうっていう申し出をあっさりと受け入れた後。わたしはずっと待ってた。あなたがもう一度告白してくれるのを。なのに、いつまで待ってもあなたは何も言ってくれなかった。だから、わたしが振られたの。それが真実。あなたの記憶は間違っている。

 そんな——。そんなことを言う為に来たのか。それが整理を付けると言った意味なのか。
 言うべき言葉を見つけられなかった。

——正直に言うとね……。

 そこで尋深は珍しく躊躇ちゅうちょを見せた。が、それも一瞬のことで、すぐに言葉をいだ。

——あなたは本当は柴田さんのことが好きなんじゃないかって思ったこともあったの。だから、わたしが別れましょうって言った時、あんなにあっさりしてたんだって。

——それは、違う。

——自信満々ね。でも、うん。暫くして誤解なんだって、わたしにも分かった。

 柴田奈央のことを想っていたのは中学生の自分だ。この時、そのことを初めて他人に話した。

——そうだったんだ……。だから、あなたの柴田さんを見る目が何だか違って見えたんだね。それは誤解じゃなかったんだ。ありがとう。言って良かった。何か、すっきりしたよ。

——じゃあ、俺も言って良かった。

 尋深は控え目に笑った。

——でもね、わたしが振られたんだっていう思いは変わらない。だったら自分から言えよって、そう思うかもしれないけど、こう見えてわたし、自分からは告白なんか出来ないタイプだから。

 それは知っていた。

——だから、あなたから告白してくれるのを待つしかなかったの。ストーカーだったあなたにも言ったわよね。他にやりようがあるんじゃないかって。おまけにあなたの近くには日坂君っていう、この上ないお手本がいたっていうのに。あなたったら全然なんだもの。日坂君は柴田さんに何度振られてもまたチャレンジしてたでしょ。わたし、日坂君がまた振られたらしいって聞くたびに、柴田さんのことが羨ましくって仕方がなかった。

 若い頃に気づかずにやり過ごしてしまった真実など、大人になってから知るものではない。最早後悔などするレベルでもないのだから。ただただぱずずかしいだけの恥部でしかない。この短い時間の中で、どれだけ自分の青さを思い知らされたことか。

——今日だってさあ、女性から手書きの電話番号渡されたら、とっとと男の方から架けてくるのが礼儀ってもんでしょう。それなのにいつまで待っても電話はおろか、メールもLINEも来ない。今日を逃せばもう本当に一生会えないかもしれないっていうのに。ほんと、だらしないんだから。

 もう勘弁してくれと言いたかった。完全に白旗だ。
 なのに、彼女の方はまだ隠し玉を持っていた。

——今日のお昼だって、あなたを見つけるの大変だったんだから。お昼休みの時間、早めに行ってあなたの会社の前であなたが出て来るのを待ってたのに、なっかなか出て来ないんだもん。どんどん人が増えて見つけにくくなっちゃうし。午後からの仕事の時間も決まっていたから、いつまでも待つわけにもいかなかったのよ。ちょっと油断した隙に、あなたは人ごみの中をどんどん歩いて行っちゃってお蕎麦屋さんに入っちゃうし。少し悩んでからわたしも入ってみたら、あなたは若くて綺麗な女の子とでれでれ楽しそうに食事してるし。どうやって声かけようか、すっごく悩んだんだから。

 でれでれなんかしていないと反論したいところだったが、あの出会いが偶然ではなかったということの方が衝撃過ぎた。

——わたし、注文したお蕎麦、半分も食べられなかったわ。

 それを聞く自分がどんな顔をしていたのか。思い出したくも知りたくもない。

 もう時間がなくなっちゃったんだよ——。昼間、名刺を貰った時の彼女の台詞。後から思えば少し違和感のあるあの台詞も、時間が迫っている中で待っていたからこそということか。

——自分が見ていたものが信じられなくなった? 大丈夫。わたしはいなくなる。いい歳してこんな悪戯する女はわたしだけ。さっきはああ言ったけれど前言撤回。わたしたち、織姫と彦星になりましょう。誤解しないでよ。年に一回会おうってんじゃないから。地球から織姫までの距離は二十五光年。地球から彦星までは十七光年。そして、織姫と彦星の距離は?

——十五光年だ。

 それは全部、合宿の夜に僕が彼女に教えた数字だ。

——あの二人はお互いに十五年前の相手を見ている。わたしたちにぴったりじゃない。これまで通り、あなたはあなたの日常を生きて、わたしはわたしの現実を生きる。もう会うことも無いだろうわたしたちは、お互いに十五年前の相手を見ながら生きましょう。ごめんなさい。ずっとあなたのことを想って生きるわけじゃないけど。そうね。年に一回も無理かも。でもいいじゃない。お互い、多分これですっきりしたはず。あなたがわたしのストーカーをやめた時みたいに。

 彼女は話しながらタクシーに手を上げた。

——会わない方が良かったとか思ってる? 合宿の夜の砂浜で話したこと、憶えてるかな。離れていた方が若いままの自分を見てもらえるって話。あれは宇宙レベルの距離感じゃなくても、地球にいる人間同士でもそうなんだなって、最近思うの。昔会ったきりになっている人は、いつまで経ってもその時のまんま歳を取らないもの。あなたの中のわたしも、きっと今日のお昼までは学生時代のままだったんでしょ。お互い様だけど。でもね、それでもわたしは会えて良かった。

 タクシーに乗り込む間際、彼女は振り向いて、昨夜一番の笑顔を見せた。

——そう考えるとわたしって、まるでわざわざ玉手箱を開けに来た乙姫様みたいじゃない?

 玉手箱の中身は青春だってか。

——織姫の次は乙姫かよ。まあ確かにどっと歳を取った気にはさせられたかもな。

——文句ある?

——遠くへ旅立つあたりはかぐや姫っぽいてか?

 そういえばカナダへいつ発つのは聞かず仕舞いだ。

——あ、それいいわね。

——好きにしろ。

——そうするわ。じゃあね。元気でね。……ばいばい。

 彼女を乗せたタクシーが角を曲がるのを見届けてから、自分が乗るタクシーを捕まえるべく手を上げた。

 特別なことではない。誰だって抱えて生きているはず。若い頃なら尚更だ。青臭い記憶。ほろ苦い体験談。どんなに親しい人にだって言えないこともある。気づけなかったことや勘違いしたままになっていることだって、どれだけあることやら。
 そんなものが詰まった玉手箱こそ、青春と呼ぶべきものなのかもしれない。若者がアオハルと呼ぶものとは別物だ。だって、若者はまだ自分自身がその箱の中にいるのだから。

 どこかに刺さっていた大きな棘が一本抜けた。酷い二日酔いのはずなのに、そんな清々すがすがしさがあった。

 多くのものは遠く離れてしまえば見ることすら出来はしない。忘れ去られ、無かったも同然となる。何光年離れても見えるのは、それだけの輝きを放つものだけだ。

「はい、パパ」

 娘が水を注いだコップを持って来てくれた。

「ありがと」

 飲みながら思った。
 尋深は間違っている。織姫と彦星はずっと同じ距離で見つめ合っているとしても、自分たちはそうはいかない。もうこの先は十五年では済まないのだ。五年経てば二十光年。十年経てば二十五光年。二人の距離は広がるばかりだ。
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