輪廻の狭間

ひつじのはね

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輪廻の狭間で

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開いた目は、何も映さなかった。
こんな目覚めは初めてだった。そして、こんなにはっきりと記憶が残っていることも。
彼は何度か瞬いた末、右手を持ち上げた。

試すように顔の前へかざした手は、真っ白な背景にくっきりと存在している。
目が見えないわけではないらしいと納得すると同時に、薄い唇から訝しげな声が零れた。

「……成人?」

なぜ、と思う。その目に映るのは幼児の手だと思っていたから。
いつも、おぼろげに記憶が蘇るのはその頃だったから。けれど、その手は明らかに成人した男性の手だった。
それも、激戦をくぐり抜けた紛れもない勇者の手。

むくりと身体を起こし、自らの全盛期の身体を眺めて困惑する。
此度の生を全うしたのではなかったか。ならば、再び巡る生は赤子からのはず。
透明な棺から抜け出すと、勇者は周囲を見回した。
ただただ白い無限の空間には、何もない。

視線を戻すと、抜け出した棺すら消えていた。
怖くはない。体感ではたった今、生を終えたばかり。此度の邂逅も俺の勝利に終わり、穏やかな世界で満足のいく人生を過ごしたのだから。

勇者はふと視線を巡らせると、足を踏み出した。

「あれ、は……」

身体の赴くままに歩いた先に、ぽつんと染みのような点が出現している。
ギクリと身体を強ばらせ、慎重に歩みを進める。どこかぼんやりしていた意識がクリアになり、呼吸が戦闘時のそれへと切り替わった。

真っ白な世界に置かれた、透明な棺。彼が出てきた棺と寸分違わぬ様相に、確信に近い予感がした。
自分と、もう一人。もし世界に2人しかいないなら、それは必ず彼であるはず。
勇者は一定の距離を保ち、油断なく目を凝らした。

彼より頭ひとつゆうに高い体躯、魔に優れた者特有のすらりとした肢体。棺の中を埋める長い黒髪。


「……魔王」

幾度となく相まみえたその姿は、冷酷な瞳で見下ろすでもなく、血濡れで横たわるでもなく、そこにあった。
どのくらい息を詰めて見つめていたのか、しかしそれでもピクリともしない男に、勇者は用心深く近づいた。

青白く見えるほどの白い肌、すっきりと高い鼻梁。今は閉じられた瞳が深紅であることを、彼は知っている。

「こんな顔、だったか?」

嘲笑も歯がみもしない穏やかな表情は、まるでただの男のようだった。存外きれいな顔をしていたのだなと感心する心に、憎悪も怒りも湧かないことを不思議に思った。

「ここまで俺が近づいて、お前が気付かないはずがない」

死んでいるかと思ったが、その胸はかすかに上下していた。これは、ただの眠りではないと本能的に察する。

「まさか。ここは……世界の始まりなのか?」

常に勇者と魔王の邂逅する世界で。
幾度も生を繰り返す俺と、永き時を巡り続けるお前。
俺が生まれて、お前が復活して。俺が勝てば穏やかなる100年が、お前が勝てば荒らかなる100年が約束される。

だが、今までこんなことはなかった。
それを証拠に、世界の理を理解する記憶があるにも関わらず、こんな魔王の姿に見覚えなどない。

勇者は再び、棺に視線を落とした。
こんな機会は二度とないかも知れない。傍らに腰掛け、何の遠慮もなく眠る魔王を眺めた。

「もっと、大きいと思っていた」

勇者よりも大きい体躯は、戦闘時にはさらに倍に膨れあがっているように思った。

「もっと、残虐な顔をしていた」

いや、もっと狂気的な顔、だろうか。
胸に突き立てた最期の一撃に、その顔が笑みをかたどったのを覚えている。
見開かれた深い紅の瞳に俺が大写しになり、その白い頬に紅が散っていた。急速に失われていく命の中で、三日月型に上げられた口角が目に焼き付いていた。
最期に何を思って笑ったのか。

今、聞けば答えるだろうか。
今、目を開ければどんな風だろうか。

じっと見つめたまぶたは、震えることすらない。
髪と同じ黒いまつげは、こんな男に勿体ないほど長かった。

焼け焦げ、お互いの血に汚れて乱れていた黒髪は、こんなにも滑らかに光を反射していたのか。
この髪を、掴んだことがある。汚れた手で、力任せに。
こんなに美しいものだとは知らなかった。

つい、手を伸ばした。
詫びるように、艶やかな黒髪をすくいあげた瞬間、世界の温度が上がった気がした。

「なんだ……?」

止まっていた針が、進み出したのを感じる。
彷徨わせた視線を戻した瞬間、ぎょっと心臓を跳ねさせた。

数度瞬いた紅い瞳が、開いたままになり――。
そこに、息を呑んだ勇者を映した。

身を起した動作につれ、ふわりと黒髪が舞う。
きょとんとした紅い瞳に、勇者は衝動的に笑い出したくなった。
これが、あの、魔王だって?

「……なぜ」
低い声は、どの時に聞いたよりも静かで、戸惑いに満ちていた。勇者は笑いの衝動を押し殺して紅い双眸を見つめ返す。

「……お前が先だったことなどなかったのに」

どこか憮然と呟く様子に、勇者は首を傾げる。しかし、声を発するより先に再び魔王が呟いた。

「お前が我に触れるなら、剣を突き立てる時だと思ったが?」

皮肉めいた視線は、彼の知る魔王に近いもので、どこか安堵した。

「お前じゃあるまいし。俺はそんな卑怯な真似はしない」

ふん、と流し目をくれ、魔王は辺りを見回した。
お互いに、世界が動き出しているのを感じる。この静かな邂逅が終わりを告げていることを感じている。

立ち上がった魔王を見上げ、勇者は澄んだ瞳できっぱりと宣言した。

「此度も、俺が勝つ」

「……そうか」

見下ろした整った顔が、にや、と口の端を三日月に持ち上げた。

「待っているぞ」

薄れ行く白い世界で、2人は背を向けた。
身じろぎと共に魔王の黒髪が視界を掠め、さらりと勇者の頬を撫でる。
ふと、その感触を知っている気がした。

「…………」
ひとつ首を振って、勇者は歩を進める。

必ず、俺が勝つ。
そして――次も、必ず俺が先に目を覚ます。

……待っていろ。
密かに呟いた口元は、ほのかに弧を描いていた。


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