俺の猫は支子色の瞳

ひつじのはね

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大事な猫をはなさないで

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「――アオイ、こっち!」
「待って、ミケちゃん待ってくれよ! な、なあ、本当にここはどこなんだ? どうしてミケちゃんはそんな姿に?」

縁側から外へ飛び出し、2人は夕闇の中を連れ立って走る。
繋いだ手にしっぽまで絡めて、ミケはぐいぐいと蒼衣の手を引いた。
まるで時代を逆行したような和風建築が並ぶ町並みに、着物なのか、そうでないのか曖昧な衣装を着た人々が闊歩かっぽする。
そして、その頭には一様に三角の耳が、裾からはしっぽが見え隠れしていた。

「あそこ! ほらアオイ、もうすぐだよ!」
街を駆け、辿り着いた石段を見上げる。その先には、しめ縄の掛かった大きな鳥居が見えた。
「神社……? ミケちゃんはどこに行きたいんだよ?」
息を切らして見上げた鳥居は、暮れゆく薄紫の空にくっきりと黒く見え、あの時の空と同じようで――。
 
ふと、蒼衣を見つめる、支子くちなし色の瞳が脳裏に浮かぶ。
そうだ……早く、帰らないと。約束したのに遅くなってしまった。思考の中に淀んでいた霧が、晴れた気がした。
蒼衣はぐいぐいと手を引いて石段を登るミケに、遠慮がちに声をかけた。

「あの、ミケちゃん、俺そろそろ帰らないと」
ぴくっと肩と耳を震わせたミケは、そのまま振り返らずに石段を登り切った。
「ミケちゃん?」
蒼衣は足を止め、なおも引っぱろうとする華奢な手を引いてみる。

「もうちょっと。ねえ、行こ」
「そうもいかなくて……随分と待たせちゃってると思うから」
不機嫌そうに玄関へ迎えに出て、そのまま引き返してしまうニケ。気に入らない餌は食べてくれない二ケ。容赦なく踏んで起こしてくれるニケ。時々そっとしっぽを寄せてくるニケ。
ああ、早く帰らないと。蒼衣は苦笑してもう一度前にある背中に声をかけようとした。

「ダメ。行っちゃ嫌」
俯いたミケが、蒼衣の懐へ飛び込んで来た。
「私に、触りたいって言ってたじゃない。ほら、触っていいよ、触れるよ? アオイも、ここにいる方がいいよ」
潤んだ柳色の瞳が、縋るように蒼衣を見つめている。柔らかなぬくもりに身体が強ばり、どうにも顔が熱を帯びてしまう。
蒼衣は彷徨わせた手をそっとミケに添え、さらりと頭を撫でた。
……これは猫、と自身に言い聞かせながら。

「ミケちゃんは野良だよな。そっか、寂しかった? ウチにはもうニケがいるけど、ミケちゃんが良ければうちに来てもいいんだよ」
ミケは、蒼衣の胸に顔を伏せると、無言でぐっと抱きしめる腕に力を込めた。
ややあって、ミケはゆっくりと伏せた顔を上げる。儚げな笑みに、ぎゅっと胸が痛んだ。

「……ううん。いいの。じゃあ、あとひとつだけ。一緒にお参りして帰ろ?」
蒼衣はホッと肩の力を抜いて頷いた。そのくらいなら、お安いご用だ。
再び手を引かれるまま、鳥居へと一歩踏み出した時、思い切り身体が引き戻された。

「行くな‼ 馬鹿!」
がっちりと蒼衣の腕を掴んだ手は、見覚えのない精悍な青年へ繋がっていた。
いや、見覚え、ない……? 
センターパートの黒髪、ぎろりと蒼衣を睨む、鋭い支子くちなし色の瞳。
「ニケ‼」
蒼衣の口から迷いもせず飛び出した名前に、ニケはほんの少し驚いた顔をした。
引き寄せられるままにたたらを踏んで、蒼衣はまじまじとニケを見上げる。
黒髪にぴんと立ち上がった黒い耳、その後ろには、不機嫌に揺れる黒いしっぽが見えた。

「お前、俺といるって言ったな? 早く帰るって言ったな?」
腕組みして見下ろす仏頂面は、寝起きに見る光景と同じ。早く起きろとばかりに胸の上に乗って見つめるあの顔だ。
蒼衣は思い切り破顔して伸び上がると、高い位置にある頭を撫でた。
「ごめんな、遅くなった。大丈夫、俺はちゃんと帰るから」
「……ならいい」

プイと顔を背ける仕草も、耳だけこちらへ向けるそれも、やっぱりニケだ。ああ、かわいい。
「そうだ、スマホ! 写真写真‼」
慌てて懐を探る俺の耳に、鳴き声が聞こえた。
「ミケちゃん? ……あれ?」
さっきよりも鳥居の輪郭がぼやけた気がして、蒼衣は目を擦った。

「……陽が、沈む」
ぽつりと呟いたニケの声を皮切りに、周囲はみるみる闇に呑まれていく。目覚めてから今の今まで、ずっと夕方であったことに気付いて、蒼衣の背中がぶるりと震えた。思わず目の前の腕を掴むと、支子くちなし色がしっかりと蒼衣を見つめ返す。
「蒼衣、帰るぞ」
「そうだな。それって俺のセリフだけどな」
生意気な猫にくすりと笑うと、心に淀んでいたものが消えていった気がした。
鳥居の向こうで佇むミケは、もう一度だけ鳴いて、ほんの少し微笑んだようだった。


「……帰ってきた、よな」
閉じてはいなかった目が、徐々に周囲を見分けられるようになってくる。
俺の猫は、と掴まれたままの腕を見やれば、そこには見慣れたハチワレがはっしと腕を抱え込んでいた。
「にゃーう」
「悪かったって」
しょうの無いヤツめ、そう言いたげな支子くちなし色の目に謝って、蒼衣はくるりと踵を返した。
ところでニケのやつ、どうやって家から出たんだろう。脱出経路を把握しておかねば。

「ありがとうな。おやつ、奮発しなきゃなあ」
おやつ、の声に、力の抜けていた黒い耳がピンと立った。陽の落ちる中、こちらを見る広がった瞳孔があまりにキュートで、蒼衣はだらしなく頬を緩めた。

今度、ニケとここへ来よう。人知れずいなくなった野良猫たちのために、せめておやつを持って祈りを捧げよう。
どこでもない場所よりも、きっと天国の方が居心地がいいだろうから。

夕闇の中を連れ立って歩きながら、少女の寂しげな微笑みを思う。
俺、離さないようにするよ、この大事な猫を。蒼衣は抱えたニケの毛並みにそっと顔を伏せた。
腕の中の柔らかな重みは、ちらりと蒼衣を見上げて、満足そうに鳴いたのだった。
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