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四章 夏
紫色
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あれから九日間、手紙はほんの一通も届くことはなかった。期待と不安が入り混じる感情で、僕はとうとう彩音の家に出向くこととしていた。
アスファルトから湧き上がる陽炎が、天気予報の数字以上に暑さを感じさせる。徒歩圏内で着いた団地の前には、何やら中型のトラックが駐車している。それを避けて、部屋の前へ移動する。そして感情の中から、期待だけが消え失せた。
玄関の扉が全開になっている。中から冷蔵庫を運び出す人が現れ、僕は部屋の番号を確認した。
「すみません、ここに住んでいる人って……」
「はい? あぁ、私たちは詳しくは知らないので、中の人に訊いてください」
家電の表面を押し合うようにして運び出す男性らが、部屋から抜けるのを待つ。家の中には、数人が何やら作業をしている。荷造りのような、掃除のような。靴を脱ぎ、中へ踏み入る。
「ん? あんた誰だい?」
部屋の奥から、中年の女性が僕に尋ねる。黄色の猫を模したマグカップを、何やら箱に仕舞っている。心が何か見たこともないようなものに揺らされているような気がして収まらない。
「すみません、勝手に入ってしまって。ここに住んでいた人は、どこへ……?」
この人は親戚か誰かだろうか、そんなことが頭を横切る。
「あぁ、あの子の友達かい?」
「まあ、そんなところです」
恋人です、とは言うことができなかった。照れ臭さなのか、勘なのかはわからない。
「あの子に友達がいたなんて……。けど、残念だけど」
耳を引きちぎりたくなるような、そんな想いだった。
「つい先日に亡くなってね。もう残念だけど、お葬式を行うほど…………」
鼓膜が破れたら、こんな感覚なのだろうか。体自身がそう思ったことだった。目の前にいる女性からは、声が聞こえない。口だけが動いているのだ。受け入れられない現実と、信じ難い言葉に、思考が早まる。ようやく喉の奥から上がり出た質問は、意味もないものだった。
「最期は…………どこで?」
「確か……の……病院……ような……」
途切れ途切れに聞こえる文字を繋ぎ合わせ、頭の中に上った血が少しだけ落ち着くと、僕は走っていることに気がつく。息が切れそうで苦しかったが、自然と足が止まることはなかった。きっと意識的には止まらない、魔法で動かされているような感触だ。
半ば、疑いという希望を抱きつつ、病院の自動扉の前に到着する。いつの日か、僕が入院をしていた場所だった。肩で呼吸をするように、大きく身体を揺らしながら中へ進む。汗が滴り目に入る。反射的に閉じてしまい、びしょ濡れの袖で拭って瞼を開く。
「待ってたよ、少年」
見覚えのある看護師だった。さっぱりと髪を切り、ショートヘアになっていたが、口調ですぐに思い出す。手招きに誘われ、僕は病棟へと進む。その人はとある個室の前で立ち止まり、中を覗く。
「ここ、あの子が最期にいた部屋」
何もない、普通の病室だった。窓の外には川が見える。広く右往左往に流れる割には、水の量が少ない川だ。
「おいで」
次に着いたのは、患者用の休憩室のような場所だった。窓際のカウンター席のように外を向いた椅子に腰を下ろす。汗が冷え始め、少しだけ肌寒い。
「ちょっと待ってて」
そう言われて僕は外を眺める。やけに空の色が、濃い露草色のように思った。数分待たされた後、看護師が持ってきたものは、片手だけで持てそうなほどのコンパクトなダンボールだった。
「これ、あの子からだよ」
テーブルに置いた小さなダンボールの中身を覗くと、大量の手紙、朱色の薄い布でラッピングした何か、そして数々の写真だった。写真は全て僕が撮ったものだが、金色のリボンで結ばれたそれは全く見当が付かない。そしていつもの果物柄の手紙。これは彩音からのものだとすぐに理解できた。
アスファルトから湧き上がる陽炎が、天気予報の数字以上に暑さを感じさせる。徒歩圏内で着いた団地の前には、何やら中型のトラックが駐車している。それを避けて、部屋の前へ移動する。そして感情の中から、期待だけが消え失せた。
玄関の扉が全開になっている。中から冷蔵庫を運び出す人が現れ、僕は部屋の番号を確認した。
「すみません、ここに住んでいる人って……」
「はい? あぁ、私たちは詳しくは知らないので、中の人に訊いてください」
家電の表面を押し合うようにして運び出す男性らが、部屋から抜けるのを待つ。家の中には、数人が何やら作業をしている。荷造りのような、掃除のような。靴を脱ぎ、中へ踏み入る。
「ん? あんた誰だい?」
部屋の奥から、中年の女性が僕に尋ねる。黄色の猫を模したマグカップを、何やら箱に仕舞っている。心が何か見たこともないようなものに揺らされているような気がして収まらない。
「すみません、勝手に入ってしまって。ここに住んでいた人は、どこへ……?」
この人は親戚か誰かだろうか、そんなことが頭を横切る。
「あぁ、あの子の友達かい?」
「まあ、そんなところです」
恋人です、とは言うことができなかった。照れ臭さなのか、勘なのかはわからない。
「あの子に友達がいたなんて……。けど、残念だけど」
耳を引きちぎりたくなるような、そんな想いだった。
「つい先日に亡くなってね。もう残念だけど、お葬式を行うほど…………」
鼓膜が破れたら、こんな感覚なのだろうか。体自身がそう思ったことだった。目の前にいる女性からは、声が聞こえない。口だけが動いているのだ。受け入れられない現実と、信じ難い言葉に、思考が早まる。ようやく喉の奥から上がり出た質問は、意味もないものだった。
「最期は…………どこで?」
「確か……の……病院……ような……」
途切れ途切れに聞こえる文字を繋ぎ合わせ、頭の中に上った血が少しだけ落ち着くと、僕は走っていることに気がつく。息が切れそうで苦しかったが、自然と足が止まることはなかった。きっと意識的には止まらない、魔法で動かされているような感触だ。
半ば、疑いという希望を抱きつつ、病院の自動扉の前に到着する。いつの日か、僕が入院をしていた場所だった。肩で呼吸をするように、大きく身体を揺らしながら中へ進む。汗が滴り目に入る。反射的に閉じてしまい、びしょ濡れの袖で拭って瞼を開く。
「待ってたよ、少年」
見覚えのある看護師だった。さっぱりと髪を切り、ショートヘアになっていたが、口調ですぐに思い出す。手招きに誘われ、僕は病棟へと進む。その人はとある個室の前で立ち止まり、中を覗く。
「ここ、あの子が最期にいた部屋」
何もない、普通の病室だった。窓の外には川が見える。広く右往左往に流れる割には、水の量が少ない川だ。
「おいで」
次に着いたのは、患者用の休憩室のような場所だった。窓際のカウンター席のように外を向いた椅子に腰を下ろす。汗が冷え始め、少しだけ肌寒い。
「ちょっと待ってて」
そう言われて僕は外を眺める。やけに空の色が、濃い露草色のように思った。数分待たされた後、看護師が持ってきたものは、片手だけで持てそうなほどのコンパクトなダンボールだった。
「これ、あの子からだよ」
テーブルに置いた小さなダンボールの中身を覗くと、大量の手紙、朱色の薄い布でラッピングした何か、そして数々の写真だった。写真は全て僕が撮ったものだが、金色のリボンで結ばれたそれは全く見当が付かない。そしていつもの果物柄の手紙。これは彩音からのものだとすぐに理解できた。
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