38 / 61
四章 夏
柑子色
しおりを挟む
目が覚めた先にあるのは汚れ一つない白い壁だった。重力によって押し付けられる後頭部と背中の感覚で、それが天井と気づくのにも時間を要した。ベッドから体を引き離す。体中のあちこちが痛むが、耐えられないほどでもない。薄いカーテンの隙間を縫って差し込む陽光が僕の上を通って伸びている。
「よく眠れた?」
突然に言葉をぶつけられ、反射でおかしな声が飛び出した。
「わぁ! ……いつからそこに?」
「ふふっ、ずっといたよ」
自分の膝の上に手を乗せた彩音は、僕の目を見て話を続ける。
「なんだか久しぶりだね」
「なんだかじゃないよ。ずっと会っていなかったじゃん」
彩音は首を傾げ、まるで話が噛み合っていないような反応を見せる。僕は左手で月日を数える。
「二ヶ月半だよ! ずっと見かけてもいないし、もう引っ越したのかと……」
彩音は口元に手を添えて微笑する。何がおかしいのか尋ねると、その手を再び膝元へ戻された。
「私はたまに貴方を見かけていたよ。いつも俯いたまま歩いていたから、少し心配だった」
「え? けど僕は彩音のことは一度も……」
立ち上がる彩音は、窓の外から聞こえるスズメの鳴き声にゆっくりと近いた。
「ごめんね、少しだけ距離を置こうと思って、避けてたの」
寂しさのある感情と疑問が生まれる。僕は純粋に頭に浮かんだそれを訊いた。
「けど! 僕は一度も彩音のことを見かけてないんだよ⁉︎ 一度もだ! そんな簡単に避けられるものじゃないよ!」
どこかむきになっている僕に、窓際から振り向いて微笑む彩音はどこか懐かしかった。
「だって、貴方の足音わかりやすいんだもん」
避けられていたことへのショックと、こうしてまた話し合えている現状への安心感が混ざり合い、複雑な感情だ。言葉を失い、再びベッドへ体を任せた。
「飲み物買ってくるよ。お茶で大丈夫?」
「……うん、ありがとう」
膝に掛かっていた一斤染色の毛布を退け、部屋の扉を開けて姿を消した彩音の背中を見送り、僕は瞼を閉じる。体温で温まった掛け布団に、まるでお風呂にでも入っているかのように錯覚した。
「君、良い彼女持ってるね~」
知らない声が扉から僕へ擽る様な口調でぶつけられた。隙間から覗く若いロングヘアの女性看護師が悪戯な笑みを浮かべている。
「……彼女じゃないですよ」
そう返事をすると、配膳車の中から一食分の食事の乗せられたトレイを引っ張り出し、ベッド横のテーブルに置く。そして扉も閉めずに僕の横に置かれた椅子に座り込むと、再び口を開く。
「あの子、すごく君のこと想ってるって感じるよ。君のお母さんは仕事があるらしいから午前には帰っちゃったけど」
「まあ、そんな重症でもなさそうですし」
「そうだね、その様子だと今日はもう帰っても問題なさそう。一応検査は寝てる間に終わってるみたいだし」
太陽が雲に隠れたのだと、僕を割くようにして差し込んでいた光が消えたことで理解した。部屋の外では少しバタついている様子だ。
「あの子のこと、大切にしなよ。ずっとここにいたんだから」
看護師は寂しげな表情を浮かべて、僕と顔を合わせる。僕はその言葉の意味がわからない。
「ずっとって?」
「よく眠れた?」
突然に言葉をぶつけられ、反射でおかしな声が飛び出した。
「わぁ! ……いつからそこに?」
「ふふっ、ずっといたよ」
自分の膝の上に手を乗せた彩音は、僕の目を見て話を続ける。
「なんだか久しぶりだね」
「なんだかじゃないよ。ずっと会っていなかったじゃん」
彩音は首を傾げ、まるで話が噛み合っていないような反応を見せる。僕は左手で月日を数える。
「二ヶ月半だよ! ずっと見かけてもいないし、もう引っ越したのかと……」
彩音は口元に手を添えて微笑する。何がおかしいのか尋ねると、その手を再び膝元へ戻された。
「私はたまに貴方を見かけていたよ。いつも俯いたまま歩いていたから、少し心配だった」
「え? けど僕は彩音のことは一度も……」
立ち上がる彩音は、窓の外から聞こえるスズメの鳴き声にゆっくりと近いた。
「ごめんね、少しだけ距離を置こうと思って、避けてたの」
寂しさのある感情と疑問が生まれる。僕は純粋に頭に浮かんだそれを訊いた。
「けど! 僕は一度も彩音のことを見かけてないんだよ⁉︎ 一度もだ! そんな簡単に避けられるものじゃないよ!」
どこかむきになっている僕に、窓際から振り向いて微笑む彩音はどこか懐かしかった。
「だって、貴方の足音わかりやすいんだもん」
避けられていたことへのショックと、こうしてまた話し合えている現状への安心感が混ざり合い、複雑な感情だ。言葉を失い、再びベッドへ体を任せた。
「飲み物買ってくるよ。お茶で大丈夫?」
「……うん、ありがとう」
膝に掛かっていた一斤染色の毛布を退け、部屋の扉を開けて姿を消した彩音の背中を見送り、僕は瞼を閉じる。体温で温まった掛け布団に、まるでお風呂にでも入っているかのように錯覚した。
「君、良い彼女持ってるね~」
知らない声が扉から僕へ擽る様な口調でぶつけられた。隙間から覗く若いロングヘアの女性看護師が悪戯な笑みを浮かべている。
「……彼女じゃないですよ」
そう返事をすると、配膳車の中から一食分の食事の乗せられたトレイを引っ張り出し、ベッド横のテーブルに置く。そして扉も閉めずに僕の横に置かれた椅子に座り込むと、再び口を開く。
「あの子、すごく君のこと想ってるって感じるよ。君のお母さんは仕事があるらしいから午前には帰っちゃったけど」
「まあ、そんな重症でもなさそうですし」
「そうだね、その様子だと今日はもう帰っても問題なさそう。一応検査は寝てる間に終わってるみたいだし」
太陽が雲に隠れたのだと、僕を割くようにして差し込んでいた光が消えたことで理解した。部屋の外では少しバタついている様子だ。
「あの子のこと、大切にしなよ。ずっとここにいたんだから」
看護師は寂しげな表情を浮かべて、僕と顔を合わせる。僕はその言葉の意味がわからない。
「ずっとって?」
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

写る記憶と宝物
有箱
恋愛
私は目が見えない。けれど、今は幸せだ。
それもこれも、妻の存在があるからだ。
それともう一つ、ある存在も。
私には、日課がある。
その一つが、妻の調理音で目を覚ますこと。
そして、もう一つが写真を撫でること。
しかし、それは妻との写真ではない。
――私の、初恋の人との写真だ。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる