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一章 秋
白髪
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「うん、もうほぼ治ってるよ。一応いつもの薬出しておきますんで、また悪くなったら来てください」
眼科の医者はそう言っていつも通り何かを紙に書き留める。患者の記録なのだろうが、何について残しているのかはわからないままだ。
大学帰りの眼科は平日にしては混雑気味で、少し嫌気がさしていた。しかし通院できるのは金曜日が一番都合が良い。数ヶ月前にドライアイと診断されてから、ここへ来るのは四回目となっていた。
「ありがとうございます」
肩を丸めて診察室から抜け、会計の順を安そうなソファに腰を下ろしてただじっと待つ。病院なだけあって、年配の人ばかりだった。
「白羽さーん、白羽あや……どうぞー」
受付の人が患者の名前を広く声を響かせるように呼び、名前を言い切る前にひとりの女性が待ち構えていたかのように立ち上がった。僕は窓越しに見ていた、大通りを走り抜けていく車から目を逸らし、その女性が会計を済ますのをぼんやりとしながら見つめる。女性は財布を鞄に仕舞うと、頭を軽く下げて自動扉から外へと姿を隠した。違和感に気が付いたのは、会計を担当していた女の人達がヒソヒソと話し始めてからだった。
僕は白羽と呼ばれていた女性の後ろ姿を記憶から引っ張り出し、背もたれに寄りかかりながら思い出す。金髪のような、白髪のような……うまく思い出せない。
深く帽子を被り、表情はまるでわからなかった。どうしてか脳裏にうっすらと刻まれた女性の髪の毛は、印象的であった。
「……さーん、白石幸助さーん」
ハッと気が付くと、自分の名前が周囲に響いていた。膝を伸ばし、身を縮めるようにしてお金を支払う。領収書を受け取り、その場からすぐに立ち去ろうと一歩踏み出して、足が止まった。
「すみません、さっきの女性……」
自分でもどうしてここまで気になっているのか理解できていない。何に気にかけているのか、どうしてわざわざ足を止めたのかさえわからない。
「え、あー、さっきの人? あの子、いつも帽子を深く被っていて、顔をちゃんと見たことないのよね。たぶん、先生しか見たことないんじゃないかしら。いつもどこか不気味で、私達も少し受け入れ難いって言うか……」
無意識に自動扉のガラスの向こう側に目を向ける。
「あの子がどうかした?」
「いえ、何でもないです。ありがとうございました」
扉のボタンを押し、薬を受け取るために隣の建物へと足を運ぶ。薬局の中へ入ると、すでにふたりが背もたれのないソファに腰かけていた。
眼科で貰った紙を薬剤師の男性に手渡し、僕は少し離れた箇所から女性を横目でちらちらと視野に入れてしまう。女性の位置から一席分空け、近くに座る中年の男性がスマホの上で親指を走らせている。それに対し、その人はただじっと座っている。膝の上に手を乗せ、何かを見ることもなくただじっとだ。
男性が呼ばれ、薬を貰って薬局から出ていった。次に呼ばれた女性は、音もなくスッと立ち上がり薬剤師の前へ移動した。奥から出てきた背の低い薬剤師の女性が、白髪の女性を見ると目を大きく開いてどこか驚いた表情を浮かべた。
僕は今、女性が薬の説明を受けている、真後ろに座っている。視線が吸い込まれるようにその後姿を見つめてしまう。金髪とは言い難い色の抜けた白い髪の毛は肩下あたり、ボブくらいの長さだ。鉛色のロングスカートに、浅葱鼠色のスニーカー、藍色のジージャンを羽織っている。そして深く被ったベージュ色の帽子。オシャレには敏感というわけではないが、不思議な色合いの服装だと思った。薬剤師から女性への説明が終わると、七畳ほどのスペースには自分ひとりとなった。そしてそれから一分ほどでようやく呼ばれた。
いつも通りの説明を受けて、僕は足早に外へ出る。頭に浮かぶその後ろ姿は見当たらない。これっきりだと自分に言い聞かせ、眼科の駐輪スペースに停めた銀色の安っぽい自転車に跨る。
心が落ち込んでいるような、沈んでいるような感覚になっていた。何か忘れ物をしてしまったような気分でもある。
足を乗せたペダルに体重を乗せ、ゆっくりと進み始めて向かいの二階建てスーパーへ今夜のご飯を買いに向かう。走り抜ける車の隙を計って横断歩道を渡った。駐輪場で自転車のスタンドを立てながら献立を考える。昨夜は確かトンカツだった。今日は油物は避けようか、そんなことを考えながら入り口へから入り、自動扉が開くと少し肌寒いくらいの空気が首元を擽った。
野菜コーナーを見渡しながら抜け、悩みながらお惣菜売り場へと足を運ばせる。適当に焼き鳥とお弁当でも買って帰ろうか。顎に手を添えながらレジ前を通り過ぎ、僕は足を止めた。何かが視野の中に紛れ込んだ気がし、勢いよく振り返る。
レジ奥のサッカー台に目を向けると、そこにいるのは間違いなくさっきの女性だと確信できた。もう袋に荷物を詰め終わりそうなところだ。
僕は近くのカップ麺コーナーから適当に一つ、籠の中へ放り投げるように入れ、小走りにレジへと向かった。タイミングが悪く若干込み合っているレジに並び、焦る気持ちが体をどこか落ち着かせてくれない。前に並んでいたお婆さんのお会計が始まると、彼女は買い物袋を片手に出口へと歩き出してしまった。
彼女の姿が店内から見えなくなると僕の順番が回ってきた。
ピッと一つの音が鳴り、僕は財布から二枚の百円玉をキャッシュトレイに乗せ、カップ麺を片手に走り出す。
「お釣り大丈夫です!」
彼女が出ていったところと同じ扉へ走る。追いついたところで、どうすれば良いのかとなると、わからない。けれど僕は追いかけなければいけない気がしていたのだ。本能的なものに似ている。自分のやっていることが異常だということも理解できていた。それでも、どうしてかあの女性と話がしてみたかった。
自動扉を抜け、日差しが目の奥を刺激した。辺りを見渡すと、またも彼女を見失っていた。身体の力がどっと抜け、何かを胸の奥から零してしまったような心地だ。
片手に持っていたカップ麺をリュックに仕舞いながら駐輪場へ向かおうとスーパーの角を曲がる。
「うわぁ!」
反射的に声が飛び出すほどに驚いてしまった。その女性がレジ袋を片手に立ち尽くしていたのだ。帽子の鍔で変わらずその表情はわからない。
声も出さず、ただ僕の方へ体を向けているだけで、特に何かをするわけでもない。
「あ、あの……」
どうしましたか? そう言いかけると、僕の声に重ねるようにようやく彼女が口を開いた。
「どうして私の後を追うのですか? 私、何かしましたか?」
問い詰めるような言い方に、僕は言葉が詰まる。
「えっと、すみません。そういったつもりはなかったんですが……」
彼女のことが気になっただけで、自分でも理由がわからず追っていたのだ。うまい言い訳が思い浮かばない。
「あなたも、私を馬鹿にしにきたの? だったらやめて」
彼女の口調はどこか尖っていて、あからさまに拒まれているのがわかる。震えそうな声を喉から引っ張り出し、帽子で隠れた顔へ僕は本音を伝えた。
「すみません、そんなつもりはなかったんですが……その髪の色が、綺麗だったので……」
彼女は少しだけ僕に向けて顔を上げた。しかし鍔が邪魔で、やはり目が合わない。一呼吸おいて、もう一度彼女は口を開いた。その口調は、どうしてか怒った感情とは違ったようだった。
「貴方には……わからないでしょうね……」
透き通るように綺麗な声だった。その一言を置き去りにするように、彼女は踵を返して住宅街の方へと僕の視界から消えてしまう。どういった意味だったのだろうか。顔もはっきりと知らないひとりの女性で僕の頭はいっぱいだった。
眼科の医者はそう言っていつも通り何かを紙に書き留める。患者の記録なのだろうが、何について残しているのかはわからないままだ。
大学帰りの眼科は平日にしては混雑気味で、少し嫌気がさしていた。しかし通院できるのは金曜日が一番都合が良い。数ヶ月前にドライアイと診断されてから、ここへ来るのは四回目となっていた。
「ありがとうございます」
肩を丸めて診察室から抜け、会計の順を安そうなソファに腰を下ろしてただじっと待つ。病院なだけあって、年配の人ばかりだった。
「白羽さーん、白羽あや……どうぞー」
受付の人が患者の名前を広く声を響かせるように呼び、名前を言い切る前にひとりの女性が待ち構えていたかのように立ち上がった。僕は窓越しに見ていた、大通りを走り抜けていく車から目を逸らし、その女性が会計を済ますのをぼんやりとしながら見つめる。女性は財布を鞄に仕舞うと、頭を軽く下げて自動扉から外へと姿を隠した。違和感に気が付いたのは、会計を担当していた女の人達がヒソヒソと話し始めてからだった。
僕は白羽と呼ばれていた女性の後ろ姿を記憶から引っ張り出し、背もたれに寄りかかりながら思い出す。金髪のような、白髪のような……うまく思い出せない。
深く帽子を被り、表情はまるでわからなかった。どうしてか脳裏にうっすらと刻まれた女性の髪の毛は、印象的であった。
「……さーん、白石幸助さーん」
ハッと気が付くと、自分の名前が周囲に響いていた。膝を伸ばし、身を縮めるようにしてお金を支払う。領収書を受け取り、その場からすぐに立ち去ろうと一歩踏み出して、足が止まった。
「すみません、さっきの女性……」
自分でもどうしてここまで気になっているのか理解できていない。何に気にかけているのか、どうしてわざわざ足を止めたのかさえわからない。
「え、あー、さっきの人? あの子、いつも帽子を深く被っていて、顔をちゃんと見たことないのよね。たぶん、先生しか見たことないんじゃないかしら。いつもどこか不気味で、私達も少し受け入れ難いって言うか……」
無意識に自動扉のガラスの向こう側に目を向ける。
「あの子がどうかした?」
「いえ、何でもないです。ありがとうございました」
扉のボタンを押し、薬を受け取るために隣の建物へと足を運ぶ。薬局の中へ入ると、すでにふたりが背もたれのないソファに腰かけていた。
眼科で貰った紙を薬剤師の男性に手渡し、僕は少し離れた箇所から女性を横目でちらちらと視野に入れてしまう。女性の位置から一席分空け、近くに座る中年の男性がスマホの上で親指を走らせている。それに対し、その人はただじっと座っている。膝の上に手を乗せ、何かを見ることもなくただじっとだ。
男性が呼ばれ、薬を貰って薬局から出ていった。次に呼ばれた女性は、音もなくスッと立ち上がり薬剤師の前へ移動した。奥から出てきた背の低い薬剤師の女性が、白髪の女性を見ると目を大きく開いてどこか驚いた表情を浮かべた。
僕は今、女性が薬の説明を受けている、真後ろに座っている。視線が吸い込まれるようにその後姿を見つめてしまう。金髪とは言い難い色の抜けた白い髪の毛は肩下あたり、ボブくらいの長さだ。鉛色のロングスカートに、浅葱鼠色のスニーカー、藍色のジージャンを羽織っている。そして深く被ったベージュ色の帽子。オシャレには敏感というわけではないが、不思議な色合いの服装だと思った。薬剤師から女性への説明が終わると、七畳ほどのスペースには自分ひとりとなった。そしてそれから一分ほどでようやく呼ばれた。
いつも通りの説明を受けて、僕は足早に外へ出る。頭に浮かぶその後ろ姿は見当たらない。これっきりだと自分に言い聞かせ、眼科の駐輪スペースに停めた銀色の安っぽい自転車に跨る。
心が落ち込んでいるような、沈んでいるような感覚になっていた。何か忘れ物をしてしまったような気分でもある。
足を乗せたペダルに体重を乗せ、ゆっくりと進み始めて向かいの二階建てスーパーへ今夜のご飯を買いに向かう。走り抜ける車の隙を計って横断歩道を渡った。駐輪場で自転車のスタンドを立てながら献立を考える。昨夜は確かトンカツだった。今日は油物は避けようか、そんなことを考えながら入り口へから入り、自動扉が開くと少し肌寒いくらいの空気が首元を擽った。
野菜コーナーを見渡しながら抜け、悩みながらお惣菜売り場へと足を運ばせる。適当に焼き鳥とお弁当でも買って帰ろうか。顎に手を添えながらレジ前を通り過ぎ、僕は足を止めた。何かが視野の中に紛れ込んだ気がし、勢いよく振り返る。
レジ奥のサッカー台に目を向けると、そこにいるのは間違いなくさっきの女性だと確信できた。もう袋に荷物を詰め終わりそうなところだ。
僕は近くのカップ麺コーナーから適当に一つ、籠の中へ放り投げるように入れ、小走りにレジへと向かった。タイミングが悪く若干込み合っているレジに並び、焦る気持ちが体をどこか落ち着かせてくれない。前に並んでいたお婆さんのお会計が始まると、彼女は買い物袋を片手に出口へと歩き出してしまった。
彼女の姿が店内から見えなくなると僕の順番が回ってきた。
ピッと一つの音が鳴り、僕は財布から二枚の百円玉をキャッシュトレイに乗せ、カップ麺を片手に走り出す。
「お釣り大丈夫です!」
彼女が出ていったところと同じ扉へ走る。追いついたところで、どうすれば良いのかとなると、わからない。けれど僕は追いかけなければいけない気がしていたのだ。本能的なものに似ている。自分のやっていることが異常だということも理解できていた。それでも、どうしてかあの女性と話がしてみたかった。
自動扉を抜け、日差しが目の奥を刺激した。辺りを見渡すと、またも彼女を見失っていた。身体の力がどっと抜け、何かを胸の奥から零してしまったような心地だ。
片手に持っていたカップ麺をリュックに仕舞いながら駐輪場へ向かおうとスーパーの角を曲がる。
「うわぁ!」
反射的に声が飛び出すほどに驚いてしまった。その女性がレジ袋を片手に立ち尽くしていたのだ。帽子の鍔で変わらずその表情はわからない。
声も出さず、ただ僕の方へ体を向けているだけで、特に何かをするわけでもない。
「あ、あの……」
どうしましたか? そう言いかけると、僕の声に重ねるようにようやく彼女が口を開いた。
「どうして私の後を追うのですか? 私、何かしましたか?」
問い詰めるような言い方に、僕は言葉が詰まる。
「えっと、すみません。そういったつもりはなかったんですが……」
彼女のことが気になっただけで、自分でも理由がわからず追っていたのだ。うまい言い訳が思い浮かばない。
「あなたも、私を馬鹿にしにきたの? だったらやめて」
彼女の口調はどこか尖っていて、あからさまに拒まれているのがわかる。震えそうな声を喉から引っ張り出し、帽子で隠れた顔へ僕は本音を伝えた。
「すみません、そんなつもりはなかったんですが……その髪の色が、綺麗だったので……」
彼女は少しだけ僕に向けて顔を上げた。しかし鍔が邪魔で、やはり目が合わない。一呼吸おいて、もう一度彼女は口を開いた。その口調は、どうしてか怒った感情とは違ったようだった。
「貴方には……わからないでしょうね……」
透き通るように綺麗な声だった。その一言を置き去りにするように、彼女は踵を返して住宅街の方へと僕の視界から消えてしまう。どういった意味だったのだろうか。顔もはっきりと知らないひとりの女性で僕の頭はいっぱいだった。
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