私が贈る準イベリス

夜月 真

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7月29日

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7月29日



 朝日がカーテンの隙間を潜って私を起こした。のんびりと体を起こしてテレビをつけると、梅雨明けのテロップが画面に映る。寝ぼけ眼を擦り、思考が一時停止する。

「行かなきゃ!」

 大急ぎで制服に着替え、自転車を走らせた。今日は夏休みの進路相談と勉強会が学校で行われる日だった。そしてその前にカフェに出向かなくては。

 彼とは連絡を取り合っていなかったが、学校のない日は朝に集合するのは言わずとも分かり合っていると考えていた。

 日差しがじりじりと私の肌を焼いていく中、タイヤを回し続けた。

 雑木林を抜けると、大粒の雨がカフェを反射させる鏡を作っていた。私は濡れぬように大急ぎでカフェのオーニングテントへ走る。その勢いで扉を開けると、席に座るみんなと目があった。彼も既に待っていた。



「あ、もう来てた。ごめんね、遅くなっちゃった」

 私は息を切らして声を出すのもやっとだった。膝に手をついて呼吸を整えていると、いたずらっ子でアナグマのウィンが声を張った。

「遅いぞ!」

「ごめんごめん、急いだんだけどさ」

 私は肺を落ち着かせると汗臭くありませんように、そんな願いを胸に秘め、リュックを置いて彼の右隣へ腰掛けた。彼はワイシャツを仰ぐ私を見るなり話しかけてくれた。

「制服なんだね」

 彼の目線は後ろで一つに結んだ髪にあったため、目が合わなかった。

「うん、この後学校に用があって」

 およそ1ヶ月半ぶりに会う彼は何も変わらず安心した。私を見てくれない彼に、今日は少し揶揄ってみようと試みた。緊張はしていたけれど、もっと彼と仲良くなりたい一心だった。



「颯君は今日も早いね。楽しみで早くから来たの?」

「うん、ちょっとだけね」

「ふーん、私に会えるから?」

 どんな反応を見せてくれるのか、僅かな期待に口角が上がっていた。

「……そんなんじゃないから」

 泳がせる目を覗くと、あからさまに話を逸らされた。そんな姿がどこか可愛らしく見えた。

「そういえばさ、翠さんの髪って染めてる?」

 彼の質問の意図がわからず、首を傾げる。

「いや、高校生なのに結構茶色がかってるから、校則とか大丈夫なのかなーって思って」

 校則かぁ、と天井を見上げて考える。思い返すとこれといって指導されている人も見たことがなかった。



「髪の毛は元々このくらいの色だけど、若干染めたかな。けど言わないとわからないくらい。校則は……うーんあんまり気にしたことないかな」

 彼は驚いた様子だった。他の学校に詳しくない私はその反応が理解し難かった。

「え? 校則とかわからないの? 髪染めちゃダメとか、化粧濃すぎるとダメとか……」

「うーん、私の学校、あんまりそんな感じのないんだよね……」

 彼の目を見開いた表情があまりに可笑しく、あははと口元を隠して声を出す。

「僕の学校、校則凄く厳しいよ……? 高校生楽しみ切れないって感じで」

「そうなんだ、私の学校、基本放っておかれるんだよね」

「その制服あんまり見ないけど……どこの学校?」

 彼は私のスカートの柄を見て訊いた。けれど私はあまり学校名を答えたくはなかった。私は立てた人差し指を唇につけて答えた。



「んー、内緒」

「そっか、僕はS高ってところ。中学までまともに勉強なんてしてなかったから、偏差値もすごく低くて今じゃ後悔してる」

 正直、勉強なんてもうこりごりだったためか、彼が少し羨ましく感じた。

「そうなんだ。勉強なんて、できすぎても大変だよ」

 彼はテーブルに肘を置いて私を見つめていた。

「私M高なんだ」

 彼の体がピクリと動く。

「さっき、内緒って……」

「うん、颯君が話してくれたから、私も話すべきかなって」

 学校名を教えてもらったから私も答えるべきが、礼儀だと思った。それに彼は自分の学校がコンプレックスのようだった。



「……ちょ、ちょっとまってね」

 彼は慌てた様子でスマホを取り出して指先で画面を叩いた。

「え!? 翠さん、引くほど勉強できるの……すご……」

 その一言に、ダムが崩壊したように嫌な感情が湧き溢れた。目の前にいる人に会うために頑張ったというのに、その本人に否定されているような感触に、心が折られたようだった。

「……ごめんね」

 唐突に謝る彼に、俯いた顔が引き寄せられた。

「どうして謝るの?」

「だって、翠さん今、嫌な気持ちにならなかった?」

 自分でも気づかぬうちに表情に出てしまっていたようだ。彼に嫌な思いをさせてしまったことに、こちらこそごめんねと伝えた。



「どうして翠さんが謝るの?」

 負の感情が止まらない。ここまで頑張ってきたのは、貴方の為なんだよ、そう言えたらどんなに楽か。私は落ち込んだ理由を素直にぶつけた。

「学歴だとか、偏差値だとか、そういったのが嫌いなの。確かに高いと褒められるかもしれないけど、低いと悪いように見てくる人もいるでしょう? だからそんな数字だけで人の判断基準にされてしまうのが嫌なの」

 これまで学歴という肩書きを、世間から誉められ続けた経験の本音だった。私が努力したのは名誉だとか、世間体のようなくだらないことではないからだ。

「翠さん、優しいね」

 そんなことないよ、ただそれだけ言った。



「けどすごいね。勉強できるのに、勉強苦手な人のことも考えることができて」

「ううん、私も元々は勉強は苦手だし嫌いだったの」

「え? じゃあどうしてそこまでできるように?」

 心が押し潰されそうだった。私の頑張りを、彼に認めてもらえていない気がしてたまらない。膨らむ涙袋が破裂しそうだ。

「…………ごめんね、ちょっと席外すね」

 私は長い髪の中に埋まるように俯き、外へ飛び出した。お店に背中を向けて扉を閉め、私は扉の窓から見られないよう、一歩だけ出窓の方へずれて座り込んだ。

 雨音に私の涙が重なる。零れる涙に、まるで私の瞳は雲だった。思い返すと、私の人生は泣いてばかりだった。恵まれない人はとことん恵まれない、そんな言葉を擬人化したのが私のようだ。



「ウィン!」

 モカの張り上げた声が聞こえた。モカのこんな大きな声を聞くのは初めてだ。お店の中で何が起きているのだろうと、気が紛れるとお店の扉が開いた。中から出てくる彼を見上げ、ただその姿を眺める。

 彼がキョロキョロとあたりを見渡して私を探している。その姿が、どこか昔の私に重なって見えてしまった。

 立てた膝の上に顔を俯せると、そこにいたのか、そう言って私の隣へ腰を下ろした。

「ごめんね」

 そう言われて首を横に振る。何も言えない。声を使うと、涙がもっと溢れそうだったから。

「……翠さんが悲しんでるのは知ってたんだ。初めて会った日から、ずっと悲しんでる」

 彼は私の感情に気づいていたようだった。彼は続けた。

「僕は鈍感で、翠さんが悲しむ理由もわからないけど、僕ができることがあれば力になりたい」



 変わらないその優しさが好きだった。話してしまいたい。私は貴方が好きで、昔貴方に助けられたのは私なんだよ、喉のすぐ奥に言葉が詰まっている。

「だから、話して欲しい」

 彼の一言に、マスターの言っていたことを思い出す。本当に幸せになりたいのなら、気づいてもらう必要がある、何となくその意味をようやく理解した。私は幸せになるんだ、闘志を燃やすように、心がゆっくりと立ち上がった。

「…………ない」

 振り絞った震える声は、彼の耳に届かない。

「……え?」

 私は目尻に涙を残したまま、無理に作った笑顔でようやく声を張ることができた。

「まだ言えない」

 気づくと雨は止んでいた。雲の隙間から抜ける光が私達の顔を照らす。



「あ、見て!」

 目の先には陽光に照らされた大木に虹が架かっている。まるで天へと続く梯子のようだ。その神秘さを前に、彼は私にじっと目を向けている。

「ねえ、見てってば!」

 腕を曲げ伸ばしするとようやく彼がピクリと動く。

 大木には桜色の枯れた葉を身につけている。私は何度かこの季節の大木を見てきたが、虹の架かる姿は初めてだった。

 ゆっくりと歩み寄ると、彼も私の後を追う。

 柵の前まで行くと、風に煽られ枝から切り離された葉が、ユラユラと踊りながら私達の足元で動きを止めた。

 手のひらほどの大きさの葉は、季節感を狂わせるような不思議な姿だ。



「綺麗ね……」

 口を開くと、彼は見上げたまま言葉を返した。

「うん……初めてこんな綺麗な木を見た」

 春風のような生温い優しい空気が私達をイタズラに擽る。

「晴れましたか。外ではゲリラ豪雨でしょうね。そしてまた今年も随分と美しい色になりましたね」

 振り向くとマスターが背中に手を回して立っている。

「……これは桜ですか?」

 落ち葉を拾い上げる彼がマスターに問うと、マスターは枝先を見上げて答える。

「いいえ、これは枯葉です。あなた方の世界では現在7月だと思います。7月といえば夏と感じられる方が多いと思いますが、我々の世界の暦上ではもう秋なのです」

「だからこれは枯葉。けれど色が季節の反対側となるから春色のこの色。ということですか?」

「その通りです」

 この桜色は知っている。彼とマスターが話しているのを横に、私はその彩りに夢中だった。私の思い出が頭の中を駆け回る。微風が髪をふわりと優しく持ち上げた。



「ねぇ、次はいつ会える?」

 私に語りかけているのだろうかと、ゆっくりと彼を向いた。私をじっと見つめている彼の言葉に、酷く驚いた。彼の方から誘われるのは、初めてのことだ。私は彼の頭に引っかかる落ち葉を見てプッ吹き出した。

「葉っぱ着いてるよ」

 私が自分の頭頂部に指を差すと彼は頭に着いた落ち葉を手に取った。

「そうねぇ、梅雨が明けたから、次は……」

 私が答える前に、立て続けに質問をぶつけられた。

「どうしていつも季節の変わり目とかなの?」

 私は少し考えてから、自分の本心を伝えた。

「……初めてってさ、新鮮でしょ? 初めての遊園地、初めての高校生活、初めての季節。季節の変わり目にしているのは、今年の初めての季節を、一緒に過ごしたいなぁーって思ったから」

 それに貴方は初恋の相手だから、その言葉だけが伝えきれられなかった。



「今日の夜、また会えない?」

 彼の口からの思いもよらぬ一言に、私は驚く表情を見せてしまう。

「うん、まあ大丈夫だけど……。とりあえずはお店の中に戻ろっか」

 作り笑顔を彼に傾けた後、店内へと戻った。

「お、どうだ? 泣き止んだか?」

 ウィンらしい一言に私はしらばっくれる。

「え? 泣いてないけど? ね、颯君」

 アイコンタクトを送ると、微笑みながら察してくれた。

「うん、外に出たら綺麗な夕日が出てきてたから、それを見てただけみたい……」

  なーんだ、と残念がりながらラテ達と話の続きをしているウィンを見て、話達は目を合わせてコソコソと笑った。

「では、そろそろお食事を持って参りますね」

 手をパンッと叩き、マスターが空気を変えた。



 先に戻って5分ほど待つと、マスターはトレイに人数分のジュースを持って厨房から帰ってきた。グラスをテーブルの上に置き終えると、両手をお腹に添えた。

「こちら、『半月とマジックアワーのメロンソーダ』になります」

 透明なアロマフロートには夕日に染められたような強調性のある赤と、優しげなオレンジ色、そして底に沈んだ空色が混ざらずに分裂している。

 メロンソーダの上にはバニラアイスに金箔が掛けられておりその姿は輝く半月のようで、キラキラと月明かりのような光を放っている。さらにその横には、1日の終わりを告げるような太陽をイメージされたチェリーが乗せられている。

 メロンソーダは、まさに夏の太陽と月が混ざり合う空模様だった。



「マスター、今日もすごいね」

 ギュッと空を詰められた飲み物に、心が躍る。

「食べるのがもったいないくらい綺麗です」

 彼がそう言うと、どうぞ召し上がって下さいと言って厨房に戻って行った。きっとこの後何か食べ物を出してくれるのだろうと察した。

 彼は突然身をかがめて椅子の下から紙袋を引っ張り出した。

「颯君、それは?」

「これは、マスターに渡そうと思って。お金も渡さないのは申し訳ないから、せめてものお礼と思って」

 彼の相手への思いやりや優しさに、素敵ね、とだけ言うとウィンが口を開いた。

「そんなもんいいのに。ただならただでもらうべきだぜ」

 ウィンへ顔を向けると私達は驚き、彼から声が漏れた。



「え!? もう飲んだの!?」

 グラスの中には僅かに液体が残っているだけで、空になっていた。口の中からチェリーの柄を取り出し、グラスの中にポイっと入れるウィンを見て私は彼とウィンの相性の良さにクスクスと顔を手で隠しながら笑ってしまう。

「せっかくマスターが作ってくださったのに、味わって食べましょうよ」

 ラテがウィンに注意をしていると、モカが口を開いた。

「なかなか美味かったぜ」

 次に私達はモカへ目を向けると、モカのグラスは、一滴も残さず空だった。

 私は彼の唖然として開く口を見てあははと吹き出してしまう。釣られるように彼も笑っていた。

 ようやく笑いが収まった頃、私たちも飲みましょう、と言って、ストローからメロンソーダを吸い込んだ。

 口の中から全身に冷たさが広がり、指先までメロンソーダを歓迎した。



「美味しい!!」

 私と彼は目を合わせて同じ言葉が重なった。

 見た目から想像した味とは異なって、とても甘いメロンソーダだった。

 半分ほど飲み終え、チェリーの種を口の中で探し出す。

「あ、これタネないよ」

 口を隠して話すと、彼が私のグラスを見て目を見開いた。

「見て!」

 夕焼け色だったメロンソーダは、赤とオレンジ色が消え、夜空のような深い青色へと姿を変えている。

「僕のはまだオレンジなのに……」

 カメレオンのように突如色を変えたメロンソーダに気を取られていると、マスターが戻ってきた。



「太陽が沈むと夜になる。これは当たり前ですよね。このメロンソーダにとって、チェリーは太陽なのです。つまり、メロンソーダは夜になったということです」

 見惚れる彼に、私は気づかれないように横目でじっと見つめていた。濁りのないその綺麗な瞳が好きだなぁと心がつぶやいた。

 気づくと溶け始めたバニラアイスが底の方に沈んでいき、半月の沈む夜空のようになっている。

 私のものを真似て彼がチェリーを口にするも、食べかけのアイスは半月のようにはなれなかった。

「先に言うべきでしたね」

 そう言ってマスターはまた人数分の皿を配り始める。置かれた皿の上を見ると、うわぁと感動が喉の奥から漏れ出した。

「こちら『季節の朝食』になります」

 中央にプラスと書かれたように切り込みの入るトーストが置かれている。4部分に分かれた各位置には、色がつけられていた。

 ピンク、緑、黄、白。春夏秋冬を示していることがすぐにわかった。



「ピンクはさくら、緑はスイカ、黄はタマゴ、白は砂糖を主な原材料としており、一年を味わっていただけると思われます。」

 マスターの説明を聴いている間、モカとウィンはすでに食べ始めていた。

 いただきます、と手を合わせ、トーストを口に運ぶ。私は春の部分を最初に食べ始めた。

 サクサクと焼きたての音を立てながら胃袋へトーストが入り込むと、温かみが身体の疲れを癒してくれたような気分だった。

 しかしどうしてか、幼稚園の頃の、あの日を思い出してしまった。頭の中に、意思とは反してアルバムが流れるように思い出してしまう。



*



 私が幼稚園児だった頃、父の転勤で今のアパートの近くに越してきたのだ。寒い冬の日だった事はよく覚えている。幼い私にとって全く新しい土地で人間関係を構築していく事は至難だった。加えて人見知りだった私には遊ぶ友達もいず、そのうち自然と一人ぼっちになっていた。完全に浮いていた私は、嫌われ始めているのも自覚していた。

 あるとき、バケツの水が溢れるように私の中で何かが壊れてしまった。休み時間だったことは覚えている。一人教室で泣いていると、廊下を走っていた男の子が私に気づいて駆け寄って声をかけてくれたのだ。



「大丈夫?」

 その一言を放って、何も言えない私を置いてどこかへ行ってしまった。私はそのまま教室で蹲ったままでいると、再び誰かが声をかけてきた。見上げると、同じ男の子だった。絆創膏を差し出してくれた彼は、私を心配してくれたようだった。

「転んじゃったの? 先生から絆創膏貰ってきたよ」

 私は首を横に振って何も言わなかった。また人に嫌われる、そう思ったが、男の子は私の横に座ってただひたすらに自分のお姉さんの話をしてきた。

 毎日召使のように扱ってくる、喧嘩が多くて泣かされるなど、私は聴くことしかできなかった。

 私はその姿がおかしく、自然と笑い声が溢れてしまった。



「なんだ、笑えるじゃん」

 男の子の一言に気づき、私は自分が笑えていたことに驚いた。それから男の子とは家が近いことを知り、よく遊ぶようになっていった。

「はい、これ」

 時間は流れ、桜の蕾がほころび始めたときに男の子が渡してきたものは手紙だった。

「お姉ちゃんが言ってたんだ。友達とかとは手紙を渡し合ったりするもんだって」

 男の子の頬は赤く染め上がり、どこかそっぽを向いていた。私は受け取った手紙の中を開くと、読みにくい字で何と書かれているかわからなかった。



「なんて書いてあるの?」

 男の子は怒ったように声を張った。

「“またあそぼう“って書いてあるんだよ!」

 私はその字の意味を知ると、笑顔がこみ上げ、大きく首を縦に振って、うんまた遊ぼう、と答えた。

 それからの時間はとても少なかった。数日もしないうちに再び父の転勤が決まり、私はその土地から姿を消した。彼にお別れを言う時間も、機会もなかったのだ。



*



「なんか、美味しい上に、体全身で食べてるみたいだね」

「ええ、ほんとに……。思い出の蘇るような味です……」

 彼とラテの会話には参加しなかった。

 春を食べ終え、夏、秋と食べ進める……。

 夏と秋は、中学生時代や高校受験の事ばかりを思い出した。冬に関しては、私の知らない記憶だった。彼と私が、仲良くどこか綺麗に輝くトンネルを歩いているようだった。ただその私はとても笑顔で、嬉しそうだった。

 私はきっと幸せになれるだろうと、心がホッと落ち着いた。



「いかがでしたか? 時間の旅は」

「時間の旅?」

 私達は揃えて首を傾げる。

「ええ、今あなた方が食べたトーストは、食べた季節に沿っての思い出や理想を体験させてくれます。きっと何か刺激になったかと思います」

 モカとウィンが偉そうな口を開く。

「よくわからんけど美味かったぜ」

「まあ悪くなかった」

 二人は何も感じていなさそうだったけれど、何かを思い出していたに違いない。

 彼は何を思い出したのだろうか、気になるけれど、とても訊けるものではなかった。



「さて、そろそろ行かせていただきます。随分と時間が経ってしまいました」

 ラテがゆっくりと立ち上がり、モカ、ラテと続いて店の外へ出て行った。

「あ、そうだ」

 彼は机の上に置いたままの紙袋を漁り、マスターに可愛らしくラッピングされたハーバリウムを、お礼ですと言って手渡した。

「これは素敵なプレゼントを。ありがとうございます」

 マスターは微笑んで喜んでいた。

「あ、そうそう」

 今度はカバンの中を漁り、小さな小包のようなものを取り出した。



「これは……翠さんの分……」

 私は呆然としたまま受け取った。

「僕……センスないけど……もしよかったら……」

 彼が話しきる前に、私の感情が飛び出した。

「嬉しい! ありがとう!」

 彼が私の為に選んで買ってくれた事実、それが本当に嬉しかった。

 開けていい? と訊くと彼は黙って頷いた。

 包まれたラッピングを丁寧に剥がすと、雪だるまのようなキャラクターのキーホルダーが入る箱が出てきた。

「ごめん、そんなものしか買えなかったけど……」

 顔の前で箱をまじまじと見つめる。以前、一緒に同じものを買った思い出を大切にしてくれているのだと伝わった。私は言葉では表せられないその気持ちが、何よりも素敵な贈り物だった。手のひらで包み込み、彼に笑みを描いた。



「嬉しい……ありがと……」

 さっきと同じことを言った。他に適した言葉が無かったからだ。

「帰ったらなんのポーズが出たか写真送るね」

 彼は何かを思い出したような顔をして、首元に手を添えた。

「そうだ、メッセージなんだけど……」

 きっと私が色々と言いすぎたせいで気にかけていたのだなとわかる。

「別に返しにくいとか嫌とかは思ってないよ?」

「え! なんでわかったの!? てかそうなの?」

 素直な反応が可愛らしく、ふふっと笑う。



「うん、こっちこそやりづらいかなーと思って何も送らなかったんだ」

 よかったー、と声を漏らす彼に悪戯心が芽生えた。私は彼の顔を覗き込んで、なにがよかったの? と尋ねてみた。

「……マスター、そういえば僕らの世界は今気温が高い時期なのに、どうしてこっちも暑さが残るの?」

 私を無視する彼の姿を見たマスターが口元に手を添えて笑う。私も何も咎めなかった。

「そうですねぇ、この場所の原動力はあなた方にあります。心が温かいあなた方だからこそ、気温は 変わらずにいつも温かいのです。他にもいろいろありますが、長くなるのでやめておきましょう」

 ガチャッと店のドアが開き、モカが顔を覗かせた。



「俺らはもう行くぞ」

 店の窓からウィンとラテも顔を覗かせていた。私達は手を振って別れを告げた。

「僕らも行こうか」

 マスターにごちそうさま、と頭を下げて二人で店を出る。彼に花が咲いているか見たいと言われ、カウンター横に足を運んだ。

「あ……咲いてる……」

 彼の丸い鉢に新たな花が咲いていた。

「お、咲いてるねぇ」

 その横から鉢を覗く。紫、白、黄の三色が美しく存在感を表している。



「私のも咲いてるよ」

 隣の鉢にも二種類咲いていた。私の鉢に咲く、初めての花だった。

「これ、翠さんの鉢?」

「そうだよ。こっちがモカで、これがプチで……」

 私は一人ひとり誰のものかを説明した。どうして形が違うのかまでは話さなかった。

「なんの花だろうね」

「そちらはクロッカスですね。翠さんの方は、胡蝶蘭とポピーです。お二人にお似合いの花です」

 鉢を見ていたのに気づいたマスターが花を紹介してくれた。

「マスター、この花はどうした意味で咲くの?」



「いずれわかりますよ」

 マスターは相変わらず彼に花の意味を教えない。

 またねと互いに告げ、再び雨の降り始めたこの場所から、小走りでそれぞれの出口へと分かれた。

 帰宅後、彼と夜の待ち合わせ時間を決め、夕飯を食べ終えてからベッドに寝転んでキーホルダーの箱開いた。中からは体育座りをする雪だるまだ現れた。相変わらず雪だるまなのか、確信を持てない。

【見て!! これ颯くんが持ってるやつと同じじゃない!?】

 写真付きでメッセージを送り、私は机の上に置いてある筆箱に目が留まり、ファスナーにそれを結んだ。結び終えたタイミングでスマホの画面が光った。



【本当だ! 同じだよ!】

 意識したのであろうびっくりマークの絵文字が文末に添えられていた。

【おそろっちだね笑】

 そう送って画面上の時間を見ると、家を出る時間になっていた。ベッドから飛び起きて急いで着替え直し、部屋を後にした。

 街灯に沿ってゆっくり歩くことおよそ20分。橋横の階段を下りて辺りを見渡すも、彼はまだ来ていないようだ。

 橋の下を潜り、降りた階段とは反対側に回った。重そうなベンチに腰掛け、脚を伸ばして池に反射する月光を眺めて私は考えた。

 もう高校三年生だ。この辺りに住んでいられるのも約半年。それまでに彼が私に気づくことが無かったら……。



 足音が橋の下に響くのが耳に着いた。影から姿を現したのは彼だった。待ち合わせをして約束通り会えることが今の私には充分に幸せな事だ。

「遅刻ですね、颯さん」

 私が怒っているように装うと、彼はごめんと言って顔の前で手を合わせた。冗談、気にしてないよと微笑むと彼は隣へ腰かけた。

「この時間に会うの、初めてだね」

 私は池に視線を向けたまま口を開いた。遠くで蛙が鳴いているのに、とても静かに感じる。

「そうだね……ごめんね、こんな時間に」

「ううん、この時間の散歩、結構好きだから」

 橋の上を向こう側に車が走り抜ける音が聞こえた。タイヤが地面をなぞる音が聞こえなくなると、彼から尋ねられた。



「そういえば、翠さんって、高3だよね? 進路はどうするの?」

 彼もまた、池に反射する大きく欠けた月を眺めている。

「成績も悪くないし、一応AOで行きたい大学受けて、落ちたら指定校推薦かな」

 私の伸ばす脚を真似て彼も膝を伸ばし、私と同じ体制になった。

「そうなんだ。僕も多分指定校になると思う。お母さんが中学の頃から、指定校だと楽なんだけどねって、ずっと言ってるからさ。どこの大学に行きたいの?」

「んー、Y大学かなぁ」

 正直、大学はどこでも良かった。なんとなく名前を知っている大学だから、という大雑把に決めてしまった。それなりに有名らしく、知らない人はいないくらいの知名度と親や先生は言っていた。あまり興味は湧かなかった。

「そ、そうなんだ、やっぱりすごいね……」

 僅かに言葉を詰まらせた彼こそどこに行くのだろうか、気になった。



「颯君はどこに行きたいとかあるの?」

「うーん、まだ全然だよ。考えなきゃとは思ってるんだけどね」

「そっか……」

 半袖なのに蒸し暑く、じんわりと汗をかいてもう夏になってしまったことを知らされた。

 橋の上を再び車が通り、道路を走る音が聞こえなくなってから、彼にこれからの事を話そうと喉を震わせた。

「私ね……大学に入ったら、また引っ越すことになると思うの…………」

 彼はどう思うのだろう。また離れてしまう恐怖と、悲しみが私の不安を掻き立てる。

「…………寂しくなるね」

 私は勢いよく彼に身体を傾ける。彼の目をじっと見つめ、口の中につっかえる言葉を吐き出してしまいたい。私は貴方が好き、だからずっと一緒にいてほしい。そう言えたらどんなに楽だろうか。口に溜まった見えない想いはため息になって漏れ出した。



 肩の力を抜いてベンチに背もたれに重心を戻すと、彼が何か呟いた。

 え? 上手く聞き取れず、その一言に今度は彼から私に身体を捻って上半身を私に向けた。

「この1年、思い出を作ろう。僕にはまだ2年ある。最後の高校生活、翠さんが良ければ、僕と1年で思い出をたくさん作ろう」

 私は彼の言うことを考え直すと、プッと軽く吹き出してしまった。

「私、来年で死ぬの?」

 余命宣告された人に対してかける言葉のようで笑ってしまったのだ。まるで1年間で死ぬから最後に思い出を作ろう、そう言っているようだった。

「あ、ごめんそんなじゃなくて」

 焦って言葉を探す彼に、私は全身を見せるかのようにベンチから立ち上がって微笑んだ。



「ううん。嬉しいよ、ありがとう」

 彼は私の顔を見るなり、照れくさそうに俯いた。

「じゃあ、次はどこに行こっか?」

 次の思いで作りについて彼に尋ねてみる。

「……な、夏祭りなんてどうかな」

「お、いいね! 花火みたい!」

 ちょっと待ってねと、彼はスマホをカバンから取り出し、花火大会の日程を調べてくれた。

「7月30日のだとここから近そうだだよ、あとは近場だと……っていうか30日って明日か!」

「じゃあそこにしよ」

 私はいつも決断が早かった。考え込むのが面倒だったからだ。

「明日だけど大丈夫なの?」



「うん、私は予定ないよ?」

 私達はネットで詳細を調べて、明日にまた会うことになった。

 話がまとまると、学校帰りに雑貨屋さんに立ち寄ったのを思い出した。

「はい、これ。お返し」

 私は彼からもらったキーホルダーと同じものを手に取って見せた。

「これ……」

「お返しだよ、開けてみて」

 彼が箱の頭を破ると、まるで誰かを抱きしめているようなポーズをする雪だるまのキーホルダーが出てきた。



「かわいいー!」

 その愛おしい姿に私の方が喜んでしまった。

「またおそろっちだよ」

「おそろっち……」

 彼はキーホルダーを顔の前で眺めた。私はその姿を見て、不意にもからかいたくなってしまった。

「顔、ニヤけてるよ」

 顔を片手で隠す彼もまた可愛らしかった。

「あはは、私が貰ったやつは筆箱に付けてるよ」

「じゃあ僕も筆箱に付けようかな」

 どうしてか、今日はやけに悪戯心が芽生えた。

「じゃあ授業中も私の事考えちゃうね」

 ニヤリと笑う私を見た彼は、少し泳いだ目で言い返す。



「うん、そうだよ。だからつけようと思うんだ」

 まさか言い返されるとは思ってもおらず、顔に熱が籠るのが自分でわかった。羞恥心から足元にしか目を向けられなかった。

「もうすっかり夜だし、そろそろ行こうか、家まで送るよ」

 黙って頷き、私達は階段を上った。

「ねえ、少し遠回りしてもいい?」

 落ち着きを取り戻した後、彼を覗き込むように訊いた。彼はただ一言、いいよとだけ言ってくれた。私達はそのまま静かな住宅街へと足を運んだ。

「私ね、この辺りの家が好きなの」

「家が?」

「そう。この辺りの家はみんな違って、それぞれ個性があるの。それに、このくらいの時間になると外に出る人は全然いないの」



 道を広く使ってスキップしていると、スーツを着た男性が道の角から姿を現した。完全に目が合ってしまい、そそくさと彼の横に身を寄せる。

 その男性とすれ違った後、彼は悪い表情で私を揶揄った。

「全然人いないんじゃないの?」

 私は何も言わずに彼の肩を軽く叩いた。両手で顔を隠す私を見て、彼がお腹を抱えて声を殺して笑っている。

「笑わないでよ!」

「ごめんごめん、完璧なおちだったから」

 どこかの家の中から子どもたちの声が漏れている。日常を感じさせる、とても幸せそうな笑い声だ。



「僕も住宅街とか、人が住んでいるところが好きなんだよね。知らない町でも、誰かの地元なんだなって考えると、どんな家にも物語があるんだなって」

「わかる。すごくわかる。なんか建設会社のCMみたいな台詞だったけどすごくわかる」

 私の余計な一言に彼が少しだけ声を張った。

「馬鹿にしたでしょ今!」

 あはは、さっきのお返しだよ、そう言って駆け出す私の後を彼が追いかけてきた。しかし30mほど走って、肺の活動量が一気に限界にきた。

「息切れ早くない?」

 そう言う彼は笑っていられるほど余裕そうだ。結構走ったよね? そう訊いて振り返ったけれど、景色が全然変わっていなかった。

「翠さん、部活は? 運動とかしてこなかったの?」

 呼吸を整えながら間を開けて質問に答えた。



「うん……中学校も高校も……勉強ばっかりだったから」

 膝に手を乗せて休み、一度大きく深呼吸をし、息を整える。私達は再び歩き出した。

「颯君はどうなの? 今まで部活とかは?」

「部活は中学校でテニス部に入ってたよ」

「そうなんだ、軟式?」

「ううん、硬式だよ。僕の中学校、なぜか公立なのに硬式テニス部があったんだ」

「そうなんだ、珍しいね」

 生温い夏風が私達の背中を優しく押した。とても心地の良い風だ。

「今は?」

 彼は空を見上げて答えた。



「高校では、テニス部に入って、半年くらいで辞めたよ」

「ふーん、そうなんだ」

 彼がそれ以上に何も言わないから、私も深掘ることはしなかった。

「訊かないの?」

「え? 何を?」

 質問が何に対してのことだかわからない。

「大体この話を誰かにすると、どうして辞めたのか訊かれるから……」

「あーなんだ、そんなことね」

 私はまた進行方向に顔を戻す。

 遠くで名も知らぬ虫がジージーと鳴いているのが耳に入る。

「何かを辞める理由で、ポジティブな理由なんてあんまりないじゃない。引退する人だって、本当は続けたくても歳や環境という壁が理由だし、ましてや中学校で続けてきたのに、高校生の途中で辞めちゃうなんて、あんまり訊かれたくないことが原因そうだし」



 つまらない持論を並べる自分があまり好きじゃなかった。けれど根拠のない自信はあった。

「大人だね、翠さんは……」

「まあ、一応高3だしね」

「スキップするけどね?」

 呆れた顔をして、自然と上がる口角を見せてまた彼の肩を叩いた。

「ていうか、自分から訊かないの? なんて言うってことは、本当は訊いてほしいんじゃないの?」

「……そうなのかな」

 自分のことなのに、とじわじわ笑い出す私を見て彼も笑っていた。

「で、どうして辞めちゃったの?」

 地面を見下げる彼は固そうな口を開いてくれた。

「中学校から硬式テニスをしている人なんてそうそうにいなくて、僕は変に周りから期待されてて……」

 私は一度だけ頷く。



「それがプレッシャーになって、期待通りの結果も出せず、変な噂まで流されるようになって……」

 何も言わない私に話を続けた。

「いつの間にか、僕に期待を持つ人はいなくなってたんだ。だから僕は居づらくなって、辞めたんだ」

 どんよりとした彼に私はようやく言葉を使った。

「なんだ、良い話じゃん」

 彼は呆然としていた。

「だって、そんなことで離れる人なんて、元々近寄るべきじゃないよ。環境によって人は変わるんだから、無理するよりも離れるが勝ちだと思うよ」

 言葉いらずの空気だった。視界の中で目を袖でこする彼は、ただありがとうとだけ言った。私は元気付けられたことが少しだけ嬉しくてふふっと笑ってしまい、話題を変えた。



「花火大会楽しみだね」

「そうだね。花火大会なんていつぶりだろう」

「そんなに前なの?」

 彼は指で数を数えた。

「5年くらい前かな」

「じゃあ小学校6年生くらいの時?」

「うん、確かそう。確かその日は姉が連れてってくれたんだ。妹と三人で行って……」

美月みづきさん?」

 私はその一言を放った瞬間、口が滑ったと焦りが募る。

「……どうして名前知ってるの?」

 慌てて口を手で隠すも、言い訳が考え付かない。



「名前、言ったっけ?」

 口元から手を遠ざけ、彼の言葉に乗るしかなかった。

「う、うん、言ってたよ。忘れたの?」

 幼い頃に少しだけお世話になっていたから、彼のお姉さんの名前は覚えていたのだ。まさかポロっと口に出してしまうとは自分を油断していた。

 悩む彼は何も言わなかった。気がつくと、道路を挟んだ向かいにアパートが見えた。

「ここで大丈夫だよ。ありがとう、ここまで来てくれて」

「ううん。楽しかったし、こちらこそありがとう」



 信号のある交差点で別れ、手を振ってその日は解散した。

時間が経ち、ベッドに寄りかかってテレビを見ているとスマホに通知が来ているのに気が付いた。

【翠さんって、苗字なんて言うの?】

 そうだ、彼に苗字までは伝えていなかったのだと、私はためらわずに返事をした。

【苗字? 牛嶋だけど? 言ってなかったっけ?】

 次に彼から返事が来たのはまた少し時間が経ってからだった。そして明日の時間や場所について連絡を取ってから、私は眠りについた。

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