旦那様は心配症

ヒロロ(秋桜ヒロロ)

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1巻

1-2

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 その日、直樹はいつも通り夕食前に帰ってきた。
 どちらが食事を作るとは決めていないのだが、大体、家にいる時間の長い麻衣子が食事作りを担当していた。
 あとの洗い物は、作らなかったほう――直樹の担当である。
 その日のメニューはそうめんと玉ねぎと山菜の天ぷら。それと、トマトのサラダである。
 そうめんは直樹宛にお中元でたくさん届いたものだった。
 食事中、麻衣子は箸をちゅうに留めながらほうけていた。
 頭をめぐるのは昼間の結花の言葉。

『それなら、心の準備、しといたほうがいいかもね』

 そう言われると、少し構えてしまう。

(もしかして、直樹さんはそういうことしたいのかな……)

 今まで考えなかったわけではないが、直樹があまりにも自分に手を出してこないので、彼も今の状況が心地良いのだと考えてしまっていたところはある。
 しかし、もし彼が求めてくれるのならば、麻衣子だってやぶさかではないのだ。
 自分から求めるのは、ずかしさや過去の出来事も相まって躊躇ちゅうちょしてしまうが、彼が一言『したい』と言ってくれればおうじる気ではいる。
 というか、好きな人に求められること自体は素直に嬉しいのだ。
 それに、彼ならばちゃんと受け止めてくれるのではないかという期待もある。
 そんなことを考えながら麻衣子は、ぐるぐるとそうめんのつゆを掻き混ぜた。
 器の中で回る薬味を見ながら、麻衣子は物思いにふける。

(直樹さんは私とそういう……いやいや! なんか、それはない気がする! そりゃ、男の人だし、そういう願望がまったくないわけじゃないんだろうけど。直樹さん淡白そうだし。恋愛に興味とかあんまりなさそうだし……)
「……いこさん」
(一か月一緒に暮らしてきたけど、まったくそんな気配なかったし。なんなら、触れるのさえ躊躇ためらってる節があるし‼)
「ま……こさん」
(でも、これからずっとこのままってことも多分ないよね。どこかでそういうタイミングはくるわけで、どちらにしても心の準備は――)
「いこ……さん――麻衣子さん!」

 耳に届いた声に、麻衣子はっと顔をね上げる。

「はっ! すいませんボーッとしてました!」
「大丈夫ですか? 熱でもあるんじゃ……」

 心配そうな顔で、直樹は麻衣子のひたいに手を当てた。
 ひんやりとした手のひらが、火照ほてった顔に心地がいい。
 麻衣子は困ったように笑い、頭を下げた。

「大丈夫です。すみません、心配させて……」
「いいえ、大丈夫ならいいんです。でも、なにかあってからでは遅いですからね。念のため、救急病院に行っておきますか?」
「行きませんよっ!」

 救急病院という単語に、思わず声が大きくなった。

「しかし……」
「こんなことで働かされたら、お医者さんが可哀想です」
「でも、万が一ということも……」
「億が一でもありません!」

 心配症も、ここまでくると困りものだ。
 直樹は麻衣子の答えを受けて立ち上がり、彼女の椅子のすぐそばまでやってきた。

「そうですか。それでは……」

 箸を取られ、机に置かれる。
 なにをするのかと見上げていると、彼は突然、麻衣子を抱き上げたのだ。
 いわゆる、お姫様抱っこというやつである。

「ひゃぁっ!」

 突然の出来事に、麻衣子は思わずひっくり返った声を上げてしまう。
 落ちないようにと彼の首に腕を回すと、彼は膝裏と背中に回していた腕を、しっかりと自分に引き寄せた。
 ぴっとりと身体がくっついて、どぎまぎしてしまう。
 直樹はそのまま麻衣子を寝室まで連れていく。

「今日はもう寝て、ゆっくり治してください」
「ちょっと、ひ、一人で歩けます!」
「ダメです。熱でふらついて、けてはいけませんからね」
けません! 熱もありません!」

 本当に心配しすぎだと声を上げると、彼は首をひねった。

「そうなんですか? おかしいですね……」

 彼は麻衣子の身体をぎゅっと自分のほうに寄せた。
 ひたい同士がぴったりとくっつく。

「熱はあるようなのに……」

 その瞬間、血が沸騰ふっとうした。
 喉がカラカラに渇き、全身から汗が噴き出した。
 いつも冷静沈着で涼しい表情をしている彼の顔も、少し赤く見えるのは気のせいだろうか。

「こ、これは直樹さんが――」
「俺が?」
「なんでもないです!」
「教えてください。俺が原因なんですか?」
「原因じゃないです‼」

 詰め寄ってきた顔を押しのけて、麻衣子はこれ以上顔を見られないようにと、ぎゅっと彼の身体に抱き着いた。
 そうして、麻衣子はなかば無理やりベッドに寝かされたのだが……

「三十六度七分。微熱ですかね」
「平熱ですよ」

 体温計を見ながらそう言う彼に突っ込みを入れつつ、麻衣子は布団を鼻までかぶった。

「でも、平熱にしては少々高い気もしますが」
「それは……」

 直樹のせいだと言いそうになったのを呑み込む。また先ほどのやり取りを繰り返すつもりはない。
 直樹はベッドのふちに腰かけながら、麻衣子の頭をでた。
 その顔には、珍しく笑みが浮かんでいる。

「しっかり寝て、治してくださいね。風邪は万病のもとと言いますから。……なにか欲しいものはありますか?」

 ありません、と口にしかけたその時、また麻衣子の脳裏に昼間の結花の言葉がよみがえってきた。

『でも、直樹さんはしたいかもよー』

 麻衣子だって、キスぐらいはしたいと思っている。
 彼から直接気持ちを聞いたことはないが、結婚したのだから一応は両想いだろう。キスぐらいはねだってもいいはずだ。
 麻衣子はうつむきながら直樹のそでを引く。

「あ、あの。じゃ、おやすみの……キ、キスが欲しいです」

 最後のほうは、小さすぎて聞き取れないぐらいの声しか出せなかった。
 麻衣子が視線を上げると、直樹は驚いたような顔で固まっていた。の鳴くような声だったが、どうやらちゃんと届いたらしい。
 直樹は険しい顔で逡巡しゅんじゅんした後、躊躇ためらいがちに麻衣子の頬を両手で包んだ。

「仕方が、ないですね」

 上を向かされて、麻衣子は目をぎゅっと閉じた。
 真っ黒になった視界で、心臓の音だけがやけにうるさく響く。
 キスをするのは初めてではない。けれど、まるで初めてのような緊張感で麻衣子の身体は硬くなった。
 直樹の顔が近づいてくる気配がする。唇に彼の吐息を感じて、唇が震えた。
 しかし、彼の気配はすぐに唇から遠ざかり――
 次の瞬間、おでこにやわらかい感触を得た。

(え?)

 ちゅっと、軽いリップ音が寝室に響いて、彼の気配が遠くなる。
 麻衣子は目を開けた。すると、直樹はもう扉の前で、ドアノブに手をかけていた。

「えっと、あの……」
「麻衣子さん、おやすみなさい」
「あ、はい」

 完全に気の抜けた返事をしてしまう。
 直樹はまるで逃げるように、そそくさと部屋を後にしてしまった。



   ◆ ◇ ◆


(危なかった……)

 直樹は廊下に出た後、寝室の扉の前で顔をおおっていた。
 ねだられるままに唇にキスをしてしまったら、どうなっていたかと思うとぞっとする。
 直樹だって、直前まではキスだけなら大丈夫だろうと思っていた。
 しかし、彼女から漂うショコラのような甘い香りに、一瞬だけ『このまま最後まで……』と理性が飛びそうになったのだ。
 それをすんでのところで押しとどめ、ひたいに唇を落とした。
 麻衣子はびっくりしていたが、ひたいだろうが唇だろうがキスはキスである。

「頭でも冷やしてきますか」

 そう呟いてから直樹は風呂場へ向かった。



   第二章 思わぬ再会


 本当に体調が悪かったのか、ずいぶん遅くまで寝てしまったようだ。
 翌朝起きた時にはもう直樹の姿はなかった。
 窓からのぞく日は相当に高い。昼前といったところだろう。

「直樹さん、起こしてくれても良かったのに……」

 麻衣子はベッドから起き上がる。
 朝食も基本的には麻衣子が作ることが多い。
 作らなくても別段文句は言われないし、逆に作ってくれている時もあるのだが、なんとなく今日は自分が作りたかった。
 昨日そのまま寝室に連れていかれたので、身を綺麗きれいにしようとシャワーを浴びる。
 風呂から上がり、リビングの食卓テーブルを見ると、彼が作った朝食が並んでいた。
 そして、隣には見知らぬ茶封筒が一つ。

「え? これ……」

 麻衣子は封筒を開き、中身を確認した。中には、よくわからない資料と契約書の雛形ひながたのようなものが入っている。

「これって、確か昨日、直樹さんが見てたやつだよね……」

 夕食の準備をしている時、直樹はこの書類を見ながらぶつくさとなにか独り言を呟いていた。
 麻衣子が尋ねると……

『これですか? 明日、打ち合わせで使う資料の確認をしていたんですよ。何度も確認をしたので大丈夫だとは思うんですが、一応』

 と言っていた。

「『明日使う』って、今日使うってことだよね⁉ え。でも、直樹さんに限って忘れ物とか。まさかそんな……」

 人一倍心配症な彼が、打ち合わせで使う資料を家に忘れるなんてあり得ない。
 そう思うかたわらで『本当に忘れ物だったらどうしよう』と心配をする自分がいた。
 とりあえず、麻衣子は直樹のスマホに電話をかけてみる。しかし、仕事の最中だからか彼は出なかった。

(届けに行ったほうが良いかな? だけど、余計なお世話だったらどうしよう。……でも、これがなくて困ってたら……)

 河童かっぱの川流れ。弘法こうぼうにも筆の誤り。天狗てんぐの飛び損ない。
 普段から細心の注意を払って生活している直樹でも、忘れ物をする時はあるだろう。それがもしかしたら今日なのかもしれない。
 幸いなことに、二人の暮らすマンションと直樹の勤めている会社は、比較的近い。三十分と経たず会社にたどり着けるだろう。

「私が直接会わなくても、フロントに渡しておけば良いし。私の勘違いなら、それが一番だもんね!」

 麻衣子はつけたばかりのエアコンを切って家を出た。


 会社のロビーに着いた麻衣子は、ちょっと泣きそうになっていた。

「あ、あの! これを直樹さんに渡してもらえれば良いだけなんですけど」
「すみません。社の規定により、どなたかわからない方の個人的な書類は受け取れないことになっています」
「えっと。だから、私は高坂直樹の妻で……」
「今、本人を呼んでいますから、少々お待ちください」
「えぇー……」

 こんなことになるのなら、来るんじゃなかったと、麻衣子は後悔していた。

(どうしよう。このままじゃ、直樹さんの邪魔になっちゃう……)

 直樹の仕事が忙しいのは、麻衣子も知っていた。
 彼は毎日きちんと夕食時までには家に帰り、一緒に食卓を囲んでくれる。しかし、夕食を食べた後はいつも持ち帰りの仕事を始めてしまうのだ。
 それが終わるのは、いつも日付が変わる手前。
 家にまで仕事を持ち帰らなくてはならない直樹だ。こんなふうに呼び出して手間を取らせたくない。

「麻衣子さんっ!」

 内線で呼ばれたのだろう。正面のエレベーターが開き、直樹が駆け寄ってきた。その顔は明らかに麻衣子のことを心配している。
 麻衣子はますます申し訳なくなり、縮こまった。

「どうしたんですか、こんなところまで来て」
「あ、あの。書類を届けたくて……」

 麻衣子は抱えていた茶封筒を、おずおずと手渡す。
 直樹は茶封筒の中身を確認すると「あぁ」と声を漏らした。どうやら事態は呑み込めたらしい。

「直樹さんに限って忘れ物なんてするはずないと思ったんですけど、万が一ってこともあるから……。それに、今日必要だったらどうしようって心配になっちゃって。……もしかして、いりませんでした?」
「はい」

 簡潔なその返事に、麻衣子は頭の上に金盥かなだらいが落ちてきたような衝撃を受けた。
 直樹は続ける。

「これは原本ではないんですよ。家で確認をしようと思ってコピーして持ち帰ったんです。紛らわしかったですよね」
「そ、そうだったんですか。すみません……」
(なんだか泣きたくなってきた……)

 そそっかしい自分を殴りたい。
 うつむく麻衣子の頭を、大きな手がでた。
 見上げると、優しく微笑む直樹の顔がある。

「謝らないでください。俺のことを心配して届けてくれたのでしょう? その気持ちだけで嬉しいですよ。ありがとうございます」
「でも、お仕事の邪魔しちゃって……」
「大丈夫です。ちょうど昼休憩に入ったところだったので」
「……それはますます申し訳ないです」

 直樹はフォローのつもりで言ったのかもしれないが、『仕事の邪魔をしてしまった』と同等な勢いで『せっかくの休憩を邪魔してしまった』というのも、結構くるものがある。
 麻衣子が自己嫌悪におちいっていると、ふいに背後で人の気配がした。

「え? もしかして、……麻衣子?」

 どこか懐かしい声でそう呼ばれ、麻衣子は振り返った。
 視線の先には、見たことのある男性が驚いた顔で固まっていた。
 しかし、どこで見たかまでは思い出せない。
 すらりと伸びた身長も、引き締まった身体も、短く切りそろえられた髪の毛も、見覚えがあるけれど――

「俺だよ、俺。湯川!」
「え? ……あ、昂史あきふみさん⁉」

 名前を言われて初めて、彼の正体に思い至る。
 そう、彼は麻衣子が高校生の時に数か月間だけ付き合った、湯川昂史その人だった。

「まじかー! こんなところで会うなんてな!」

 付き合っていた頃と変わらない気さくな笑顔で、彼はそう言いながら近づいてきた。
 笑った時の笑窪えくぼも、人懐っこい大型犬のような容姿も当時と変わらない。付き合っていた頃と比べて少し貫禄かんろくはついているが、変化といえばそれぐらいだ。

「十年以上は経ってるよな。ほんと、久しぶり!」
「ははは……お久しぶりです」

 麻衣子は苦笑いで彼の登場を受け止めていた。
 彼とは確かに付き合ってはいたが、いい思い出があまりない。
 いや、もしかしたらあったのかもしれないが、最悪な別れ方をしたせいで彼に関する思い出はすべて嫌なものへと変換されていた。
 昂史はひょうきんで面白い人間だがデリカシーがなく、そんな彼と付き合ううちに麻衣子は男性と付き合うこと自体に抵抗を感じるようになった。
 友人として付き合うにはいい人だとは思うが、恋人としてはもう二度とごめんである。
 昂史は何年経っても変わらない人懐っこい笑みを見せた。

「もしかして、麻衣子はここに勤めてるのか?」
「いや、それは……」
「失礼ですが、貴方は?」

 ぐっと肩を抱き寄せられたかと思うと、頭上に直樹の低い声が降ってきた。
 見上げたところ、直樹の機嫌の悪そうな顔がそこにある。
 両肩に感じる彼の体温に、麻衣子の身体は緊張で硬くなった。
 昂史は明らかに不機嫌な直樹に気づいていないのか、笑顔で名刺を差し出してくる。

「あ、芹沢コーポレーションの湯川です。ちょうど近くで仕事がありまして、少し早いと思ったんですが立ち寄らせていただきました」

 そして、そのままのカラッとしたテンションでこう続けた。

「もしかして、二人ってそういう関係なんですか? 恋人? もしかして、夫婦だったり?」

 無遠慮なその台詞せりふに、体が熱くなる。
 しかし、直樹はまったく動じることなく「夫婦です」と簡潔に返した。
 その肯定が嬉しくて、麻衣子の頬はわずかに緩む。
『夫に会いに会社まで来た妻』という関係と状況を理解した昂史は、にやりと下衆げすっぽい笑みを浮かべて二人にまた近づいた。

「じゃぁ、もう麻衣子の秘密も……」
「昂史さんっ!」

 麻衣子は慌てて昂史の口を押さえた。
 先ほどまでの幸せな表情が一転、彼女の顔は強張こわばっている。
 眉根を寄せたのは直樹だった。

「秘密?」
「直樹さんは気にしないでください!」

 麻衣子は赤ら顔で首をぶんぶんと振る。
 その様子が気に入らなかったのか、直樹の目はどんどん据わっていく。

「麻衣子さん、彼との間に俺に言えない秘密でもあるんですか?」
「そ、そういうわけじゃないんですけど……」
「なら、教えてください」
「い、嫌です!」

 若干涙目になった麻衣子がそう叫ぶ。
 この秘密を昂史に馬鹿にされたことがきっかけで、麻衣子と彼は別れたのだ。
 彼女にとってはトラウマものの『秘密』である。
 麻衣子の手を自分の口から外した昂史は、そんな二人の様子を見て「ふーん」と余裕の笑みで頷いた。

「つまり、まだ綺麗きれいな関係ってことなんですね」
「ちょっと!」
「わかったわかった。もう言わないから、口押さえるのはやめろよ」

 付き合っていた時のような気さくな態度で、彼は麻衣子を追い払う。
 麻衣子も付き合っていた頃を思い出し、彼に対する遠慮がなくなっていた。

「ほんともう、そういうところ昔から全然変わらないんだから!」
「悪かったって。それにしても麻衣子はずいぶんと変わったな。昔はあんなにしおらしかったのに。今みたいに怒ったのだって別れる直前だけで……」
「あれは、年上の昂史さんに気を遣ってたんです! 本当なら――」
「別れる?」

 直樹の眉がピクリと反応する。
 その呟きに返したのは昂史だった。

「あぁ、俺……私たち、昔付き合ってたんですよ。元カレ、元カノってやつです」


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