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第三章 かがみとアーテ王女について
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かがみとアーテ王女について
本を読みと、アーテ王女はすぐに、かがみを、特別なものとして扱うようになった。
朝。
起きてかがみの前に向かうと、それに指を触れてみたりした。
ひんやりとしたかがみは、しかし、アーテ王女の指に幾度もつめたい感触を残した。
離すと、それはアーテ王女の残像を移し、指が中に入らなかったことへの軽い倦怠感があり、そうして冷たい感触が、指先に残った。
入れない。
当たり前。
しかし、アーテ王女の好奇心は、それでもやめることはなかった(アーテ王女の性格は、一言で言うとあけっぴろげで戦闘的。自身確信を持ったら、それに向かって突き進んでいくタイプの人間だった)。
どこか別のかがみなら、入ることができるのではないか。
すなわちかがみが違う。異なるかがみであれば、あるははいることができるのではないか、アーテ王女は考えた。
問題が浮かべば、あとは行動である。アーテ王女は自身持った確信を手に、王国中のかがみからかがみまで探し回った(とはいっても、最初に記述したように、長橋国は橋の国。それ以外の領土はない。そのため、国中といっても、たかが知れている、十歳になったばかりのアーテ王女にとっても、それは楽な仕事ではあった)。
はじめは城にある、長橋国のかがみをあたりはじめた(長橋国には城がある。それは、ちょうど、橋を覆うアーチのようになっていて、城へは橋から伸びる階段をつたってはいることができるようになっている。城は三階建てと、はじめは屋根裏部屋を換算せずに、数えられていたが、アーテ王女が来てからは、四階建てと、そのように呼ばれるようになっていた)。
アーテ王女は、王国内の地図を作ると、それにのっとって、ひとつひとつかがみを調べていった。
かがみの量は全部で、アーテ王女の部屋のものを除くと八つあった。応接室のかがみ。王様の執務室のかがみ。城のトイレのかがみ。城の玄関のかがみ。チェッカー少尉の部屋のかがみ。ロイズおばさんの部屋のかがみ。ロイズおばさんの料理店のトイレのかがみ。野外の共同トイレのかがみ。そうして、デッカー次官の部屋のかがみである(トイレのかがみは、男女合わせて二つ、そのためトイレのかがみは、全部で四個、全体として十個のかがみがあった計算になる)。
かがみ。
古代から、かがみはさまざまに言われた。
ナルシスの話。
グリム童話の話。
そうして今、アーテ王女はそのかがみに対決している。
果たして王女は、そのかがみに出会うことができるのだろうか。
はじめにアーテ王女は、王様の執務室にあるかがみから、その検索の手を伸ばした。
作戦は、王様が執務室にやってくる前にとりおこなわれた。
朝のひと時。
時刻にして午前六時。
アーテ王女が執務室の戸を念のためノックすると、案の定、中からは返事がない。
ノブを回し、それにともない扉を、ぐっと部屋の中へとおした。
部屋の中には、思ったとおり、誰もいない、空虚な空間を形作っていた。
かがみは?
どこだろう。
すぐに見つかった。
執務室の、暖炉のうえに乗っかったそのかがみは、アーテ王女が思った鏡の国のアリスに出てくる鏡にもっとも近いように思われた。
執務室のかがみ。
アーテ王女の目の前にある。
アーテ王女はかがみから、少し離れたところにたった。
かがみには、すでにアーテ王女の姿が映し出されている。
かがみの前には蜀台が二本あり、そうしてかがみにはそれらが写っている。
その間に写るアーテ王女の姿。
かがみ。
それは不思議なものであると、アーテ王女には思われた。
日常さしも不審に思わないものがどうしか、このときは、不思議なものに思われた。
何かしら。
アーテ王女は思った。
かがみは、アーテ王女の姿をうつした。手を動かす。それに応じてかがみにはその姿が映る。かがみの動きはアーテ王女の動作にしたがって連動し、かがみは持ち上げられた手と、同じように、手を挙げる。・・・・・・日ごろ見慣れた自分の姿。しかし、かがみに写っている自身の姿は、他人が見る姿とは異なる。左右対称。果たしてかがみとはなんなのだろうか。
ふと、思ったのは、それをみて、果たしてどちらが本物であるのかということだった。
かがみの中の自分が本物で、こっちにうつっているのが残像?
本物はどっちか? かがみに写った自分の姿か、それとも、かがみにうつした自分の姿か。
「・・・・・・・・・・・・」
もしもかがみに移った世界が本物なのだとしたら、世界は、両面に二つある計算になる。
アーテ王女はかがみに近づいた。それにともないかがみは、拡大化したアーテ王女の姿を映しだした。
かがみ。
アーテ王女は踏み台代わりに応接用の椅子を、暖炉の前に据え置くと、それに乗っかって立ち。蜀代を動かすと、自身の、かがみに写った姿に目を奪われた。
かわいらしい王女の姿、とおもった。
自尊心の強いアーテ王女の姿は、おそらく見るものと寸分たがわぬ様子でそれを写しだしているのだろうと想像できた。ほっそりとした腕、笑うとできるかわいいえくぼ。
不意に手を伸ばした。それにともないアーテ王女の画像は動き、触れた。
触れると、かがみの残像と、こっちの本物のアーテ王女の指がくっつき、かがみはその冷たさと、アーテ王女の与えた分量だけの重みを、アーテ王女の指先に残した。
これが鏡の国のアリスなら、すぐに入ることができるのに。
アーテ王女は思った。
しかしかがみは見ていたとおりのものを写すに過ぎない、ただの壁の一部とかしていた。
「・・・・・・・・・・・・」
調査終了。
次は玄関のかがみと、応接室のかがみ。朝の六時ということもあって、まだみんな起きだしてはいない(といっても、国民の数は少ない)。かがみを自由に調査するにはちょうどいいものがあった。しかし、調査はできても、それらはどちらも、アーテ王女が見た、かがみと同様であった、何の変哲もないかがみ。もしも、変哲があるのなら、かがみの中の自分の像は、それとは異なる形で変化しただろう。
右手を挙げると、左腕を挙げたり、左腕を挙げると、右腕を挙げたり。
しかし、そうではなかった。
果たしてアーテ王女の立てた仮説は正しいのだろうか。
不思議な国へと通じる、かがみはある。
しかし、調査の結果は、どれも仮説を立証するには不十分といわざるを得なかった。
動きをすれば、それに応じた反応をするが、今は、そうした反応をしないかがみを求めていた。
玄関のかがみを調べているときである。デッカー次官にでくわした。
「何です王女こんな早くから」
次官はアーテ王女がかがみにとらわれているのをみて、どうしたのかと、目くじらを立てた、すなわち、かがみに自分の姿をうつしてそれに見とれている人間は、ろくな者がいない、と、デッカー次官はいうのである。
アーテ王女は事情を説明した。
鏡の国は存在するのか、どうなのかという仮説を立てて、検証している、邪魔をしないでくれ。
すると、デッカー次官が反論した。
あまりにも、仮説が大胆すぎるというのである。
確かにそうだった。かがみの中に入れるかどうかなど、考えるだけ無駄。むしろそれを立証するように行動する人間など、いるわけがないではないか。
アーテ王女の予想したとおりの回答が、デッカー次官からは帰ってきた。
「何を夢のようなことをいっているのです、そんなもの、何ですと? その中にはいることができるかがみ? そんなものが、本当にあるわけがないでしょう。あれは御伽噺の中の話です。現実には、そんなものは存在しないのです」
デッカー次官は、王女をこてんぱんにやっつけた。
「いいですか、王女、そんなもの、信じるのはおやめなさい、さもないと、とんでもなく、ものの分別のつかない大人になりますよ、その中にはいることができるかがみなど、この世には存在しないのです。なんというとっぴな考え方でしょう。ほとほと王女には愛想がつきました。まったく何の因果でこんな王女を、王女にいただいたのか、不思議でなりません。まったく厄介な問題だ、本当に・・・・・ぶつぶつ、ぶつぶつ」
デッカー次官は、アーテ王女の仮説を、さんざん批判すると、ぶつぶつ言いながらも、それで満足したのか、王様の待つ、執務室へときえていった(デッカー次官が行う王様との会談事項はほとんど政治経済に関するものだった。時には国際政治経済の問題もあったが、それについてはほかの話である。今は、そう、国内政治経済である。そのなかでも、最近問題にされていたことは、王室の財政についてである。王国の財政は、スイスの銀行に預けた多額の現金の利息からまかなわれていたが、近年その原価割れが問題になっていた。これについてデッカー次官は、王国の住人、すなわちアーテ王女、ロイズおばさん、チェッカー少尉から、現金で課税しようとしていたが、王様はその案には反対で、質素倹約して、この難を乗り切ろうとしていた)。
どうしようかと思った。
まだ、調べるべき問題が、橋げたの下に、残っている。
デッカー次官はその問題に否定的であるようだった。
しかし。
意固地で、はじめたことはさいごまでやり遂げる主義の、戦闘的な哲学者は、デッカー次官の忠告を無視し、行動に移った。
まずはお城のトイレが、中に入ることができないかがみであると判明すると、今度は長橋国の橋げたのほうへ、向かった。
長橋国の共同トイレのかがみも、入るに甘んじたものであることがわかると、最後にロイズおばさんの料理店のかがみをしらべることにした。デッカー次官と、チェッカー少尉の部屋にあるかがみは無視された。
多分、あんな根性の曲がった連中のかがみなど、不思議であるはずがないというのが、アーテ王女の感想だった。チェッカー少尉は別としても、あんなに物事にがさつな人間が、不思議なかがみを持っているはずがない。むしろ、普通のかがみすら、もってはいないのではないだろうか。
とにかくそうした理由で、残るかがみはロイズおばさんの料理店のトイレのかがみと、その奥にある、ロイズおばさんの部屋の、三面鏡だった。
トイレのかがみは無視した。
これまでの経験上、それが怪しげなかがみである可能性は薄いと、考えられたからである。
カランコロン、
カランコロン。
部屋の中に進入。
ロイズおばさんはすでにおきていて、朝食の準備に追われていた。
しかし、アーテ王女にとって重要であったのは、もちろん緑の液体のかけられた卵焼きではなかった。アーテ王女にとっての関心は、ロイズ料理店の奥にある、ロイズおばさんの居住区にある、三面鏡だった。
「あら、王女、おはようございます」
ロイズおばさんは、アーテ王女の存在に気がつくと、軽やかに朝の挨拶をした。
「どうしたの? こんな早くに、まだ朝食のしたくは整っていませんよ」
アーテ王女は事情を話した。
すると、ロイズさんは何を勘違いしたのか、それともアーテ王女話を聞いてはいなかったのか、自己の思想を展開した。
「かがみ? ああ、そう。本をとりにきたのね、もうこのまえの本は読み終わってしまったの? いいわ、ちょっと早いけど、勝手に本を持っていってね。本当に王女には助かりますよ、本棚の中で眠っている本を、引っ張りだしてくれるのですもの。でもかがみ、そんな本、ここにあったかしら・・・・・・」
ロイズおばさんは、そういうと、なにやらむらさき色の液体が煮えたぎる鍋へと取り掛かっていった。
「・・・・・・・・・・・・」
話は通じなかったが、一応なかにはいることができた。もしかしたら、ロイズおばさんは、アーテ王女がかがみについての論文でも書こうとおもっていて、そうして話を取り違えたのかもしれなかった。
しかし、いつもそそっかしいところのあるロイズおばさんである。アーテ王女はそれほどこれを問題にしなかった。
今は、とにかくかがみである。
三面鏡。
中に入ると、朝の陽光が部屋の中いっぱいに溶け込んでいた。
氷ならばとろけそうな朝日である。
しかしアーテ王女はとろけるような氷とは異なる、しかし冷静な哲学者だった。
東側に、窓が備えられている。そのため部屋にはいっぱいの光が入り込んでいたのである。
アーテ王女は部屋の一番はじめにある書架をとおりすぎると、一目散に三面鏡に向かって歩みを進めた。
その前に立つ。
アーテ王女の前には、扉と、その接合面にかがみを持つ、三面鏡がその姿を見せていた。
あける。
しかし。
少しのためらい。
アーテ王女はその扉を開けることに、一瞬の躊躇をした。
三面鏡。
それは、他のかがみとは異なるかがみであった。かがみである、しかし、違う。何がちがっていたのだろう。それは、他の、トイレにあるかがみや、応接室にあるかがみと違って、人が女性へ、女性が人へと変化する、魔法のかがみであった。
アーテ王女は今まで、一度として頬紅をつけたことも、口紅をつけたこともなかった。
しかし、今、目の前にしている鏡は、まさにそのためのかがみである。
神秘であった。
アーテ王女は、その神秘さの前に、かがみの扉を開くことを躊躇した。
開ける。
開けない。
いや、開ける。
最後に勝ったのは、アーテ王女の知的好奇心であった。学術的な倫理が、その扉を開けるにはまだ早い十歳のアーテ王女の行動を決定づけたのである。
扉が開かれる。
両の手を、扉の取手にかけて、開く。
徐々にあけられるかがみ。
はじめは歴史的に金属(銅や鋼)であり、長い間をおいて歴史の中に現れた現在のかがみは、開かれると、しばらくは自身の両の扉をうつしていたが、やがて自身を開けた本人の姿を、その扉に映した。
扉を開くと、そこにはアーテ王女の姿が光っていた。
開いた扉の三方向から写されアーテ王女の姿。
三面鏡なので、右のアーテ王女。
左のアーテ王女。
正面のアーテ王女。
何か変化はないだろうか。
しばらくアーテ王女は息を呑む勢いで、かがみに見入った。
十秒経過。
二十秒経過
三十秒経過
一分。
・・・・・・
しかし、いくら経っても、かがみはかがみのまま、変化なく、その役割に準じた役目を果たしていた。
すなわちそこに写された人物の姿を映す。
それ以外の用途は、そのかがみにはないように思われた。
「・・・・・・・・・・・・」
触れてみた。
それでもかがみは、自身が始めに与えられた役割を果たしている。アーテ王女の指が、その中へと溶け込んでいくことはなかった。
本を読みと、アーテ王女はすぐに、かがみを、特別なものとして扱うようになった。
朝。
起きてかがみの前に向かうと、それに指を触れてみたりした。
ひんやりとしたかがみは、しかし、アーテ王女の指に幾度もつめたい感触を残した。
離すと、それはアーテ王女の残像を移し、指が中に入らなかったことへの軽い倦怠感があり、そうして冷たい感触が、指先に残った。
入れない。
当たり前。
しかし、アーテ王女の好奇心は、それでもやめることはなかった(アーテ王女の性格は、一言で言うとあけっぴろげで戦闘的。自身確信を持ったら、それに向かって突き進んでいくタイプの人間だった)。
どこか別のかがみなら、入ることができるのではないか。
すなわちかがみが違う。異なるかがみであれば、あるははいることができるのではないか、アーテ王女は考えた。
問題が浮かべば、あとは行動である。アーテ王女は自身持った確信を手に、王国中のかがみからかがみまで探し回った(とはいっても、最初に記述したように、長橋国は橋の国。それ以外の領土はない。そのため、国中といっても、たかが知れている、十歳になったばかりのアーテ王女にとっても、それは楽な仕事ではあった)。
はじめは城にある、長橋国のかがみをあたりはじめた(長橋国には城がある。それは、ちょうど、橋を覆うアーチのようになっていて、城へは橋から伸びる階段をつたってはいることができるようになっている。城は三階建てと、はじめは屋根裏部屋を換算せずに、数えられていたが、アーテ王女が来てからは、四階建てと、そのように呼ばれるようになっていた)。
アーテ王女は、王国内の地図を作ると、それにのっとって、ひとつひとつかがみを調べていった。
かがみの量は全部で、アーテ王女の部屋のものを除くと八つあった。応接室のかがみ。王様の執務室のかがみ。城のトイレのかがみ。城の玄関のかがみ。チェッカー少尉の部屋のかがみ。ロイズおばさんの部屋のかがみ。ロイズおばさんの料理店のトイレのかがみ。野外の共同トイレのかがみ。そうして、デッカー次官の部屋のかがみである(トイレのかがみは、男女合わせて二つ、そのためトイレのかがみは、全部で四個、全体として十個のかがみがあった計算になる)。
かがみ。
古代から、かがみはさまざまに言われた。
ナルシスの話。
グリム童話の話。
そうして今、アーテ王女はそのかがみに対決している。
果たして王女は、そのかがみに出会うことができるのだろうか。
はじめにアーテ王女は、王様の執務室にあるかがみから、その検索の手を伸ばした。
作戦は、王様が執務室にやってくる前にとりおこなわれた。
朝のひと時。
時刻にして午前六時。
アーテ王女が執務室の戸を念のためノックすると、案の定、中からは返事がない。
ノブを回し、それにともない扉を、ぐっと部屋の中へとおした。
部屋の中には、思ったとおり、誰もいない、空虚な空間を形作っていた。
かがみは?
どこだろう。
すぐに見つかった。
執務室の、暖炉のうえに乗っかったそのかがみは、アーテ王女が思った鏡の国のアリスに出てくる鏡にもっとも近いように思われた。
執務室のかがみ。
アーテ王女の目の前にある。
アーテ王女はかがみから、少し離れたところにたった。
かがみには、すでにアーテ王女の姿が映し出されている。
かがみの前には蜀台が二本あり、そうしてかがみにはそれらが写っている。
その間に写るアーテ王女の姿。
かがみ。
それは不思議なものであると、アーテ王女には思われた。
日常さしも不審に思わないものがどうしか、このときは、不思議なものに思われた。
何かしら。
アーテ王女は思った。
かがみは、アーテ王女の姿をうつした。手を動かす。それに応じてかがみにはその姿が映る。かがみの動きはアーテ王女の動作にしたがって連動し、かがみは持ち上げられた手と、同じように、手を挙げる。・・・・・・日ごろ見慣れた自分の姿。しかし、かがみに写っている自身の姿は、他人が見る姿とは異なる。左右対称。果たしてかがみとはなんなのだろうか。
ふと、思ったのは、それをみて、果たしてどちらが本物であるのかということだった。
かがみの中の自分が本物で、こっちにうつっているのが残像?
本物はどっちか? かがみに写った自分の姿か、それとも、かがみにうつした自分の姿か。
「・・・・・・・・・・・・」
もしもかがみに移った世界が本物なのだとしたら、世界は、両面に二つある計算になる。
アーテ王女はかがみに近づいた。それにともないかがみは、拡大化したアーテ王女の姿を映しだした。
かがみ。
アーテ王女は踏み台代わりに応接用の椅子を、暖炉の前に据え置くと、それに乗っかって立ち。蜀代を動かすと、自身の、かがみに写った姿に目を奪われた。
かわいらしい王女の姿、とおもった。
自尊心の強いアーテ王女の姿は、おそらく見るものと寸分たがわぬ様子でそれを写しだしているのだろうと想像できた。ほっそりとした腕、笑うとできるかわいいえくぼ。
不意に手を伸ばした。それにともないアーテ王女の画像は動き、触れた。
触れると、かがみの残像と、こっちの本物のアーテ王女の指がくっつき、かがみはその冷たさと、アーテ王女の与えた分量だけの重みを、アーテ王女の指先に残した。
これが鏡の国のアリスなら、すぐに入ることができるのに。
アーテ王女は思った。
しかしかがみは見ていたとおりのものを写すに過ぎない、ただの壁の一部とかしていた。
「・・・・・・・・・・・・」
調査終了。
次は玄関のかがみと、応接室のかがみ。朝の六時ということもあって、まだみんな起きだしてはいない(といっても、国民の数は少ない)。かがみを自由に調査するにはちょうどいいものがあった。しかし、調査はできても、それらはどちらも、アーテ王女が見た、かがみと同様であった、何の変哲もないかがみ。もしも、変哲があるのなら、かがみの中の自分の像は、それとは異なる形で変化しただろう。
右手を挙げると、左腕を挙げたり、左腕を挙げると、右腕を挙げたり。
しかし、そうではなかった。
果たしてアーテ王女の立てた仮説は正しいのだろうか。
不思議な国へと通じる、かがみはある。
しかし、調査の結果は、どれも仮説を立証するには不十分といわざるを得なかった。
動きをすれば、それに応じた反応をするが、今は、そうした反応をしないかがみを求めていた。
玄関のかがみを調べているときである。デッカー次官にでくわした。
「何です王女こんな早くから」
次官はアーテ王女がかがみにとらわれているのをみて、どうしたのかと、目くじらを立てた、すなわち、かがみに自分の姿をうつしてそれに見とれている人間は、ろくな者がいない、と、デッカー次官はいうのである。
アーテ王女は事情を説明した。
鏡の国は存在するのか、どうなのかという仮説を立てて、検証している、邪魔をしないでくれ。
すると、デッカー次官が反論した。
あまりにも、仮説が大胆すぎるというのである。
確かにそうだった。かがみの中に入れるかどうかなど、考えるだけ無駄。むしろそれを立証するように行動する人間など、いるわけがないではないか。
アーテ王女の予想したとおりの回答が、デッカー次官からは帰ってきた。
「何を夢のようなことをいっているのです、そんなもの、何ですと? その中にはいることができるかがみ? そんなものが、本当にあるわけがないでしょう。あれは御伽噺の中の話です。現実には、そんなものは存在しないのです」
デッカー次官は、王女をこてんぱんにやっつけた。
「いいですか、王女、そんなもの、信じるのはおやめなさい、さもないと、とんでもなく、ものの分別のつかない大人になりますよ、その中にはいることができるかがみなど、この世には存在しないのです。なんというとっぴな考え方でしょう。ほとほと王女には愛想がつきました。まったく何の因果でこんな王女を、王女にいただいたのか、不思議でなりません。まったく厄介な問題だ、本当に・・・・・ぶつぶつ、ぶつぶつ」
デッカー次官は、アーテ王女の仮説を、さんざん批判すると、ぶつぶつ言いながらも、それで満足したのか、王様の待つ、執務室へときえていった(デッカー次官が行う王様との会談事項はほとんど政治経済に関するものだった。時には国際政治経済の問題もあったが、それについてはほかの話である。今は、そう、国内政治経済である。そのなかでも、最近問題にされていたことは、王室の財政についてである。王国の財政は、スイスの銀行に預けた多額の現金の利息からまかなわれていたが、近年その原価割れが問題になっていた。これについてデッカー次官は、王国の住人、すなわちアーテ王女、ロイズおばさん、チェッカー少尉から、現金で課税しようとしていたが、王様はその案には反対で、質素倹約して、この難を乗り切ろうとしていた)。
どうしようかと思った。
まだ、調べるべき問題が、橋げたの下に、残っている。
デッカー次官はその問題に否定的であるようだった。
しかし。
意固地で、はじめたことはさいごまでやり遂げる主義の、戦闘的な哲学者は、デッカー次官の忠告を無視し、行動に移った。
まずはお城のトイレが、中に入ることができないかがみであると判明すると、今度は長橋国の橋げたのほうへ、向かった。
長橋国の共同トイレのかがみも、入るに甘んじたものであることがわかると、最後にロイズおばさんの料理店のかがみをしらべることにした。デッカー次官と、チェッカー少尉の部屋にあるかがみは無視された。
多分、あんな根性の曲がった連中のかがみなど、不思議であるはずがないというのが、アーテ王女の感想だった。チェッカー少尉は別としても、あんなに物事にがさつな人間が、不思議なかがみを持っているはずがない。むしろ、普通のかがみすら、もってはいないのではないだろうか。
とにかくそうした理由で、残るかがみはロイズおばさんの料理店のトイレのかがみと、その奥にある、ロイズおばさんの部屋の、三面鏡だった。
トイレのかがみは無視した。
これまでの経験上、それが怪しげなかがみである可能性は薄いと、考えられたからである。
カランコロン、
カランコロン。
部屋の中に進入。
ロイズおばさんはすでにおきていて、朝食の準備に追われていた。
しかし、アーテ王女にとって重要であったのは、もちろん緑の液体のかけられた卵焼きではなかった。アーテ王女にとっての関心は、ロイズ料理店の奥にある、ロイズおばさんの居住区にある、三面鏡だった。
「あら、王女、おはようございます」
ロイズおばさんは、アーテ王女の存在に気がつくと、軽やかに朝の挨拶をした。
「どうしたの? こんな早くに、まだ朝食のしたくは整っていませんよ」
アーテ王女は事情を話した。
すると、ロイズさんは何を勘違いしたのか、それともアーテ王女話を聞いてはいなかったのか、自己の思想を展開した。
「かがみ? ああ、そう。本をとりにきたのね、もうこのまえの本は読み終わってしまったの? いいわ、ちょっと早いけど、勝手に本を持っていってね。本当に王女には助かりますよ、本棚の中で眠っている本を、引っ張りだしてくれるのですもの。でもかがみ、そんな本、ここにあったかしら・・・・・・」
ロイズおばさんは、そういうと、なにやらむらさき色の液体が煮えたぎる鍋へと取り掛かっていった。
「・・・・・・・・・・・・」
話は通じなかったが、一応なかにはいることができた。もしかしたら、ロイズおばさんは、アーテ王女がかがみについての論文でも書こうとおもっていて、そうして話を取り違えたのかもしれなかった。
しかし、いつもそそっかしいところのあるロイズおばさんである。アーテ王女はそれほどこれを問題にしなかった。
今は、とにかくかがみである。
三面鏡。
中に入ると、朝の陽光が部屋の中いっぱいに溶け込んでいた。
氷ならばとろけそうな朝日である。
しかしアーテ王女はとろけるような氷とは異なる、しかし冷静な哲学者だった。
東側に、窓が備えられている。そのため部屋にはいっぱいの光が入り込んでいたのである。
アーテ王女は部屋の一番はじめにある書架をとおりすぎると、一目散に三面鏡に向かって歩みを進めた。
その前に立つ。
アーテ王女の前には、扉と、その接合面にかがみを持つ、三面鏡がその姿を見せていた。
あける。
しかし。
少しのためらい。
アーテ王女はその扉を開けることに、一瞬の躊躇をした。
三面鏡。
それは、他のかがみとは異なるかがみであった。かがみである、しかし、違う。何がちがっていたのだろう。それは、他の、トイレにあるかがみや、応接室にあるかがみと違って、人が女性へ、女性が人へと変化する、魔法のかがみであった。
アーテ王女は今まで、一度として頬紅をつけたことも、口紅をつけたこともなかった。
しかし、今、目の前にしている鏡は、まさにそのためのかがみである。
神秘であった。
アーテ王女は、その神秘さの前に、かがみの扉を開くことを躊躇した。
開ける。
開けない。
いや、開ける。
最後に勝ったのは、アーテ王女の知的好奇心であった。学術的な倫理が、その扉を開けるにはまだ早い十歳のアーテ王女の行動を決定づけたのである。
扉が開かれる。
両の手を、扉の取手にかけて、開く。
徐々にあけられるかがみ。
はじめは歴史的に金属(銅や鋼)であり、長い間をおいて歴史の中に現れた現在のかがみは、開かれると、しばらくは自身の両の扉をうつしていたが、やがて自身を開けた本人の姿を、その扉に映した。
扉を開くと、そこにはアーテ王女の姿が光っていた。
開いた扉の三方向から写されアーテ王女の姿。
三面鏡なので、右のアーテ王女。
左のアーテ王女。
正面のアーテ王女。
何か変化はないだろうか。
しばらくアーテ王女は息を呑む勢いで、かがみに見入った。
十秒経過。
二十秒経過
三十秒経過
一分。
・・・・・・
しかし、いくら経っても、かがみはかがみのまま、変化なく、その役割に準じた役目を果たしていた。
すなわちそこに写された人物の姿を映す。
それ以外の用途は、そのかがみにはないように思われた。
「・・・・・・・・・・・・」
触れてみた。
それでもかがみは、自身が始めに与えられた役割を果たしている。アーテ王女の指が、その中へと溶け込んでいくことはなかった。
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ミステリー
「あらゆる本が集まる」と言われる無許可の図書館都市、『九龍城寨図書館』。
ここには、お酒の本だけを集めた図書バーや、宗教的な禁書のみを扱う六畳一間のアパート、届かなかった手紙だけを収集している秘密の巨大書庫……など、普通では考えられないような図書館が一万六千館以上も乱立し、常識では想像もつかない蔵書で満ち溢れている。
そんな図書館都市で、ひょんなことから『見習い司書』として働くことになった主人公の『リリカ』は、驚異的な記憶力と推理力を持つ先輩司書の『ナナイ』と共に、様々な利用者の思い出が詰まった本や資料を図書調査(レファレンス)していくことになる。
「数十年前のラブレターへの返事を見つけたいの」、「一説の文章しかわからない作者不明の小説を探したいんだ」、「数十年前に書いた新人賞への応募原稿を取り戻したいんです」……等々、奇妙で難解な依頼を解決するため、リリカとナナイは広大な図書館都市を奔走する。
伏線回収の夏
影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。大学時代のクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。屋敷では不審な事件が頻発しているのだという。かつての同級生の事故死。密室から消えた犯人。アトリエにナイフで刻まれた無数のXの傷。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の6人は大学時代、この屋敷でともに芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。6人の中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。
《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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