女神の心臓

瑞原チヒロ

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第二話 記憶は水鏡に映して

第三章 1

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「今日もありがとうございました……!」
 いつものように、アリムは丁寧にフロリデに頭を下げた。
 柔らかい茶色の毛が、フロリデの目の前でさらりと揺れた。それを眺めて、フロリデはふっと息をつく。
「お疲れ様、アリム」
 いつもより少しだけ低いトーンで労うと、アリムは笑みを浮かべた。ぎこちない不自然な笑みだ。多分、奥歯を噛みしめている。
「はい。店長も――あの」
 アークさんをよろしくお願いします。
 か細い声でそう言って、まだ幼い少年はもう一度頭を下げる。
 深く、深く。――そのまましばらく顔を上げなかったのは、きっと込み上げてくる何かと戦っているからだ。
 フロリデは気づかないふりをして、視線を少年から空へと移した。
 どんよりとした暗く重い空は、容赦なく彼らを押しつぶそうとしているように、見えた。

 走り家路につくアリムの背中が消えたあと――
 フロリデは店を閉め、振り返った。
「トリバー。アンタは今日いつ帰るンだい」
 カウンターで本を読んでいる緑の髪の青年は、気だるそうに応えてきた。
「アレが部屋から出てきたら」
「それでいいのかい。一生帰れないかもしれないよ」
 それは茶化す言葉ではなく、半ば本気で思ったことだ。
 今、店の奥にあるフロリデの私室には、あの亜麻色の髪の青年が引きこもっている。これは実に異常な事態だった。あの青年は何かあるとどこかへ――つまり外のどこかへ――姿を消すのが常で、“部屋に引きこもる”など日常生活でもしない。おそらく、あの性格ではひとところに留まることができないのだろう。
 ありえないと思っていた。それが今、現実に起こっている。
 しかしアークの相棒――と本人は死んでも認めないだろうが――は、まったく困っている様子はなかった。
「心配ない。腹が減ればそのうち出てくる」
 フロリデは眉を曇らせた。
「いくらあの子でも、さすがに今回は場合が違うンじゃないのかィ?」
「いいや。いついかなるときでも空腹には勝てない。それがあのバカがバカたるゆえんだ」
 トリバーがおごそかな声でそう告げたそのとき。
 奥の部屋から奇妙な音が聞こえた。まるでどこかの大型草食動物が唸っているかのような音だ。フロリデはぎょっとして身構えたが、トリバーはただ、うるさそうに扉のほうに視線を投げやった。
「ほらな。――フロリデ、なんか簡単に食えるもんをやってくれ。このままじゃ暴れる」
「……ああ」
 拍子抜けして、フロリデは全身から力を抜いた。そして、苦笑した。――まったく、このフロリデ姐さんが、いいように乱されてるもんだ、今日は。

「アーク。入るよ」
 軽いノックとともにそう声をかけ、返事を待たずにドアを開けた。
 青年はベッドの上にいた。つい数刻前まで協会の少女が眠っていた、本来はフロリデしか使わないベッドの上に座り込み、ぐったりと頭を垂れている。
「アーク? ほら、食事だよ。簡単なものだけどね」
 店にあったパンを差し出すと、がばとアークは頭を上げた。
「食べる!」
 受け取るなりもしゃもしゃとかぶりつく。本当に子供の反応、まさしくいつも通りのアークだ。しかしフロリデはそれでも安心しきれずに、アークの隣に腰かけた。彼女の動きには何の反応も示さない青年に、そっと語りかける。
「……そのパン、アリムがお店から持ってきてくれたんだよ」
 アークは口いっぱいに含んでもぐもぐと咀嚼する。その間、ずっと無言だった。
 表情さえ動かなかった。
 その横顔を見つめ、フロリデは思い返す。ほんの数分前まで――この青年と、そしてアリムが、店の中央で相対していた。
 小一時間もない、わずかな時間のことだ。
 その間、店の空気は何とも言い難いものに染まっていた。凍りついていたわけでも、張り詰めていたわけでも、剣呑としていたわけでもない。ただ。
 ぐらぐらと揺れる場所にいるような、そんな危うさ。
『協会の人たちの調査に参加させてください』
 アークに真正面からそう願ったアリム。頭を深く下げ、必要以上のことは言わなかった。
 否。アークに問われて、ひとつだけ言い足した。
『ルクレさんとまだ話したいことがあるんです』
 と。
 横で見ていたフロリデは、冷静を装いながら腹の底にぐっと力をこめていた。せっかくのアリムの決心に水を差すつもりはない。けれど口を出さずにいるのは重労働になるかもしれないと、そう予想していた。
 しかし。
 アークは一通りの警告をアリムに提示した。そのどれもが、おおむねアリムも一度は考えたことらしく、アリムはみじんも動揺せずに聞いていた。
 その上で『行きたいんです』と。
 ――そう繰り返したアリムの顔を見る、アークの顔が。
「アーク」
 フロリデはいまだにパンを咀嚼している青年の横顔に向かって、つぶやいた。
「アンタがもっと強くアリムを止めてたら、アリムは止めたかもしンないよ。よく我慢したね?」
 ごくん、と青年の喉が鳴る。
「警告はしたから。その上でアリムが決めたんなら、俺には何も言えない」
「そう――そうだね」
 フロリデは句を継げなくなった。
 確かに、アークは言葉ではそれ以上アリムを止めなかった。むしろ怒りさえしなかったのだ。ただ淡々と予想される危険だけを並べ――
 そして。
『……そうか』
 最後に寂しそうな顔だけを、見せた。
 そんな顔はフロリデも見たことがなかった。鮮烈に脳裏に焼き付いて、この先も消えそうになかった。今現実に目の前にいる青年にその画が重なるたび、まるで彼の心を透かしてみてしまったかのような、そんな罪悪感が心をかすめる。
 きっと。きっとあれを真正面に見てしまったアリムにとって、どんな非難よりも雄弁な制止だったに違いない。
 ひょっとしたらアリムはあの瞬間、やっぱり行くのを止めようか――と考えたかもしれない。少なくともあのときアリムがそう言をひっくり返したとしても、全く責める気になれないほどには重かった。ようやく物心ついたばかりの幼子に、長期間家で留守番させようとする母親を目にしたら、こんな気持ちになるかもしれない。そう思う。
 結局アリムは決心を引っ込めることはなかった。
 もしかしたら、そのタイミングを失っただけかもしれないが。
 フロリデは心の中だけでため息をつく。まともに口論されたほうがずっと気が楽だった。しかしそうはならなかった。アークは明確な抗議をすることなくただ部屋に引きこもり、きりがなかったのでアリムを家に帰すことにした。「アークさんをよろしくお願いします」アリムの声が耳の奥で反響している。
 アークは手の内に残ったパンのかけらを見下ろした。
「……アリムが作ったパン?」
「生地をこねる作業をやらせてもらった、とは言ってたね。一から全部作ったわけではないってさ」
「でも、作ったんだな」
 そう言って――
 アークは顔をほころばせた。嬉しそうに。けれどほんの少しだけ、切なそうに。
「……アーク?」
「別に俺だって、アリムのやりたいことを邪魔したいわけじゃない」
 固まっていた体をほぐすようにもぞりと動く。それに伴って、青年の唇からかすかなため息もこぼれた。
「ただ、アリムは精霊の子だから……どうしても相性の悪い場所はあるだろ。地属性と水属性は結びつきもあるからそうすぐに反応するわけじゃないけど、それでも危険には違いないし。そうは言っても」
 パンを見下ろす視線が細くなる。「精霊の子に、意思を曲げろと言うのは難しい。アリムは頑固だよ。俺がどうこう言ってもあんまり意味ない」
 フロリデは口をつぐむ。
 そうだった。アークの中では、アリムはどこまでも“精霊の子”なのだ。
「以前トリバーにあらかじめ言われてたことをようやく実感できた」
 そうつぶやき、アークはパンのかけらを口に放り込む。
「トリバーに? 何を言われてたんだい?」
「アリムは“成長する”って」
 ごくん。再び喉が鳴った。
 今日はいつも以上に大げさに食事しているように見えた。口の中でたしかめているのはパンの味か、それとも別の何かなのだろうか。眼差しを上げて虚空を見据え、青年は言葉を継ぐ。
「つまり“変化する”んだ。できれば今のままでいてくれるほうがいいんだけどな。そのほうが危険がないから」
「危険? アーク、それは」
「フロリデ。最近、水鏡の洞窟について何か関係ありそうな話題ある? ささいなことでも教えてほしい」
 ようやくアークはフロリデに体を向ける。真剣な顔で。
 この青年がこんな顔をまともに向けてくれることなんて初めて出会った頃ぶりだ。それを喜んでいる場合ではないけれど。
 フロリデは足を組んだ。頭の片隅に溜め込んである、小さな情報屋クルトの声を思い返す。
「そうだねェ……ゼーレ自体が不安定で、色んな情報が錯綜してはいるンだけど。洞窟自体のことはなかったね。というかあのお嬢ちゃんが来るまでしばらく耳にしてない単語だ」
「ゼーレが不安定って?」
「精霊に聞いてないのかい? 町長派と副町長派の仲が悪くなる一方だっていうハナシ」
 アークは心の底から嫌そうな顔をした。
「人間同士の争い? 町長だの副町長だの、そういうお偉いさんの争いは大体精霊に被害が及ぶんだ」
「それは否定しないけどサ。精霊がアンタに訴えてこないンなら、まだ直接的には手を出してないンだろ」
「でもあらかじめ頭に入れておく必要が十分ある。どっちが精霊にとって脅威になりそう?」
 難しいことを聞く。どちらにとっても精霊は十分利用価値があるだろう。
 しかし、フロリデは即答した。
「より精霊にとって嬉しくない関わり方をしてくる可能性ってンなら、まず副町長だね。目的のためなら手段を選ばない野心家だ」
「町長のほうは?」
「町長は長くゼーレの中枢にいた穏健派。この街のトップに立って六年だよ。この六年間、ゼーレが大きく精霊を害したことがあったかい?」
「……街は、ない」
 アークは不満そうに唸った。「その代わり、協会の活動を街が抑止した様子もあんまりなかった」
「それは確かにね。街を分裂させないために守りに入るせいで、積極的に協会を止めることはなかった。ただ、町長派自体が“精霊に直接手を出す”可能性はかなり低いと言える」
「何でフロリデがそんなこと言えるんだ?」
 至極もっともな疑問に、フロリデは苦笑を返した。
「なに。町長派のそこそこの地位の人間に、知り合いがいるのサ。――だから、まず注意すべきなのは副町長派ってコトだ。もっと厳密に言うなら、“ゼーレ独立派”だね」
 ふうんとアークは小首をかしげながらしげしげとフロリデの顔を見る。
 彼女の言った内容が嘘か真かを見極めようとでもしているのかと思ったら、違うようだ。
「……町長派に知り合いがいるんなら、あんたどうしてその人に働きかけないんだ? “仲間を助けてください”って」
「―――」
 虚を衝かれた。フロリデは完全に絶句した。
 よもやアークがそこに――つまりフロリデ個人の問題に――関心を持つことがあるだなどと、考えもしなかったのだ。
 そもそも自分の仲間たちが抱えている問題の話をアークの前でしたことなどなかった――
「アーク……っ! 嬉しいじゃないか、やっぱりアタシのことを好いてくれて――」
「いや別にどうでもいい」
 即座にきっぱりと言い切られた。
 フロリデはがっくりと肩を落とした。
「素直じゃないねェ……」
 そのときのアークの目は何か理解しがたい得体のしれないものを見る目だったが、まあ今さら気にすることもない。
 せっかくの、アークとまともに向き合っていられる時間。もっと戯れていたいのはやまやまだったが、今は懸念材料が多すぎた。
「アーク。アンタ、水鏡の洞窟の精霊とは会ったことがあるのかい?」
「ん……いや、ない。俺あそこの奥まで入ったことがないから」
 話題が精霊のことになると、アークの表情は明らかに変わる。「入口付近には入ってみた。水気は十分あったから、奥にちゃんと精霊たちがいるはずだ。外の精霊たちも洞窟の主やそこに属する精霊がいなくなったというようなことは言わないし。ただ、洞窟の主の話題になると心配そうな顔をする」
「理由は?」
「分からない。言おうとしない。多分、主自身が助けを求めてはいないってことなんだろうな。だけど周りからすれば放っておけない状態だから、彼らは遠まわしに俺に関わってほしがってる」
 だから何とかしたい。
 アークは迷いのない声音でそう言った。
 フロリデが無言でその顔を見返していると、青年は直後に表情に翳りを見せた。
「……洞窟の子と一緒に、アリムも護ってやらないと」
 つぶやく。
 視線を膝に落とし、初めて弱々しい声音で。
「でも、アリムが“変化する”なら……俺には何もできないかもしれない」
 そのまま口をつぐんでしまう青年を、フロリデはじっと見つめた。
 ――この子は何を不安がっているのか。
 猫背になったその背中に、ずっしりとのしかかる荷物が見える。一方ではひどく心細そうに眼差しをさまよわせている。これが精霊保護協会の恐れる“背く者”なのだと思うと、苦笑が漏れた。
 手を伸ばす。うつむき気味の彼の頬に指を触れる。逃げられることはなかった。そっと、アークの顔の輪郭を撫でた。
「バカだねェ。――アーク、何でもかんでもアンタが護らなくたっていいんだよ。時には自力で解決させるのも愛情だ」
 曇ったままの視線が上がり、疑問符まじりにフロリデをうかがう。
 フロリデは微笑んだ。
「精霊たちはともかく、アリムはこの先きっと変化していくンだろ。けど心配しなくていいサ、アリムは決してアンタのことを嫌わない」
 保証などないことを分かっている。けれど、彼女は自信満々に言い切った。
 ――言い切ることが、彼らには必要なのだろうと、そう思ったから。
 アークの表情が、腑に落ちるほどではなくとも、ほんの少し和らいだようだ。おかしいね、とフロリデは心の中で笑った。
 こんなとき、この子とアリムは、とてもよく似た顔をするんだ。
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