女神の心臓

瑞原チヒロ

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第一話 其れは幼き心の傍らに

第四章 其れは憤りという名のー5

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 アリムの部屋にはひとつ、大きな窓がある。
 窓ガラス越しに見える月は、今夜はまんまるに近かった。
(きれいだな……)
 月の形をはっきりと見ることができるようになったのは、森を出るようになってからだ。あの常緑樹の森は、葉が豊かすぎて空の様子はよく分からないから。
 代わりに、「木漏れ日」的な陽光や月光の美しさを、アリムは誰よりもよく知っている。
(どっちがいいってわけじゃないもん……ね)
 どちらも知っている自分が、少しだけ贅沢に思えて、アリムはひそかに微笑んだ。
 まるでそれに応えるかのように、月がますます輝いて見える。
 と――
「……?」
 ――月の輪郭が、ぐにゃりとゆがむ。
 まるで大きな手で押しつぶされたかのような変化。はっと起き上がったアリムが窓ガラスに張りついてよく見ると、それは月だけの変化ではなかった。
 空だ。
 星も、暗くてよく見えないがかすかにある雲も。すべてがぐにゃぐにゃにゆがんでいる。
 見つめているうちに、アリムはふっと意識が遠くなった。
 まるで目の前の景色に吸いこまれていくかのように――
「何かが来る――」
 囁くような声は背後から。そしてその声の主が、窓に張りついていたアリムを後ろから、抱きこむように引っ張った。
「俺の傍から離れるな」
 耳元で、鋭くトリバーの声。張りつめた青年の気配に、アリムは遠くへ飛んでいくような意識から我に返った。
 ぴしっ――
 目の前の窓ガラスにヒビが入り、そして、
 バン!
 弾けるように砕けた。
 冷たすぎる夜風が、一気に吹き込んできた。アリムは身を縮めた。トリバーの体温がひどくありがたかった。
 しかし、窓が割れてもそこには誰もいない。ゆらゆらと揺れる夜闇が見えるのみ――
『やはり……精霊術士(マギサ)が護衛か』
 その声は、どこからともなく響いてきた。
 トリバーが舌打ちする。そして、「目を閉じろ!」と鋭くアリムに命じた。
 アリムは今回も、何が何だか分からないまま従った。ぎゅっとつむった瞼の奥で思う――声の言う、マギサとはトリバーのことだろうか。
『しかし無用心だな……肝心の『背く者』がいないとは』
 声は、のどの奥で笑うような気配を見せた。
『――あれでなければ、私には勝てぬだろうに』
 背く者?
 ――誰のこと?
「なめられたもんだな……」
 トリバーがつぶやく。しかし、その声に緊張感がある。
『おや、マギサ・ニクテリス……君をなめたつもりはない。君はマギサとしては間違いなくトップクラスの術士だろう。現に今、すぐ目を閉じたことは正しい判断。私の幻術に惑わされぬためには、それしか方法はない』
 幻術の法を即座に見破るその眼力はたしかなものだ、と声は褒め言葉には思えないトーンで言った。
『しかし……私には勝てぬ。それが分からぬほど愚かでもない』
「―――」
 目を閉じたまま何も見えない。トリバーは一体何をしたのだろうか――
 ごうっ! と聞き覚えのある音がした。風の渦が巻き起こる音。
 続いて、バリンと何かが割れた。
 部屋の中の空気が大きく動いた。
『ほう……』
 声は初めて、心から感心するような気配を見せた。
『私の位置を正確につかみとったか。思った以上の力だ、マギサ』
 しかし当たらなかったな、と声はまた笑う。
 アリムは目を開きかけた。とたんに、「開けるな!」とトリバーの鋭い声。
 しかし、目を閉じたままでいると、あの妙な『声』はひどく精神を圧迫する。
 開いては幻。閉じては圧迫。どちらも恐怖。
 しがみついているトリバーの腕だけが、たしかな安心の証。
『悪いが、お前の相手をしている暇はない――マギサ』
 せめてもうひとりいるべきだったな。声はよく分からないことを言った。
 けれど、その意味はすぐ知れた――
『この家にはもうひとり無防備な人物がいる……そちらから干渉してもいいのだぞ?』
 言葉とともに。
 パタン、と部屋の扉が開く、いつもの音がした。
 続いて、足音。
「アリム……」
 名を呼ぶ声に、アリムはびくりと震えた。
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