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第三章 王子の罠
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橙の十六日。
アンゼリスカからの定期連絡が途絶えた。
「レイネンドランドに見つかった……のか。アンゼ、アンゼ……っ」
シャールは親衛隊長の身を案じ、彼をかの国へ送り込んだことを気に病んだ。
「シャール様、大人しく寝ていなさい。体調がすぐれないんでしょう」
フレデリックが言い聞かせても、シャールは重い体をおして外に出て、空を見上げてはアンゼリスカの飼い鳩を待つばかり。
「アンゼ……」
「シャール様」
もはやフレデリックの声は聞こえていない。
シャールにとって、アンゼリスカは親衛隊長である前に乳兄妹だ。家族同然なのだ。
――無防備に城の外へ出る王女のために、親衛隊員は交替で姫の護衛についた。昼も夜も、決して姫を一人きりにしないように。
フレデリックは自分の無力を痛感した。
橙の二十五日。昼夜を問わず外に出る姫の護衛番を他の親衛隊員に任せたフレデリックは、自室に戻った。
乱暴に親衛隊員の上着を脱ぐと放り出し、上半身裸の姿になると、ベッドへ身を投げ出す。眼鏡がずれて邪魔になり、それもはずして放り出した。
柔らかいマットレスの感触が、やけに苦しい。
しばらくうずくまっていた彼は、やがて体を起こした。
ベッドから足だけを下ろし、座る。
ゆっくりと、胸の前で両の掌をかざしてみる。
願った――光を。
鮮明にイメージした、輝きを。
心の底から、光を求めた。暗い部屋を灯してくれる灯り、心を照らしてくれる灯り。
しかし掌には何も反応はなく、
そして応えるものは何もない。
く、と彼は笑った。
どうしようもなく笑いがこみああげてきた。
「は……ははははは!」
一人きりの部屋に、笑い声が満ちた。彼は肩を揺さぶり笑い続けた。そしてひとしきり笑った後――その空色の瞳から、すっと感情が抜け落ちた。
「――どうせ俺は、ティエラ人じゃないさ」
空虚な声が落ちる。
――この国は居心地が悪いか?
(ええ、居心地悪いですよ)
心の中で吐き捨てた。いくら紡石の技術を重要視しているからとは言え、このティエラという国はあまりに排他的すぎる。
彼が懇意にしている町娘のインルーイ。彼女もその被害に遭った一人だ。彼女は外国から来た学者と恋に落ちた。だが、結婚することは周囲が決して許さなかった。
やむなく別れて。
だから外国人のフレデリックにすがりついた。かつての恋人のぬくもりを求めて。
互いに慰めあうような関係だ。そして二人で捨てられた猫のような声でつぶやくのだ。
「紡石にどれほどの価値がある……」
まるでそれに反応したかのように――
部屋のドアが叩かれた。
フレデリックは訝った。
「誰だ?」
「――カシュア副隊長。ちょっといいかな」
聞こえた声は、意外すぎる声で――
フレデリックは慌てて、脱ぎ捨てた親衛隊服を着直した。眼鏡をかけ、ドアを開けに行く。
「やあ」
エディレイド・バーンスタイン・ティエラが、笑顔でそこにいた。
「ひとつ話があってね――」
エディレイドはいつもの穏やかな笑みを、フレデリックに向けた。
二人きりの部屋。しっかりとドアは閉めてくれと言われ、フレデリックは従う。
思えばエディレイドは、昔からフレデリックに対して不審な目を向けなかった二人目の王族だった。一人目は――今、アンゼリスカのことしか考えていない。
とは言え――、エディレイドとこうして改まって話をすることなど今までなかった。まして、二人きりでなど。
「頼みがあるんだよ」
エディレイドは開け放してある窓の枠に手をかけた。
見下ろしている。――ここの窓からなら、ちょうど王女が外で初夏の夜の熱気に当たっているのを見ることができるはずだ。
「何ですか?」
「話に聞いているだろう。――君からも、シャールにレイネンドランドへ嫁ぐよう、すすめてやってくれないかな」
フレデリックは一瞬、沈黙した。
シャールコーラル王女の、レイネンドランドとの縁談は、すでに公になっていた。国民にも知れ渡っているはずだ。
だが、シャール自身はいまだに嫌がり、頑として譲らない。
「俺からですか?」
目の前の王子を見て、眉をひそめる。「無理です。我が親衛隊はシャール様のご希望を第一に――」
「シャールではなくて」
エディレイドは遮った。「君の、意見を聞きたい」
「―――」
「君は今回の縁談をどう思うんだい? そんなに悪い話だと思うのかな」
「俺は」
「僕はね」
エディレイドは振り向いた。「シャールとともに、シャールの親衛隊の五人にはレイネンドランドへ行ってもらうのが一番だと思っている」
「俺たちもですか?」
「そうだ。何しろ君たちは自分で志願したほど、シャールを大切にしてくれている。ああいや君は例外だけれど――今は、同じだろう?」
「………」
フレデリックは返事をしなかった。
それを肯定と受け取ったのか否定と受け取ったのか、あるいはどうでもよかったのか。エディレイドは歩み寄ってくる。
そして、彼より背の高いフレデリックの肩に、腕をかけた。耳元に口を寄せるようにして。
「――レイネンドランドでは、天然の紡石が出るはずだ」
ぴくり、とフレデリックの肩が動く。
エディレイドはゆっくりと言葉を紡ぐ。染みこませるように、じんわりと。
「天然石だ。……誰にでも使える。ティエラ人でなくても、願いをこめることができる。これこそ本当の奇跡の石かもしれない」
「―――」
「僕は元々、その研究がしたくてレイネンドランドへ留学していてね」
だが――と、王子は吐息をひとつ。
「志半ばで帰ってきてしまった。続きを行ってくれる人材が欲しい。現地で、しっかりと調べてくれる人間が」
「……わざわざ縁談を使わなくても、普通に人を送り込めばよろしいのでは」
「うかつな人間を送り込めるかい? 僕たちティエラ人が生成した石を滅多に外国に出さないのは、その危険性をよく分かっているからだよ。紡石の危険性をね――」
エディレイドはぽんとフレデリックの肩を叩いた。
「しかし君なら、ティエラ人ではないがよく分かっているだろう? 何しろ本物の生成石をその目で何度も見てきた。君なら、信頼できると思っているんだよ」
「なぜ俺なんですか」
フレデリックは警戒心をにじませて、静かに問うた。
「一番の適任はアンゼじゃないですか?」
「あれは駄目だ、シャールに入れ込みすぎている」
エディレイドは頭を振った。「シャールが否と言うのに抗うことはあるまい。たとえ後々はシャールのためになるものであっても。だが君は、この件を悪い話だとは思わないだろう? たとえシャールが反対しても」
シャールが反対しても――
天然石を、手に入れたいと、思うか?
「シャールのためさ。あれも紡石を生成できないのだから」
王女のため。
――王女のため?
「君は、君のしたいようにしてもいいんだ。フレデリック・ミンスタイン・カシュア」
エディレイドは、一字一句を噛みしめるように、彼の名を呼んだ。
「君の望むように」
「俺が……望むように」
フレデリックは術にでもかかったかのように、うつろに視線をさまよわせる。
エディレイドは、ふ、と微笑んだ。
「実は、シャールの婚約の儀に先んじて僕はレイネンドランドへ行こうと思っている。諸々の用意のためにね。本当は僕と僕の側近たちで行くつもりだったんだが――」
と、窓の方を見て、
「――シャールも連れて行った方がいいんじゃないかと思うんだよ。レイネンドランドはティエラより気候がいい。静養になる。そもそも」
くすくすと王子は苦笑した。
「シャールがあんなに憔悴しているのは、ラストレイン隊長をレイネンドランドに勝手にやったりしたからだろう」
見抜かれていた。フレデリックは緊張する。
「だったら自分もレイネンドランドへ行けば安心するはずだ。ラストレイン隊長が今どんな環境にいるのか分かるだろうし――」
エディレイドの視線は、みたびフレデリックをとらえた。
「君も、ついてきてくれるんだろう?」
当然のことのように。
「そのためには、シャールを説得しないといけないんだ。だから」
頼むよ――と。
じわじわと染みこむ言葉は、留まるところを知らなかった。
「シャール様」
背後から、聞き慣れた声がする。
シャールは振り向かないまま、今日は風がない、鳩が飛ぶ速度も遅い。しかも雨の気配がする――などと考えていた。
今晩のシャールの傍についていた親衛隊員が後ろに下がる。
「シャール様。お話があるんですが」
フレデリックの声は、とても穏やかだ。
なぜ? アンゼからの連絡が途絶えたというのに。
さっきまで一緒に心配してくれていたではないかと、シャールはぱっと振り向いた。かすかな憤りをこめた表情で。
出会ったのは、優しく微笑む空色の瞳。
「エディレイド殿下がレイネンドランドへ先に行かれるそうです」
「兄上が……?」
シャールは焦った。なぜこの時期に兄がかの国に行くかなど、理由は推して知るべしだ。
フレデリックは、シャールの両肩に手を置いた。
「シャール様。エディレイド殿下とともに、レイネンドランドへ行きましょう」
「なんだと……?」
「あちらの方が気候もよいそうです。静養になるでしょう。それに何より、アンゼと近い方がいい」
「本気――で、言っている、のか。フレッド」
「はい」
空色の微笑は消えない。この夜空よりもずっと明るい色。
シャールの夕陽色の瞳が揺れる。レイネンドランドへ行けば、アンゼリスカが今どうしているかが分かるだろうか――?
「何も、行ってしまったらもうご結婚が決定するわけではないんですよ。とりあえずの静養です。あらかじめ、かの国の様子をその目でご覧になるのもいいでしょう」
婚約の儀の日付は迫っていたが、取り消しが効かない時期でもない。
何より、信頼している目の前の青年が。
「行きましょう。俺もともに行きますから」
そう言ったから――
シャールは揺れた。
しかし一度川に投げ出された心は、流れ出したら止まらない。そう、誰にも止められない――
王女シャールとその側近フレデリック、王子エディレイドとその側近五人がレイネンドランドに行くことが決まったのは、橙の二十六日、早朝のことだった。
アンゼリスカからの定期連絡が途絶えた。
「レイネンドランドに見つかった……のか。アンゼ、アンゼ……っ」
シャールは親衛隊長の身を案じ、彼をかの国へ送り込んだことを気に病んだ。
「シャール様、大人しく寝ていなさい。体調がすぐれないんでしょう」
フレデリックが言い聞かせても、シャールは重い体をおして外に出て、空を見上げてはアンゼリスカの飼い鳩を待つばかり。
「アンゼ……」
「シャール様」
もはやフレデリックの声は聞こえていない。
シャールにとって、アンゼリスカは親衛隊長である前に乳兄妹だ。家族同然なのだ。
――無防備に城の外へ出る王女のために、親衛隊員は交替で姫の護衛についた。昼も夜も、決して姫を一人きりにしないように。
フレデリックは自分の無力を痛感した。
橙の二十五日。昼夜を問わず外に出る姫の護衛番を他の親衛隊員に任せたフレデリックは、自室に戻った。
乱暴に親衛隊員の上着を脱ぐと放り出し、上半身裸の姿になると、ベッドへ身を投げ出す。眼鏡がずれて邪魔になり、それもはずして放り出した。
柔らかいマットレスの感触が、やけに苦しい。
しばらくうずくまっていた彼は、やがて体を起こした。
ベッドから足だけを下ろし、座る。
ゆっくりと、胸の前で両の掌をかざしてみる。
願った――光を。
鮮明にイメージした、輝きを。
心の底から、光を求めた。暗い部屋を灯してくれる灯り、心を照らしてくれる灯り。
しかし掌には何も反応はなく、
そして応えるものは何もない。
く、と彼は笑った。
どうしようもなく笑いがこみああげてきた。
「は……ははははは!」
一人きりの部屋に、笑い声が満ちた。彼は肩を揺さぶり笑い続けた。そしてひとしきり笑った後――その空色の瞳から、すっと感情が抜け落ちた。
「――どうせ俺は、ティエラ人じゃないさ」
空虚な声が落ちる。
――この国は居心地が悪いか?
(ええ、居心地悪いですよ)
心の中で吐き捨てた。いくら紡石の技術を重要視しているからとは言え、このティエラという国はあまりに排他的すぎる。
彼が懇意にしている町娘のインルーイ。彼女もその被害に遭った一人だ。彼女は外国から来た学者と恋に落ちた。だが、結婚することは周囲が決して許さなかった。
やむなく別れて。
だから外国人のフレデリックにすがりついた。かつての恋人のぬくもりを求めて。
互いに慰めあうような関係だ。そして二人で捨てられた猫のような声でつぶやくのだ。
「紡石にどれほどの価値がある……」
まるでそれに反応したかのように――
部屋のドアが叩かれた。
フレデリックは訝った。
「誰だ?」
「――カシュア副隊長。ちょっといいかな」
聞こえた声は、意外すぎる声で――
フレデリックは慌てて、脱ぎ捨てた親衛隊服を着直した。眼鏡をかけ、ドアを開けに行く。
「やあ」
エディレイド・バーンスタイン・ティエラが、笑顔でそこにいた。
「ひとつ話があってね――」
エディレイドはいつもの穏やかな笑みを、フレデリックに向けた。
二人きりの部屋。しっかりとドアは閉めてくれと言われ、フレデリックは従う。
思えばエディレイドは、昔からフレデリックに対して不審な目を向けなかった二人目の王族だった。一人目は――今、アンゼリスカのことしか考えていない。
とは言え――、エディレイドとこうして改まって話をすることなど今までなかった。まして、二人きりでなど。
「頼みがあるんだよ」
エディレイドは開け放してある窓の枠に手をかけた。
見下ろしている。――ここの窓からなら、ちょうど王女が外で初夏の夜の熱気に当たっているのを見ることができるはずだ。
「何ですか?」
「話に聞いているだろう。――君からも、シャールにレイネンドランドへ嫁ぐよう、すすめてやってくれないかな」
フレデリックは一瞬、沈黙した。
シャールコーラル王女の、レイネンドランドとの縁談は、すでに公になっていた。国民にも知れ渡っているはずだ。
だが、シャール自身はいまだに嫌がり、頑として譲らない。
「俺からですか?」
目の前の王子を見て、眉をひそめる。「無理です。我が親衛隊はシャール様のご希望を第一に――」
「シャールではなくて」
エディレイドは遮った。「君の、意見を聞きたい」
「―――」
「君は今回の縁談をどう思うんだい? そんなに悪い話だと思うのかな」
「俺は」
「僕はね」
エディレイドは振り向いた。「シャールとともに、シャールの親衛隊の五人にはレイネンドランドへ行ってもらうのが一番だと思っている」
「俺たちもですか?」
「そうだ。何しろ君たちは自分で志願したほど、シャールを大切にしてくれている。ああいや君は例外だけれど――今は、同じだろう?」
「………」
フレデリックは返事をしなかった。
それを肯定と受け取ったのか否定と受け取ったのか、あるいはどうでもよかったのか。エディレイドは歩み寄ってくる。
そして、彼より背の高いフレデリックの肩に、腕をかけた。耳元に口を寄せるようにして。
「――レイネンドランドでは、天然の紡石が出るはずだ」
ぴくり、とフレデリックの肩が動く。
エディレイドはゆっくりと言葉を紡ぐ。染みこませるように、じんわりと。
「天然石だ。……誰にでも使える。ティエラ人でなくても、願いをこめることができる。これこそ本当の奇跡の石かもしれない」
「―――」
「僕は元々、その研究がしたくてレイネンドランドへ留学していてね」
だが――と、王子は吐息をひとつ。
「志半ばで帰ってきてしまった。続きを行ってくれる人材が欲しい。現地で、しっかりと調べてくれる人間が」
「……わざわざ縁談を使わなくても、普通に人を送り込めばよろしいのでは」
「うかつな人間を送り込めるかい? 僕たちティエラ人が生成した石を滅多に外国に出さないのは、その危険性をよく分かっているからだよ。紡石の危険性をね――」
エディレイドはぽんとフレデリックの肩を叩いた。
「しかし君なら、ティエラ人ではないがよく分かっているだろう? 何しろ本物の生成石をその目で何度も見てきた。君なら、信頼できると思っているんだよ」
「なぜ俺なんですか」
フレデリックは警戒心をにじませて、静かに問うた。
「一番の適任はアンゼじゃないですか?」
「あれは駄目だ、シャールに入れ込みすぎている」
エディレイドは頭を振った。「シャールが否と言うのに抗うことはあるまい。たとえ後々はシャールのためになるものであっても。だが君は、この件を悪い話だとは思わないだろう? たとえシャールが反対しても」
シャールが反対しても――
天然石を、手に入れたいと、思うか?
「シャールのためさ。あれも紡石を生成できないのだから」
王女のため。
――王女のため?
「君は、君のしたいようにしてもいいんだ。フレデリック・ミンスタイン・カシュア」
エディレイドは、一字一句を噛みしめるように、彼の名を呼んだ。
「君の望むように」
「俺が……望むように」
フレデリックは術にでもかかったかのように、うつろに視線をさまよわせる。
エディレイドは、ふ、と微笑んだ。
「実は、シャールの婚約の儀に先んじて僕はレイネンドランドへ行こうと思っている。諸々の用意のためにね。本当は僕と僕の側近たちで行くつもりだったんだが――」
と、窓の方を見て、
「――シャールも連れて行った方がいいんじゃないかと思うんだよ。レイネンドランドはティエラより気候がいい。静養になる。そもそも」
くすくすと王子は苦笑した。
「シャールがあんなに憔悴しているのは、ラストレイン隊長をレイネンドランドに勝手にやったりしたからだろう」
見抜かれていた。フレデリックは緊張する。
「だったら自分もレイネンドランドへ行けば安心するはずだ。ラストレイン隊長が今どんな環境にいるのか分かるだろうし――」
エディレイドの視線は、みたびフレデリックをとらえた。
「君も、ついてきてくれるんだろう?」
当然のことのように。
「そのためには、シャールを説得しないといけないんだ。だから」
頼むよ――と。
じわじわと染みこむ言葉は、留まるところを知らなかった。
「シャール様」
背後から、聞き慣れた声がする。
シャールは振り向かないまま、今日は風がない、鳩が飛ぶ速度も遅い。しかも雨の気配がする――などと考えていた。
今晩のシャールの傍についていた親衛隊員が後ろに下がる。
「シャール様。お話があるんですが」
フレデリックの声は、とても穏やかだ。
なぜ? アンゼからの連絡が途絶えたというのに。
さっきまで一緒に心配してくれていたではないかと、シャールはぱっと振り向いた。かすかな憤りをこめた表情で。
出会ったのは、優しく微笑む空色の瞳。
「エディレイド殿下がレイネンドランドへ先に行かれるそうです」
「兄上が……?」
シャールは焦った。なぜこの時期に兄がかの国に行くかなど、理由は推して知るべしだ。
フレデリックは、シャールの両肩に手を置いた。
「シャール様。エディレイド殿下とともに、レイネンドランドへ行きましょう」
「なんだと……?」
「あちらの方が気候もよいそうです。静養になるでしょう。それに何より、アンゼと近い方がいい」
「本気――で、言っている、のか。フレッド」
「はい」
空色の微笑は消えない。この夜空よりもずっと明るい色。
シャールの夕陽色の瞳が揺れる。レイネンドランドへ行けば、アンゼリスカが今どうしているかが分かるだろうか――?
「何も、行ってしまったらもうご結婚が決定するわけではないんですよ。とりあえずの静養です。あらかじめ、かの国の様子をその目でご覧になるのもいいでしょう」
婚約の儀の日付は迫っていたが、取り消しが効かない時期でもない。
何より、信頼している目の前の青年が。
「行きましょう。俺もともに行きますから」
そう言ったから――
シャールは揺れた。
しかし一度川に投げ出された心は、流れ出したら止まらない。そう、誰にも止められない――
王女シャールとその側近フレデリック、王子エディレイドとその側近五人がレイネンドランドに行くことが決まったのは、橙の二十六日、早朝のことだった。
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