月闇の扉

瑞原チヒロ

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番外編

■6つのセリフの御題―「今、幸せ?」 [シリアス]

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 ――時々旅をしていることが怖くなる――

「ああ、ここは……」
 と、最年少の少年が辺りを見渡してつぶやいているのが聞こえる。
「もうほとんどがアレの餌食になった後だったか」
「この様子だと、元から貧困の村だったのでは」
 カミルが少年とは違う方向を眺めながら、目を細めていた。
「そうだな。……肉がついていない貧相な者ばかりになっていたから、見切りをつけたんだろう」
 ああ。いやな言葉だ。
 私は靴先で地面を蹴っ飛ばす。
 乾き切った砂がわずかに飛んだ。硬い。石ばかり転がっている。
 緑の気配がない。
 水の気配もない。
 見渡す限りの乾燥地帯。岩を高く積み上げて造った建物は、雨風をしのぐための屋根がない。
 この地域に雨が降ることは非常に珍しいはずだ。じりじりと暑さが攻めてくるこの地では、風通しをよくする方が利口に決まっている。
 はあ、と息を吐いて、太陽を見上げた。ときに憎らしい天の王者……

 私は生まれてすぐに父とともに旅に出た。だから、今までかつて一度も、一所に長期間留まったことがない。
 そんな私にも大陸はまだまだ広く、行ったことのない場所は多い。何しろ人生の半分は子供時代で、覚えていないことだってあるのだから。
 それでも。
 知っている。
 世界には、こんな場所があることが。

 とても人の住む所ではないのに、なぜか人は住居を造る。その理由を、私は知らない。
 移動するような気力がないのかもしれない。そういう所に住む人々は、決まって少数民族だ。
 あるいは、置いていかれた人々かもしれない。なんらかの理由で。
 今この時代。人間の天敵、"人肉種"がはびこるこの時代。
 少人数で住むことの危険性を、彼らは知っているのかいないのか――

「セレン? どうしました」
 カミルが振り向いて、そう言った。
 苦しいの。
 そんな言葉は胸にしまって。
 長くなった前髪をかきあげた。
「昨日倒した《人型》が、改めて憎らしくなってくる」
 これも、あまりいい感情じゃないわね。自分で思って苦笑した。
 カミルはいたわるような顔をしていた。正直な人だ。
「大丈夫よ」
 微笑もうとしたそのときだった。

 じゃり、と砂利を踏む音がして、私はばっと振り向いた。 
 骨と皮だけ――とは、まさにこのことだろうか。その少女は、五歳ほどのその少女は、崩れかけの建物の陰から、来訪者をうかがっていた。
 人間が残っていた――
 想像以上の安堵感があった。自分の顔がほころぶのが分かる。きっと優しい顔ができている。
 私はかがんだ。おいで、と呼んでみる。手を、差し伸べて。
 少女はぼんやりと、それを見つめていた。
 人差し指をくわえていた。よだれが、唇の端から流れている。
 ……食べ物をあげようか、どうしようか。
 貧困に苦しむ人々に、うかつに手を出してはいけないと言っていたのは誰だったか。
 ――それでも目の前の助けられるかもしれない命は助けたいじゃない!
「ご飯あげるわ、おいで?」
 私はにこりと微笑んだ。
「セレン」
 カミルが制止するように名を呼ぶけれど、無視を決め込んだ。主たる少年の方は、何も言わない。
「おいしいよ? いらっしゃい」
 何度も呼びかけた。
 ようやく少女は、唇を動かした。たどたどしく、紡がれる言葉、は、
「……ばけ、もの、の、なかま……?」
「―――」
 その瞬間、自分がどんな顔をしたかを、私は思い出せない。
 ただ、言葉という言葉すべてが、乾いた空気の中に封じ込められた。
 もう、自分にこの子に言える言葉はないのだと。悟った。自分が《人型》と同じ、人間という姿をしている以上は。
 差し伸べていた手が震えていた。慌てて引っ込めようとしても、麻痺したように動かない。
 少女はまだその手を見つめていて。
 次の瞬間に幼き声が届けてきた言葉を、きっと忘れない。
「……わたしの……ことも、たべて……くれる、の……?」
 引きつったに違いない私の前で、
 少女は逆に、かすかに微笑んだ。
「……わたしも……みんなとおなじにしてくれる……の……?」

 いつの間にか泣き出していた。
 セレン、と青年が呼んで、私を抱きかかえて起き上がらせた。
 彼の胸の中で泣いた。ただ、泣くしかなかった。
 少女の視線を背中に感じる。それは錯覚だったのだろうか。
 けれど彼女の目を覚えている。瞼に焼きついて離れないその目は、あまりにも穢れなさすぎて。
 主は一通りその場所の様子を見た後、苦渋の決断をした。
「残っているのはあと七人。みんな、同じことを願っているんだ」
 だから、それを叶えようと思う――
 そんな残酷なことってない。そんな残酷なことってないじゃない。
「彼らは人間と同じ姿をした怪物が人間を喰らうのを間近で見て、もう生きる気力をなくしている」
 そんな説明をされたって納得できない。たとえ押し付けと言われても、
 人間には無限の可能性があるって、信じたいじゃない。
 暴れる私を、カミルは力一杯抱きしめていた。

 ……少年が結局、どんな方法をとったかを、私は知らない。

 けれど、戻ってきた主は沈痛な面持ちでこう言った。
「最期の最期で……みんな、笑ったよ」
 もう涙を流すことさえ許されないかのような事実で―― 



 その日の夜は、星がとてもきれいだった。
 岩場に腰かけ、天上を見上げながら、らん、らん……と故郷の歌を口ずさんでいた。
「シグリィ様がお休みになられましたよ」
 カミルがやってくる。「あなたも休んだ方がいい。少し寝苦しいでしょうが」
「寝ないわよ」
 私は言った。穏やかに。
「あの村の人たちを送らなきゃ」
 カミルは何も言わずに、傍らに座った。
 ――最期の最期で、みんな笑ったよ。
 今になって、それを見ることができなかったことを残念に思う。
「ねえ……あの村の人たちは、最期、幸せだったのかしら」
 返事はない。答えるほど、彼は愚かではない。
 ふふっと笑った。
「私はね、今、正直言って幸せじゃないかもしれない」
「そうですか」
 慰めも励ましもない。そんなもの必要ない。もう五年も一緒にいると分かってもらえるものなのか。それとも彼と自分の相性なのか。
 だから、訊いた。あなたは――
「今、幸せ?」
 彼の返事には一拍あった。迷ったのではない、呼吸を入れたようだ。
 それは穢れない返事であるはずだから。

「幸せですよ」

 誇りに思える主がいて。手がかかるものの信頼できるパートナーがいて。
 こんな悲しい夜も――
 悲しみを共有できる人々がいて。
「そうね。――そうよね」
 天を仰ぐうち、また目尻から熱いものが流れ落ちた。
 ぐいっと手の甲でこすったら、ふいに夜空を走った流れ星。
 あれは村人の魂だろうか?
 もしそうなら、私は問いたい。

「あなたは、今、幸せですか?」



 ―FIN―
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