月闇の扉

瑞原チヒロ

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第二章 誰がための罪。

28 待ちわびた人

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 空中の女性は、忌々いまいましそうにセレンを見やった。

『本当はお前も外にはじき出すつもりだったのに。お前がその子のそばにいたから――』

「あらそれは残念ね」

 セレンの軽口が止まらない。おかげで二撃目三撃目の爆発が起こる。

 攻撃を重ねるにつれ、女性の怒りが積み上がっていく。丁寧だった口調が、荒々しいものに変わっていく。途中から憎しみの対象はセレンではなくなったようだった。この場にいない誰かへの思いを吐き散らすようにして。

『本当に忌々しい! よくも私の娘を殺した! さすがかつて我が村を焼き払った白虎どもよ、幼い娘に刃を向けるなどと!』

「……?」

 女性の隣の空中に、ぼんやりと別の何かが浮かび上がった。女性と同じように半透明で、女性より小さいその塊は、やがて人の形になった。

 幼い女の子――だろうか。とても明るく笑う子だ。両手をぱたぱたと暴れさせると、そのまま消えていく。

『決して許さぬ。許さぬ、許さぬ許さぬ許さぬ……!』

 狂ったようにその一言を繰り返す。

 荒れた朱雀の力があちこちに爆発を起こし、クルッカの地を抉っていく。しかしそのことさえ、もはや女は気づいていないようだ。

 やがてその力は“結界”を越え、外を荒らし始める。

 ラナーニャは“結界”の外を目をこらして見る。シグリィは、カミルはオルヴァさんは――

『死をもってつぐなえ!』

 女の金切り声――まさしく、あの『殺意』の声――とともに、“結界”の外で激しい爆発が起こった。

「みんな――!」

 ラナーニャは声を張り上げた。セレンが詠唱を始めた。長い詠唱が、こんな状況でも彼女の集中を高め、術を完成させる。

「――の王の道を塞ぐものなし! 雷王の槍よ、すべてを貫け!」

 ど、と重い音がした。セレンの魔力が、女の“結界”と衝突した――

 それは最初は小さな穴。けれどそこに通った力が、穴を押し広げていく。“結界”を、壊していく。

『何だと……!』

鳳凰ほうおうの爪よ!』

 振り向きざま、セレンの杖の先端が空中の女を狙った。
 不可視ふかしのかぎ爪が、空中を切り裂く。女の像が四散する。

 だが、ほんの一瞬のことだった。

『なめられたこと。そのような術で私を消せるとでも思うたのですか?』

 再び像を結んだ女は、セレンを見下ろしてせせら笑う。

「うー。本体はどこよー!」

 セレンがぱたぱたと震える。
 本体、と一瞬ラナーニャの脳裏にその言葉が横切っていく。

 けれど今はもっと大きな不安が彼女の思考を覆い尽くしていて、その言葉の意味を忘れさせた。

「シグリィ、カミル! オルヴァさん……!」

 結界は解けた。まろびでるようにラナーニャは彼らを探して飛び出す。

 暗闇の砂煙で、辺りがまったく見えない。三人は、どこに――

 喉がつまった。不安でたまらない。頭の中で、大けがをして動かない彼らの姿がちらついている。いやだ、いやだ、お願いだどうか無事で、

「――シグリィ!」


 、といつもの声が。


 ラナーニャは立ち止まった。

 前方で、小さな光の球が生まれていた。浮かび上がり始める彼の姿と共に、少しおどけたような声も。

「少しは配慮してほしいものだな。こちとら傭兵たちも守らなければならないんだ」
「シグリィ――」

 喜びに打ち震えるラナーニャは、しかしすぐに口をつぐんだ。

 口調と裏腹に、真剣そのもののシグリィの視線を見て――。



 シグリィの表情が険しい理由はすぐに知れた。

 彼の陰に、かがみこんだ人影がある。地面に片膝をついたカミルだ。そして、
 そのカミルの前で……起き上がれない人物が一人。

「オルヴァ……さん?」

 ラナーニャは駆け寄った。そして、その有様ありさまに息を呑んだ。

 体中から血を流し動かないオルヴァ。カミルの応急処置の手も、心なしか急いているように見える。

「直前に威力はいだんだが、ほぼ直撃だったんだ。私やカミルのように強めの護符を持っていたわけではないから」

 シグリィは小さくため息をつく。「命があるだけ幸運だ」

「……」

 セレンが走ってやってくる。腰の道具袋をあさっているのは、薬を探しているのだろうか。
 ラナーニャは膝をつき、オルヴァの顔をのぞきこむ。

 傷だらけの彼の口元から、ひゅうひゅうとか細い息づかいが聞こえる。とたんに、ラナーニャの胸が苦しくなった。

(どうしてこんなことを……!)

 拳に力がこもる。きっ、とクルッカ跡地に浮かぶ女の像をにらみつける。

 女が眉をひそめるのが分かった。そして、ゆるやかにその右腕を持ち上げ、すっと振り下ろした。

 縦にかまいたちが発生した。シグリィがラナーニャを突き飛ばし、直後に彼自身は後ろにのけぞる。彼らのちょうど真ん中を、刃は駆け抜けていく。

 さらにシグリィがラナーニャに近寄ろうとするのを、二撃目の刃が邪魔をした。

『その娘に近づくな、汚らわしい者よ』

 そして悪態を吐いたその唇が、直後には別人のように優しくなる。

『戻りなさい、神に愛された娘よ。あなたはこちらの人間です』

 耳に響く声はおおらかで、まるで子を包み込もうとするようで。

『あなたのような娘を待っていた、我が妹の生まれ変わりよ。あなたのためなら戦いましょう。我らが神もお喜びくださるはずです』

「――?」

 ラナーニャはようやく体勢を整え、女へと向き直った。「どういう……意味?」

 興味を持ったと思ったのか。女が、初めて嬉しそうな顔をした。

『聞きたければこちらへおいでなさい。我らの待ち人よ』

「……」
「ラナ」

 制止するような声をシグリィが発する。

 ラナーニャは彼の気配と、それから空に広がる女の気配を順に意識の中でたしかめた。

 ……うかつにあの女に近づいてはいけない。分かってる。

 だけど。

(感じるんだ。あの女性ひとに、何かを)

 自分はいったい何を感じているのか。それを知りたかった。

 シグリィを振り返り、うなずく。

 彼は何も言わなかった。ただ、見つめ返してくれた。その視線を胸に焼き付けて、ラナーニャは女に向き直る。

 一歩一歩。クルッカ跡地と歩む足音は重く、緊張で乾いているようにも聞こえた。

 女は満足そうに像を揺らした。

『よい心がけですね。あなたは私が思うよりずっと賢いよう』

「……それよりも、さっきの意味を教えてほしい。私を、待っていたとはどういうことだ?」

『そのままの意味ですよ、選ばれた子よ。神の像の力を引き出せた娘など我が妹より他にいません。神はようやくあなたのような娘を我らのもとに送ってくだされた――』

 大義のときです、と女は囁いた。

『あなたが目覚めた時こそ。我らの悲願――。我らが神をおとしめた、忌まわしき人間たちをあがめる者たちに鉄槌てっついを』

「――」

 ラナーニャはぐっと唇を引き締める。

「それが、あなたたちの、目的なのか?」

です』

 女は笑った。これ以上なく優しい顔で。
 迷いなどなく、自らの考えに一片いっぺんの疑いのない目で。

『あなたの覚醒を神に願わなくては。そのときまで、我々はあなたを守りましょう――、よいですね』

「はい」

 ラナーニャはぎょっと振り返る。

 いつの間にか真後ろに吟遊詩人がいた。まるでラナーニャの動きを監視するような態度で。

 その目の冷徹な輝きが、ラナーニャの背筋に悪寒を走らせる。この青年は今さっきまでサモラに帰ろうと荷物をあさっていたはずなのだ。あんなに取り乱していたはずなのだ。

 それがこんなにも――こんなにも落ち着き払って。

「それが神のおぼしならば。僕は従います、魔女様」

『よろしい。それにしてもユード、汚らわしい気配がずいぶん多いこと。なぜこの血に傭兵などを連れてきたのです』

「お許しを。あなた様が術に引きずり込んだ男二人――万が一にも逃げ出したときには、始末しなくてはと考えました」

『……そう。お前の考えは分かりました』

 たしかに、と女は仕切り直すように強く言葉を紡ぐ。

『私はあの二人を逃がした――。お前の考えすぎとは言えませんね。あいにくと、始末はできなかったようだけれど』

「申し訳ありません」

 ちくちくと責めるような女の声を、ユードは神妙に受け止め、目礼する。
 それを見つめて、ラナーニャはぞっとした。なぜこの青年はこの謎の女性に服従しているのだ?

 唾を飲み込もうとしても何も喉を降りてこない。それでも、はらを決める。

 ――問いたいことは自分で聞くしかない。

「魔女、様。あなたは、いったい何者なんだ?」

 心の片隅の意識が、遠く背後にいる人から片時も離れない。

 シグリィは、この一連の会話を必ず全て聞いてくれている。
 自分にはこの場をどうしていいのかまるで分からない。でも彼なら――

 彼ならきっと、何かを打開してくれる。

 だから。

『他ならぬあなたが聞くのなら答えましょう、娘よ。それに、そこで聞き耳を立てている愚か者たちにも聞かせてやりましょう』

 女の髪が揺れる。愉悦に微笑む動作が生々しい。

『私は今も昔も魔女。名はすでに忘れた――。崇高なる生き神「マリア」の、ただひとりの姉です』

(“マリア”?)

 初めて聞く名前だった。その思いが顔に出てしまったのだろう、女はわずかに寂しそうにまつげをふるわせた。
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